75:白銀と黄金
罅割れた視界から吹き上がった銀の焔。
それが己へと襲い掛かった瞬間、ライトは反射的に己の顔を庇っていた。
本能に従って行われた反射行動は、必然的にライトの視界を一時的に奪い、全てのものを覆い隠す。
避ける事は叶わない銀の焔――しかしそれが吹き荒れたにもかかわらず、ライト達が熱を感じるような事はなかった。
予想していた衝撃もダメージも無く、ライトが困惑した表情を浮かべた――その、瞬間。
『――ようこそ』
『――待ってたよ』
――響き渡ったのは、どこかエコーの強いマイク越しに聞いたかのような、反響する声。
聞き覚えのない、けれどどこか懐かしさを感じるようなそれに、ライトはすぐさま視界を覆っていた腕を下ろす。
同時、隠されていた景色がライトの目に飛び込み――少年は、言葉を失っていた。
いつの間にか、背中にしがみついていたはずのヒカリが隣に立っていた事にすら気づかず、二人はただ呆然と広がった景色を見つめる。
――天空に広がるのは、雲どころか太陽すらないにもかかわらず、昼のような明るさで大地を照らす蒼穹。
――足元に広がるのは、ガラス張りのような床の果てに広がり続ける、無限の宇宙。
そしてそんな限りなく広い世界の中、ガラスで出来た半球状のドームの中心に、二人の人影が存在していたのだ。
丸テーブルに着き、ライトとヒカリをじっと見つめる者たち。その強い存在感に、二人は一瞬で意識を飲み込まれていたのだ。
『割と待った気もするな』
『でも、思ったよりも早かった気もするね』
響く声。にこやかに交わされる二人の言葉。
一人は、黒き衣と白銀の装甲を持つ、銀髪銀眼の男。
一人は、白き衣と黄金の薄布を纏う、金髪金眼の女。
彼らの言葉を耳にしながら――ヒカリは、何とか言葉を絞り出していた。
「貴方、たちは……《魔王》、それに、《女神》……?」
何故そう思ったのか、そんな根拠は全く無い。
けれど、ヒカリはある種の確信を持って、その言葉を口に出していた。
そしてその言葉を聞いたライトもまた、納得して二人の姿に目を向ける。
理由も無い、突拍子も無い言葉だろう。だが――この、あまりにも圧倒的な存在感を持つ二人を、それ以外に形容する事など不可能だった。
そして、対する二人もまた、ヒカリの言葉を否定する事無く、優しげな笑みを浮かべていた。
『資格を持つ貴方達』
『力を持つお前達』
《魔王》と《女神》は、再び言葉を紡ぐ。
その瞬間、どことなく《霊王》を前にした時と同じような圧迫感を感じ、ライトは思わず息を飲んでいた。
けれど、《霊王》の時とは違い、その身を押し潰されそうなほどの強烈な力を感じる訳ではない。
力が弱い訳ではない。ただ、包み込まれるように感じる力に、ライトは困惑を隠せずにいた。
そんなライトの困惑を読み取っているかのように、《魔王》と《女神》は笑みを浮かべる。
あまりにも優しい、けれど同時に、人間らしさを感じる事が出来ない笑顔。
『そんな貴方達だからこそ』
『ここに辿り着く資格を得た』
周囲に広がるのは無謬の空。
果てなど見えぬその世界の中心で、白銀と黄金の二人は、ただ淡々と言葉を紡いでいた。
しかし、それは事務的な演技というわけではない。
口調こそ平坦なものの、二人の言葉の中には、確かな慈しみの感情が存在していた。
『さあ、資格を得た子達』
『お前達の望みを、俺達に示せ』
手を差し伸べるように、《魔王》と《女神》はそう告げる。
あまりにも唐突に始まったが故に、その言葉にも反応し切れなかったライトたちであったが、ヒカリは何とか胸中で思考を再会する事に成功していた。
(この二人が《魔王》と《女神》とやらだって事は恐らく間違いない。そして、あたし達がここに招き入れられたのは、あたしたちのレベルが30になったから。けど、こんな事が起こるなんて話、聞いたことは全くないぞ)
現状、レベル30に到達したプレイヤーはかなり少ない。
その為、上級クラスに関する情報も殆ど出揃っていない状態であるのだが、突然このような事が起こるのならば、話題になっていてもおかしくはないだろう。
けれど、どのような掲示板のスレにおいても、このような話は載っていなかったのだ。
(なら、このイベントが発生したのはあたし達だけ? でも、それにも何らかの条件があるはず。あたし達は、偶然その条件に当てはまっただけだろう)
自分達が特別なのだとは、ヒカリは考えない。
