158:エピローグ
毎年歩いている春の空は、桜並木に遮られ、淡い色を映し出している。
その向こう側へと思いを馳せながら、嶋谷賢司――ケージと名づけられたアバターのプレイヤーである彼は、大きなビニール袋を両手に目的地へと向かってゆっくりと歩を進めていた。
あのゲームの騒動からは、既に数ヶ月が経過している。
その間、BBOは相変わらず運営され続けていたが、《タカアマハラ》は既にその運営から撤退していた。
管理技術、開発のノウハウなど、そういったものを全て提携会社に提供し、姿を消していたのだ。
世間からは賛否両論、様々な声が上がったが、賢司は彼らの行動に対して疑問は抱いていない。
(目的は達成した、と言うことか……純粋にゲームとして楽しむなら、その方がいいんだろうな)
BBOはただのゲームではない。その認識は最初から持っていた。
そして、タカアマハラの頂点に君臨する者たちの思惑を知ってからは、この展開も予想していたのだ。
レイドボスである《守護の四権》は同等のデータを持ったNPCに置き換えられ、一見した上では何も変わらない仮想世界。
だが、タカアマハラの面々が、既にその世界に対する興味を失っていることは、知る者の少ない事実であった。
結局のところ、彼らは世間の様子など気にすることもなく、ただ周囲を混乱させながら自らの目的を達成したに過ぎない。
「……だから苦手なんだよな」
「賢司君? どうかしたの?」
誰に対するでもなく呟いた声に返答が掛かり、賢司は上向きだった視線を降ろす。
桜並木の中、その幹に背を預けていたのは、あの世界では誰よりも活躍したと言える篠澤姫乃その人であった。
彼女に対しては僅かな負い目を感じながら、それでも彼女に伝わらぬよう笑みで消し去り、賢司は声を上げる。
「別に、単なる独り言だ。それより、ここで待ってたのか?」
「荷物多そうだったから、手伝おうと思って」
「こっちは一応従業員だぞ? ケータリングだって仕事の内だ」
「いいからいいから」
上機嫌な様子で荷物を預かる姫乃の様子に、賢司は思わず苦笑する。
この行動が言い訳の一種であることは理解していたのだ。
単に二人の時間を共有したいだけである彼女を微笑ましく見つめながら、再び目的地へと向けて歩き始める。
その途中で、姫乃がふと声を上げていた。
「ねえ、賢司君……本当に、これで良かったのかな?」
「あの二人のことか?」
「うん……先輩達が自分で選んだ結末だって言うのはわかってるんだけど」
姫乃の言葉に、賢司はBBOで誰よりも騒動を巻き起こしていたギルドの面々を脳裏に浮かべる。
彼らは本当の目的に辿り着き、そして己自身の答えを見つけ出した。
それは誰にも否定は出来ないし、賢司自身するつもりなど一切ない。
だが、それでも、考えずにはいられないのだ。
タカアマハラに利用され続けた彼らは、本当にあれで納得しているのか、と。
そんな胸中の思いを、賢司は苦笑と共に切って捨てていた。
「納得してるんだろうさ。だから、あの答えを選んだんだろ。あいつらの心境は、それこそあいつらにしか理解できない。俺たちにできるのは、それを支持することだけだ……少なくとも、今回は一方的に結末を提示されたわけじゃないんだからな」
「そう……だよね」
どこか納得できていない様子ではあったが、姫乃はそれでも首肯していた。
口出しできないことは分かっているのだ。彼らにとっての幸せは、彼らにしか分からないのだから。
「それに、すぐに分かるさ」
「ん? 賢司君?」
「ほら、到着だ。見てみろよ」
目的地に到着し、賢司はその中を視線で示す。
疑問符を浮かべながらも姫乃はその向かう先を追い――僅かに目を見開いて、そして笑みを浮かべていた。
何故なら、そこには曇った表情など一切存在していなかったからだ。
「お、おおお! 凄い! いいぞなつめ、こっちこっち!」
「ああ、その調子だ! ほら、こっちに来い!」
「頑張ってください」
「むぅ。何か、私、赤ん坊、扱い……!」
車椅子を背後に、今にも転びそうな様子で歩く一人の少女。
転びそうになった時にはいつでも支えられるように付き添いを置きながら、彼女はゆっくりと、小柄な少女へと向けて歩いていく。
萎えた足ではバランスを取ることが難しい。一度体勢を崩してしまえば、立て直すのは至難の業だろう。
だからこそ、彼女は慎重にバランスを取りながら、一歩一歩確実に足を進めていた。
そしてその手は、長い時間をかけながらではあるが、待ち構えていた少女の手を掴む。
その瞬間、周囲からは大きな歓声が上がっていた。
「にはは! おめでとう、なつめ! 凄いぞ、もうこんなに歩けるようになったのか!」
