三千世界の鴉を殺し
月が綺麗ですね、と隣に立つ人に聴こえるように呟いた。あいにく今日は月は雲に隠れてしまっていて、綺麗かどうかなんてわかるはずもない。けれど私はそういうつもりで言ったわけじゃないので関係ないのだ。隣で私と同じように夜空を見上げる人は微動だにしない。応えは、なかった。
私はもう一度空に視線を戻した。いつもなら地上を淡く照らす月は厚い雲に覆われており、暗闇しか見えない。
ところが厚い雲、薄い雲。雲同士の陰影がはっきり見える。都会の二十四時間消えない灯りに照らされているらしい。まるで私たちが立つここが月のようだ。それならばもう月はお役御免なのだろうか。暗闇を照らす夜の太陽。その役目が終わってしまったなら、月は存在しなくたっていいんじゃないか。そうならなんて滑稽な喜劇、あるいは悲劇だな。
「……月が、きれいですね」
微かに後半の台詞が震えてしまった。何をやっているんだ。こんなに短い台詞なのに。
自嘲のため息を溢す。もちろん隣に立つ人には聞こえないように。この人は私が私自身を嘲るのを嫌っている。もし聴こえてしまったら、この人は眉をぎゅっ、と寄せて静かな声で叱るのだ。いつもの声よりちょっとだけ柔らかさが抜けた声が、流麗に音を紡いでいくのは、普通に怒られるのより怖く感じる。
でもそれは、私のことを大事に思ってくれている証なのだ。
私は頬が濡れていることに気づいた。雨でも降りだしたかと思って見上げても、どんよりとした雲がかかっているだけ。一応ベランダの柵から道路を見下ろしても、通り過ぎる人たちは傘を差す様子も、帰路を急ぐ様子もない。この時ようやく、私は泣いているのだと理解した。
「つき、が」
私は結局、最後まで言えなかった。家のベランダだが外だというのは変わりないので、声を押し殺して泣いた。ぼたぼたと落ちる涙が、黒い服にもっと黒く染みをつけた。ずるずるとその場に座り込んで、膝を抱えて顔を埋める。止まらない苦しみが、涙という個体を得て、身体の外に出ているみたいだった。けれど、涙が出れば出るほど、苦しみは湧いて来るようだった。
私は顔を埋めたまま、隣に腕を伸ばした。案外近くにあったのか、それほど伸ばさずとも固い部分に手が当たった。それを掴んで、両手で抱え込む。
そろり、と顔を上げて、抱え込んだそれを見つめた。目の前で向日葵のように笑う彼は、本当に楽しそうだった。こっちはこんなにも悲しくてたまらないというのに、何だかふつふつと怒りが沸いてきたが、しかしこの怒りは理不尽なものである。そう思ってなんとか押さえた。
これ以上見続けていると、また怒りの感情を覚えそうだったので、そっと目を瞑った。
瞼の裏では様々な情景が浮かんでは消えていく。家の近所をあてもなく散歩したこと。結婚記念日に隠れ家風のお店で食べた夕食。休日に日当たりのいいリビングでお昼寝したこと。彼が口癖のように私に言っていた、言葉。
―――月が綺麗ですね。
「私、死んでもいいわ」
瞼の裏で、彼が誘うようにうっそりと笑った。
未亡人さんが抱え込んだのは遺影です。隣に立つ人っていうのも遺影のこと。ちょっとヤンデレ臭がするのは一般人Aのいつものこと。これが気に入った人は一般人Aと握手!