次回作『汝、不屈であれ!』予告編
エピローグ、総括、予告編を順番に投稿しました。
視界を埋め尽くす紅。
既に見慣れてしまった赤黒いものではなく、煌々と世界を照らす橙混じりの色。
その色は周囲の空気を犯し、そしてその只中にいる私を蝕んでいく。
――炎。その危険性は、十二分に承知していたはずだ。だが、今こうなってしまっては意味も無い。
「はぁっ、はぁっ……!」
呼吸が荒い。だが、息を吸うたびに焼けた空気が入り込み、肺を内側から焦がしていく。
しかし、それでも息を吸わずにはいられない。既に、周囲の酸素は少なくなってしまっているのだろう。いくら息を吸ったところで、呼吸は楽にはならなかった。
どうしようもないジレンマだ。唯一の解決策は、すぐにでもこの炎の中から逃げ出す他にはない。
分かってはいるのだ。だが――最早、逃げ道はどこにもない。
「く、そ……だが……!」
分かってはいる。既に助かりはしない。
この建物の内部構造は把握している。幾度も訪れたショッピングモールだ、案内板など見ずともあらゆるものの場所は思いつく。
だが、この火災の中ではそうも行かないだろう。
崩れ落ちた瓦礫、閉ざされた防火扉、非常口の案内も既に焼け落ちてしまっている。
分かってはいるのだ――だが、それでも。
「必ず、助ける……もう少しの、辛抱だ、お嬢ちゃん……私が、必ず」
――この手の中には、護らねばならぬ命がある。
水で濡らしたコートに包まれた、一人の幼い少女。
既にコートを湿らせている水分も蒸発しかかっていたが、まだ何とか彼女の身を護ってくれていた。
彼女の意識は既にない。酸欠と暑さによって朦朧としているのだろう。だが、まだ死んではいない。
ならば、救わねばならないだろう。この子は、私の部下の娘なのだから。
「そう、救う……救うんだ……あいつを、あの馬鹿者を……私のようにしては……」
うわごとのように呟きながら、炎の中を縫うようにして進む。
自分が呟いている言葉も、あまり理解はできていない。ただ、私の脳裏にあるのは、かつて私が護れなかったものの姿だった。
かつて、私は大切なものを失った。妻と、幼い娘を――何物にも代えがたい、私の宝物を。
きっかけは些細なことだっただろう。刑事としての実績もそれなりに積み、犯罪者を捕らえた経験も幾度もあった。
正義感に溢れるほど若かったつもりはないが、それでも刑事としての誇りと自負は持っていたつもりだった。
だからこそ、気づけなかったのだろう。我々の行いは、例え正しくあったとしても、それを憎む存在があるということを。
「もう、二度と……私は……」
強盗殺人と、一言で片付けてしまえばそれまでだろう。
私は護るべきものを護れず、失意と憎悪の感情を、己の職務にぶつけ続けていただけだ。
都合は良かった。私の仕事は、犯罪者を捕らえることなのだから。
そのためならばどのようなことでもした。必要悪を受け入れ、外道を狩り、時に危険を冒しながら自己満足を続けていた。
『狂猟犬』などと犯罪者の間で噂され始めたのはいつの頃だったか。
呼び名などはどうでも良かった。そうして有名になることで、奴らが恨んで自分から向かってくるのであれば都合がいい、ただその程度にしか考えていなかった。
警戒して離れていく連中もいたが、そういった連中は逆に動きが読みやすい。捕らえるのも難しくはなかった。
実績を積み、けれど幾度もの危険・越権行為から、役職は万年巡査部長止まり。
しかしそれでも、付いてこようとする部下はいた。私の危険行為を止めようとしてくれる男はいた。私のような愚か者を、『おやっさん』などと呼んで慕う馬鹿な男が。
私は当の昔にブレーキを壊してしまった男だ。だが、彼はそうではない。
だからこそ――この娘を死なせてはならない。あいつを、私のようにしてはならない。
私のようなものは、私一人で十分だ。
「だから、私は――」
『しかし、お主には何も出来ぬじゃろう』
ふと、声が響いた。
鈴の音を鳴らすような、幼い少女の声。
酷く古風な話し方のその声は、灼熱に包まれたこの場で、いっそ涼しさすら感じるほどに冷静だった。
幻聴だろう。或いは、今際の際に聞いた神仏の声か。
私自身が死ぬのはいいだろう。だが、まだここで倒れるわけにはいかない。
霞む意識を必死に繋ぎとめながら、私は歩を進める。
『ただの人間、衰えた男。何も出来るはずがない。お主は、ここで燃えつき朽ち果てる運命じゃ』
再び、声が響く。
エコーの掛かったような、不思議な声音。
その幻聴を無視して、私は歩き続ける。
だがそれでも、燃え盛る炎の音を無視して届く声は、私の耳をくすぐっていた。
『諦めても良いじゃろう。お主は良く頑張った。人ではあり得ぬほどの努力じゃよ』
「だが……それに意味など、無い……」
一つの言葉に、無視することができなくなる。
諦めろと、この声はそう告げた。己の命を、この少女の命を諦めろと。
己の命などどうでもいい。だが、私が諦めた瞬間、この子の未来は全てが失われるのだ。
認めるわけにはいかない。この場において、実を結ばぬ努力など何の意味もない。
「諦めない……私は……諦める、訳には……いかない……!」
『最早手はない。ここから逃げ出すことは、お主には不可能だ……それでも、諦めぬのか?』
「無論、だ……絶対に、諦めは……しない!」
亀裂の走る音。決定的な破滅を告げる音が聞こえる。
