一、
はっ、と目が覚めた。
頭の中にかかっていた霧が、ぱっと晴れたような気持だった。
その瞳が最初に映したのは、雲一つない澄み渡る空だった。
ぼーっとその空を眺めている。どうやら、自分は仰向けに眠っていたらしかった。
「あら、目が覚めたみたいよ?」
右上方から、大人びた女の声がした。
そちらに視線を向けると、適当に着物を着た女が、自分を見下ろしていた。
「大丈夫? どこか痛むところはない?」
艶っぽい声色には優しさがにじんでいた。
「諏訪!」
左からは男の声だ。
その男は必死の形相で、しかし安堵がこぼれ出ていた。
髪を適当に結って、額と首を包帯で巻いている。法被姿のその男は今にも泣きそうだった。
――どうして、泣いている?
ふと、そう思った。そして、
――すわ、とは、だれのことだ?
そんなことを、今更ながらに思った。
彼は――建御名方神は、自分が何者であるか、思い出せなかった。
身を起こす。体が少しだけ軽い気がする。
「まったく。とんでもない無茶をするものね」
「う、ん……?」
「それでも、あなたのその無茶のおかげで、こちら側はひとまず救われたのだけれど」
「えーと……」
「……ちょっと待った宇受女。様子がおかしい」
男が制止した。じっとこちらを見つめている。
「うん? 様子?」
「なあ、諏訪。おまえ、どこか体は痛むのか?」
「あの……諏訪、とは、僕の名前ですか……?」
男が、何も言わなくなった。ぽかんと口を開いているが、何を言えばいいのかわからないのだろうか。彼に聞いても仕方がない。諏訪、と呼ばれた少年はそう思って、女の方に答えを求めた。
「あの、あなたは僕を知ってるんですか? 僕は、どうしてここにいるんですか?」
「……そう、ね。話すには、ちょっと長くなるし、ここに長居しては危ないわ。ひとまず、私を信じて一緒に来てくれる? 悪いようにはしないから」
「危ないって? 長くなるような話っていうのは?」
「質問はここまでよ。とにかく急いで。『穢れ』がまた生まれ始めてる」
女は諏訪を立たせた。立ちあがった諏訪は、女が言っていたことを理解した。
大地のところどころに、どす黒い瘴気が漂っている。腐臭が、かすかに感じられた。思わず、諏訪は鼻を袖で覆う。
「さあ、行きましょう。長話も長居ができない理由も、そこで話すわ。ほら建御雷、ぽかんとしてないでしゃっきりしなさいな」
「……あ、ああ。わり」
建御雷と呼ばれたその男は、気だるげに立ち上がった。
諏訪は女に手を引かれる。ふわり、と体が浮いた。
「え」
「しっかりつかまっててね」
宇受女に抱き締められ、空を飛んでいる。ふわふわとゆったりしたような甘いものではない。
しっかり捕まっていなければ振り落とされるくらいの速さで、どこかへ向かう。
風が冷たい。空から地上を見下ろしてみる。
瘴気に覆い尽くされたその地が、諏訪にはなんだか嫌だった。生理的に、本能的に、『アレ』に手を触れてはいけないと、近づいてはならないと、理解した。
これ以上見ていたくなくて、宇受女を抱きしめ返す。ふくよかな胸に、その顔を押しつけた。むぎゅうっと、息が苦しくなるのも気にしない。「あらら」とあきれたようなおかしいような声が聞こえた。
長い時間、空を走っていた気がする。「着いたわよー」という宇受女の声と一緒に地に足を下ろせた時には、諏訪はふらふらしていた。
「大丈夫か」
今にも倒れそうな諏訪を、建御雷が支えてくれた。
「あ、ありがとうございます……。申し訳ありません。慣れなくて」
「いや、いい」
降ろされた場所は、どこかの社だった。朱色の鳥居が、ところどころ剥げている。石畳の隙間からは伸びた雑草が生え放題だ。昔はきっと荘厳で美しかったのだろう。だけれど、今はもうその面影もない。
「おまえさんにさ、会ってほしい方がいる。その方の話を聞いてくれないか? そこで、おまえさんの知りたいこと全部、答えるからさ」
「は、い」
「フラフラなとこ悪いけどさ、それが終わったら休んで大丈夫だから」
「わかりました。それで、会って欲しい方、というのは」
「こっち」
建御雷が、諏訪を社殿に連れていった。それに続くように、宇受女も社殿へ歩いていく。
美しかったはずの社は、中もくすんでいた。埃っぽくて、思わず諏訪がむせた。
柱も道具も塗装がはがれていたりさびていたりして、威厳もきらびやかさもあったものではない。
そんな朽ちかけた空間に、ひとはしらの小さな女神が立っていた。
緑の黒髪は艶やかで、太陽の形をした髪飾りをつけている、春を思わせるような色彩の着物に身を包んだ、少女のようなはかなげなその神こそ、八百万の神々の頂点。
「いらっしゃい、建御名方殿」
幼さの残る、ころんとした声が、響いた。建御雷と宇受女は、その空間からそっと消えていた。
「あなたは」
「わたしのことも忘れてしまったのね。わたしは、天照大神。お好きに呼んで、建御名方殿」
「は、はい」
「そんなに堅くならなくてもいいのよ。国つ神も天つ神も、同じ家族なのだから。家族を前にして、あなたは緊張するものかしら?」