結果には必ず何かしらの原因があるのだと、必ず順序立てて思考を行うのだ。
けれど、現状の材料ではそれを判断できない事もまた事実であった。
ならば少しでも情報を引き出そうと、ヒカリは会話を繋げる為に声を上げる。
「あたしたちの望み……なら、あたし達が知りたいのはあたし達の出生の事です! 《霊王》は、貴方達ならばあたし達の出生の事を知っているのかもしれないと言っていました!」
正確には違うのだが、おおよその認識では間違っていない。
そう判断して言葉を省きながら声を上げたヒカリは、変わらぬ笑みを浮かべたままの二人の姿に眉根を寄せていた。
全く表情を変える事のない、ただ穏やかなタカアマハラの主――その片割れである《女神》が、口を開く。
『――本当に?』
「え……?」
『本当にそれが、貴方の願い? この世界に足を踏み入れてまで成し遂げようとした、心の底からの願い?』
その言葉に困惑し、二人は眉根を寄せながら視線を交わしていた。
それがゲームを始めた理由かと問われれば、否としか応えようがないだろう。
そもそも、BBOをプレイし始めた時点では、お互いがこのゲームをプレイしている事すら知らなかったのだから。
けれど、今それが何の関係があるのか――それが、理解できなかったのだ。
しかし、沈黙を保つ《魔王》の横で、《女神》はゆったりと微笑みながら声を上げる。
『聞かせて欲しい……貴方達が持つ願いを。貴方達が貫こうとしている価値観を。それが、貴方達の力になるから』
《女神》のどこか茫洋とした瞳は、目の前に存在しているにもかかわらず、まるで遠い場所に立っているかのような違和感すら覚える。
会話が成り立っているようでありながら、根本的な部分で通じ合っていない。
そんな状況に不快感を覚え、ヒカリは更に口を開こうとして――
――――《■■》――――
――黄金を纏う《女神》は、聞き取れぬ声で何かを呟いていた。その、刹那。
「え――」
「ぅ、ぁ……!?」
突如として湧き上がってきた感覚に、二人は呻きながら身をよじっていた。
痛みがある訳ではないし、苦しさを感じている訳でもない。
――それは、感情の奔流であった。
二人の脳裏に広がったのは、これまで歩んできたいくつもの記憶だ。
幼い頃、ひなたを引き連れていた時の事も。
遊び場を巡っての対立の時、光が果敢に先陣を切り、それを頼斗が支えていた事も。
どんな事でもそつなくこなすひなたを、光が必ず追い抜いていき、頼斗がそんな二人を讃えていた事も。
道が分かたれたときでも、必ず会えると笑顔を見せていた事も。
そして再会した後でも、何一つ変わらぬ在り方に、互いに安堵を覚えていた事も。
「……在り、方」
「そうだ、あたし達は……」
――それを理解したからこそ、以前と何一つ変わらぬように立ち振る舞えたのだ。
合流した直後に、ヒカリがパーティのリーダーとして何一つ躊躇う事無く戦った事も。
ヒカリのため、彼女が全力で戦える条件作りにライトが己を捧げた事も。
全ては、その在り方のために。
荒れ狂う感情は、喘ぐ様な吐息と共に口を開けてしまえば、すぐにでも叫びに変わってしまいそうなほどに強いもの。
それを圧し留めるようにしながら胸を押さえ、視線を上げたライトの視界には、変わらず微笑む《女神》の姿があった。
『いいんだよ。貴方達の心は、とても優しい。貴方達の願いは、恥ずべきものじゃない。とてもとても尊い想い……貴方達がいることを、わたしは誇りに思ってる』
全てを溶かすような、慈愛に満ちた《女神》の言葉。
思わず身を委ねたくなるようなその言葉は、確かに二人の言葉を揺らしていた。
けれど、それ以上に――今二人の中で暴れている感情は、その安寧すらも振り払って余りある、魂の叫びそのものであった。
「あたし、は……! あたしは、太陽に、憧れた!」
そして気付けば、ヒカリはその言葉を口にしていた。
陳腐でありながら荒唐無稽な、子供の戯言とも取れるその願い。
けれど、その内側に含まれた想いは、簡単に口に出していいほど軽いものではなかった。
「あたしには何もなくて、それでも、ライとひなただけはいてくれて……何もないあたしの、何よりの宝物だったから」
己だけが特別なわけではない。天涯孤独な子供など、孤児院を探せば何人かいた。
だからこそ、ヒカリは己を特別な人間であるとは考えていなかった。
けれど彼女には、家族がいたのだ。何も持たなかったヒカリにとって、何にも変えがたい大切なものが。