床か、天井か。どちらが崩落したところで、助かりはしないだろう。
だからこそ進む。立て続けに響く崩壊の音を聞きながら、ただ前へ。
だがそれでも、音は止まらず。天井は、その瞬間に炎を吹き上げながら崩落し――
『――お主の魂、しかと見届けた!』
――唐突に、涼やかな空気が周囲を包み込んでいた。
音が止まっている。何もかも。崩落の音も、炎の音も、何一つ音がない。
否、音だけではない――全てが止まっているのだ。崩壊しようとする天井も、揺らめく炎の渦も、まるで時が止まったかのように動きを停止している。
ただひとつ――目の前にいる存在だけが、この異常な空間の中で動き続けていた。
『素晴らしい……その強き想い、朽ちぬ魂。お主こそが我が糧に相応しい』
「……お前は」
それは、異常な姿の少女だった。
年の頃は十歳にも満たないだろう。着崩した橙色の着物だけを纏う、幼い少女。
この危険な空間を、まるで散歩するかのように裸足で進む彼女の異常は、それだけに留まらなかった。
「……驚いた。近くの神社から神仏が抜け出してきたのか?」
『くくく、似たようなものではあるよ。妾の名は千狐……お主の言うとおり、神仏や精霊の類じゃよ』
耳と尾が生えている。その名前から考えるに、恐らくは狐のものだろう。
近くに稲荷神社などあっただろうか――益体もなくそう考えながら、私は彼女の姿を見つめる。
黄金とも違う。どちらかと言えば銅に近い――だが、まるで燃えて赤熱しているかのような、輝く毛並み。
後頭部でくくられた髪は八条に分かれながら、まるで炎のように輝き揺らめいている。
瞳孔の切れ上がった紅の瞳を輝かせる彼女は、私にゆっくりと近づきながら声を上げていた。
『お主、妾と取引をせぬか』
「取引……? 一体、何をしようというんだ?」
現実感のない光景であった。
けれど、疑問などを抱いている暇はない。
私が今すべきことは、抱えているこの少女を護ることだけなのだから。
今こうして、異常な状況ながらも体を休めることが出来ているのは、何よりも有益なことだ。
そして、この状況を創り上げているであろうこの神仏ならば、私にもできぬ何かを成し遂げることができるのかもしれない。
そう考え、私は千狐の言葉を待つ。彼女は、どこか楽しげに笑いながら、その取引とやらを口にした。
『お主が全てを差し出すならば、その娘を救えるだけの力を貸してやろう』
「……もっと具体的に話してもらいたい」
すぐにでも飛びつきたい気持ちはある。
だが、下手に返事をして、この子に危害が及ぶようなことがあってはならない。
千狐の力を借りることは確定だ――だが、その条件は精査する必要があるだろう。
そんな私の思いを読み取ったのか、にんまりとした笑みを浮かべ、千狐は言葉を続けた。
『妾が求めるものはお主自身。お主の、その強い意志を持った魂じゃ。それを差し出すならば、ここから抜け出すために力を貸してやろう』
「……この子に影響は?」
『ない。妾が興味を持っているものはお主だけじゃ。その娘子を救うことがお主の心残りであると言うならば、それを果たさせねばお主は妾の元に来ぬじゃろう?』
「そう……だな。いいだろう」
対価となるものは私自身。ならば、命だろうと魂だろうと、いくらでも捧げてやれる。
命も魂も、惜しくはない。こうして、救うべきものを救って果てることができるなら、幸福であると言ってもいいだろう。
だからこそ、私は確かに、千狐の言葉に頷いていた。
そして、そんな私の表情に、狐の少女はどこまでも楽しげに笑い声を上げる。
『くく、くははははははっ! 見込んだとおりの男よ! ならば、妾の手を取れ!』
言って、千狐は私に向かって手を差し伸べる。
小さな、人間と変わらないように見える掌。そこへ、私は火傷にまみれた己の右手を伸ばし、重ねていた。
瞬間――
「ぐ……ッ!?」
私の手の中へ、灼熱の感覚が入り込む。
痛みはない。だが、燃えるように熱い。
指先から、掌から、入り込んでくる何かが私の体を作り変えていく。
その灼熱に耐えながら、私の耳は確かに、千狐の言葉を聞いていた。
『今のお主の体では耐え切れんだろう。故に急ぐがいい。その力がある内に、この炎の中を駆け抜けるがいい。今のお主であるならば、決して諦めぬ気高き男であるならば、その命を燃やし尽くしてでも、その娘子を救えるであろう』
熱い。右腕が、体中が――そして、周囲の大気までもが。
千狐の姿は消えている。周囲は先ほどと同じ、炎に包まれたショッピングモール。
崩れ落ちようとしている天井も、何もかも同じ。
ただ――千狐より齎された、右腕の灼熱だけが変わっていた。
「お、あああああああああああああああッ!!」
叫ぶ。灼けた空気に喉と肺を焼かれながら、それでも。
右腕が燃えるように熱い。まるで己の体ではないような感覚がある。
だがそれでも、この右腕は私の思い描いたとおりに動き、崩れ落ちる天井へと向けて突き上げられていた。
私の右手は、落下してくる瓦礫と衝突し――その全てを、跡形もなく消し飛ばす。
「……進め、救え、絶対に!」
理解など後回しでいい。己がすべきことだけを見つめろ。
足を踏み出せ。右腕を振るえ。障害を悉く打ち砕け。
左腕の、小さな命の感覚を確かめながら――私は、炎に包まれた瓦礫の中へと飛び込んでいった。
そして――――
連載開始は三月以降の予定です。