「い、いえ。ただ、何となくおそれ多い気がして……」
「おかしな方ね。あなたも充分おそれ多いのに」
少女は小さく首をかしげた。
「本題に入るわね。現在、この地は『穢れ』に満ちている状態なの」
「けがれ」
そう、と天照は頷いた。
「『穢れ』というのは、決して滅しないもの。いきものの死、血、汚染、負の感情……そういったものが原因になって、そこに穢れが生まれるの。でも、ほとんどの穢れは自然と浄化するわ。中つ国の地はそういった浄化の力を持ってるの」
「それでは、どうして穢れが中つ国を覆っているんですか」
「浄化とはいっても、許容範囲を越えたら、地の浄化では追いつかなくなるわ。そういう時は、わたしたち八百万の神々や、浄化専門の職に就く人間が浄化するの。……だけれど、それすら追いつかなくなっている状態であるといえるわね。つまりね、今の中つ国は、とても危険な状態、ということなの。おわかりいただけたかしら?」
「なんとなく、は」
「ええ。それでね、今のここは、人間や動物、植物、ありとあらゆる生きとし生けるものが長い時間生きていられないということなの。穢れはまだ全土を侵食しきっていないけれど、もとをたたなければ中つ国はおしまい。ずっと生き続けてきた中つ国の歴史が、消えてしまうことになる」
天照はひと呼吸おいた。
「そこでね、建御名方殿。あなたの力を、わたしたちに貸してくださらないかしら」
「え」
「あなたはね、とても強い神よ。あなたの力を、わたしたちはよく知っている。その力は、中つ国を取り戻すために必要なの。……天ツ神と協力なんて、あなたにとっては嫌でしょうけれど、ここは、共に戦ってくれないかしら」
「……でも、僕は記憶がありません。自分がどんな力を持っていたかだって、思い出せずにいます。そんな僕が、役立つとは思えないです」
「そうね。そうお思いになっても仕方がないわね。でもね、あなたはあなたの知らないところで、中つ国が穢れに覆い尽くされるのを防いでいるのよ」
「どういう、ことです?」
「…………それは、少し説明しづらいわ。とにかく、あなたの力はとてもたいせつなの。穢れを祓うために、中つ国を美しかったころの中つ国にもどすために、わたしに力を貸して」
そういって、天照は深く頭を下げた。
「あの……頭を上げてください。……お気持ちはよくわかります。何も思い出せない状態だったけど、穢れを見て、体が穢れを拒否してました。たぶん、穢れの怖さは覚えてるんだと思います。だから、穢れを一層したい気持ちも、僕には確かにある。……でも、僕はあなたたちに協力できません。今までの僕が、どんな力を持っていたのかも忘れてる。そんな僕に、協力できるほどの力なんてないんです。だから……」
「お嬢」
建御名方の言葉を遮るように、誰かが入ってきた。
その男は、がっしりとした体形で、頭にぼろ布を巻いていた。髪から布、装束まで、ほとんど緑色で覆い尽くされたその神は、天手力男神。
「あら、手力」
天照は、頭を上げた。
「言わせてもらいますがね、私もこの建御名方殿が戦力になるとは思えませんね」
「そうかしら」
「そうです」
手力ははっきりと首肯した。
「今までの記憶がないんじゃ、いきなり戦えっても無理でしょう」
「なら、彼の身柄の保証だけでもできないものかしら」
「問題ありませんが示しがつかない。俺……じゃなくて、私達の活動拠点に置くなら、せめて何かしらの役割を与えないと」
「……そう、ね」
天照は考え込んだ。
建御名方は、自分の隣に立つその男を、興味津々に見上げていた。建御雷よりも体がしっかりしていてたくましい。比べて自分は、と建御名方は自分の胸板をぽすっと触ってみる。手力の足元にも及ばないくらいの貧相な体格が、なんだか悔しかった。
「ならば、戦闘員として教育するという名目にしましょう」
建御名方殿、と天照が向き直る。
「あなたには、これから穢れを浄化する部隊に行ってもらいます。始めのうちは、あなたには何柱かの神々と同行して、浄化の手伝いをすればいい。戦っているうちに、記憶が戻ってくるかもしれないから」
「……ぼく、は」
「もちろん、戦闘がお嫌ならば後方支援に回すことも可能よ。そちらは、弟の月読がよくしてくれると思う」
建御名方は一瞬、答えをためらった。戦うべきか、後ろで補佐をするべきなのか。今の自分ができる、一番最良の方法は何なのか、すぐに答えることができなかった。
だがそれも一瞬だけで、答えはなんとか導き出せた。
「いえ、戦います。足手まといになっちゃいますけど、使い物になるまで、どうかしごいてください」
建御名方は、天照に頭を下げた。
「……ありがとう、建御名方殿。いたらないわたしのために、その力を貸してくださったこと、深く感謝します」
しかし、と手力が割って入る。
「お嬢、それはいいとしても、教育係は誰にするんです? 戦闘部隊の中で、強くて教育もうまい神なんてそうそういやしませんよ」
「あら、適任がいるじゃない」
天照は、その名を微笑んで告げた。