――故にこそ、護りたいと願ったのだ。
「あたしには力がなくて、ひなたみたいな才能もなくて、ただひたすら頑張る事しか出来なかった。その結果、離れ離れになっちゃった訳だけど……ううん、だからこそ」
たった二人の家族を護るため、ヒカリは誰よりも優秀であろうとした。
何者にも屈さぬ、強い存在であろうとした。
いつでも二人を護り、二人を護れ、行く先を照らし続けられる存在であろうとした。
そしてその願望は――離れ離れになったからこそ、更に強く燃え上がったのだ。
「あたしは、太陽のようになりたい。どんな離れた場所からだって、二人を導く事ができる輝きでありたい。そして……二人だけじゃない、あたしを見上げる全ての人々が、迷わず進み続けられる導となりたい!」
それこそがヒカリの――六木光の渇望する願い。
それは正しく、王者の願いと呼ぶべきものであった。
誰もが迷わず進めるよう、行く先を照らし続ける先導者――それこそが、ヒカリの望んだ己自身の姿だったのだ。
大切な家族が、己の道に迷わぬように。それを願い、望んだ、ヒカリの『価値観』の形であった。
そして――
「そう……そんなお前だからこそ、俺は空になりたいと思ったんだ」
ヒカリに向けて話しながらも、どこか独白のように、ライトはそう声を上げていた。
見上げる空は蒼穹。何者にも遮られる事のない無限の空。
けれど、今この場に広がる空は、ライトの望むものではない――そこに、太陽がないのだから。
「光はいつも先に歩いていく。たった一人で、強がりながら。俺はただ、そんなお前を支えられる人間でありたかった」
ライトの願いは単純だ。ある種ヒカリと同じく、家族を守りたいという願いそのもの。
しかしその願いは、ただ家族を護るという想いのみに純化している。
ヒカリのように多くの人間を庇護の対象にしようなどとは、これっぽっちも考えていないのだ。
己の腕は二つしかない。ならば、二人の家族を抱きしめればいいだけなのだ、と。
「お前が太陽のようであるならば、俺はお前を包む込める空でありたい」
己を見上げるヒカリの姿に、ライトは僅かに口元を緩める。
例え《女神》によって引き出された言葉であったとしても構わない、これは紛れも無い本心なのだから。
そう、胸中で呟きながら。
「お前が輝きたいと願うなら、俺は雲を消し去りお前を際立たせよう」
――人々の中心で、笑いながら声を上げる姿も。
「お前が休みたいと願うなら、雲をかけてお前を覆い隠そう」
――家族しかいない場所でゆっくりと休む、無防備な姿も。
「お前が泣きたいと願うなら、雨を降らせてお前の涙を隠そう」
――指示を飛ばした仲間の背中を見送る、不安を押し殺した姿も。
「ずっとずっと先を進んでいくお前の、隣に立てる人間でありたい。例えどんなときであっても、お前が安らげる存在でありたい。お前と共に、歩んでいく事ができるように」
――護りたいと、願ったのだ。誰よりも強い、輝ける少女の事を。
それこそが、太陽を抱く蒼穹である事を願い、望んだ、ライトの『価値観』の形であった。
いつもならば口に出来ぬような言葉を口にして、けれど気恥ずかしさを感じる事もなく、二人はただ見つめあう。
そんな二人に――どこか意地の悪い、不敵な笑みが届いた。
『ああ、流石だ。素晴らしいな、見立てに狂いは無かった』
声を上げたのは、今まで沈黙を保っていた《魔王》であった。
黒衣を纏う銀色の男は、その口元を笑みに歪めながら、二人へと向けて告げる。
『ならば、それこそがお前たちの力の形となるだろう。忘れるな……いや、忘れる事など出来るはずもないか。それがお前達の、魂の形なのだから』
《魔王》の言葉は、ライト達にとって理解しがたいものだ。
けれど、心のどこか、ひょっとしたら魂とも呼べるような場所で、二人はその言葉を理解していた。
変わるわけがないのだ。この願いは、口に出さずとも変わる事無く抱き続けてきたものだったのだから。
――そして、《魔王》は再び嗤う。
『お前達はただ、それを貫けばいい。変わる事など何もない。ただ――』
『――わたしたちが、それに名前をつけるだけ』
《魔王》の言葉を引き継いで、黄金の《女神》はたおやかに笑む。
まるで、祝福するかのように――
『貴方達の、魂の名前は――』
――その名を、告げていた。
今日の駄妹
「――――――――――」