「うん……光に見せたかったから、頑張ったよ」
「無理したからって早く良くなるもんではないと思うが……大したもんだ」
「姉さんに見せる機会なんて中々ないでしょうし、仕方ないのでは? でも、本当に頑張ったみたいですね」
中心にいたのは、必死に歩いていたなつめを迎え入れた三人。
頼斗、光、ひなたの三人は、施設の子供達を含めた人々の中で、ただ楽しそうに笑っていた。
そんな彼らの様子を眺めながら、賢司は小さな笑みと共に姫乃へと告げる。
「ほら、ヒメ。歓迎も済んだんだし、そろそろ行こう」
「あ……う、うん!」
手に持ったビニール袋を――喫茶店である『コンチェルト』から以って来た料理やデザートの数々を掲げながら、賢司は集まる一同へと近づいていく。
今日は、花見を兼ねたオフ会として、『碧落の光』と『コンチェルト』の面々が集まってきていたのだ。
今回は部屋ではなく敷地の一部を借りているため、参加者はギルドの面々だけではなく、施設の子供達を含めてと言うことになっていたが。
「お疲れさん。料理の準備は終わったぞ」
「お、配達お疲れ! よし皆、シートの準備だ、できるな?」
『はーい!』
賢司と姫乃の手から渡された料理は、子供達によって花見の会場である桜の木のほうへと運ばれていく。
転ばないかとハラハラしながら見守る姫乃を隣に、賢司はその場の面々のほうへと視線を向けていた。
ここにいるのは頼斗、光、ひなたの三人に加え、弾となつめである。
同じギルドのメンバーである弘幸と愛莉は、子供達に連れられて会場の設営に向かった様子であった。
車椅子へとなつめを戻している弾を横目に、賢司は光に接近して声をかけていた。
「相変わらずだな。調子はどうだ?」
「にはは、変わらないさ。あたしたちがそう望んだんだから」
その返答に、賢司は僅かに視線を細める。
それこそが、頼斗たちが《魔王》に対して返した答えであったからだ。
「何も変わらない。あたしたちは今までどおりに生活して、そしてあたしたち自身で選んで決めていく。支援だって要らない。あたしたちは、普通の人間でいいんだ」
《魔王》が提示した選択肢とは異なる、言うなれば今までと完全に同じ状態に戻るという選択。
決して楽な道ではない――ある意味では、最も過酷な道を選んだ二人に、賢司は思わず問いかけていた。
「どうしてそうしようと思ったんだ? あの人たちは、マトモでこそないが、約束は必ず護る。あんた達を支援すると言った以上、必ず力になってくれていたはずだぞ?」
「そうかもしれない……だが、俺たちはこれでいいんだ、嶋谷。俺たちは、こうして生きるって決めたんだ」
人間ではなく、道具として生まれた。だからこそ、これからは人間と変わらぬ生き方をしたい。
それは、普通の人間に対する憧れのような感情にも近いものであった。
「ただでさえ、おかしな力を持ってるんだ。これ以上の優遇なんて必要ない。確かに将来的には大変だし、欲しいものを手に入れるにも苦労するだろうさ。それでも……あの人たちの力に頼ってたんじゃ、人として生きているなんて、胸を張っていけやしない」
「……成程な」
頼斗の言葉に、賢司は小さく笑いながら頷いていた。
余人には理解しがたい感情だろう。楽に生きられるならそれでもいいじゃないかと、そう思う部分は賢司にもある。
だがそれでも、それはあくまで彼らの人生だ。
生まれてから三年間、その時間を全て利用されていたにも等しい頼斗たちにとって、誰にも干渉されない、自分自身の意思であると胸を張って歩けることは何よりも重要なのだ。
将来的に後悔することはあるかもしれない。だが、それまで含めて人間だと、頼斗は宣言してみせる。
だが――
(嘘ではないが、それ以上の理由は別にある、ってところだろうな)
ちらりとひなたの姿を視界に映し、賢司は胸中で苦笑していた。
三人ともが納得している。ならば、これ以上の質問は必要ないだろう。
その意思を込めた視線を姫乃に向け、賢司は僅かに首肯する。
動作に込められた意思を理解した姫乃は、少しだけ驚きながらも、同じように頷いていた。
「ほら、いつまでも話してると、料理を勝手につまみ食いされてしまいますよ。早く行きましょう」
「だな。弾、そっちも大丈夫か?」
「おう、さっさと行こうぜ!」
笑顔で言葉を交わし、『碧落の光』の面々は花見の会場へと向かっていく。
その背中を見つめ――
「……ある意味では、意趣返しにもなってるのかもな。なぁ、《魔王》様?」
――賢司は、小さくそう呟いていた。
* * * * *
「ああ全く、その通りだよ」
施設の屋上、その手すりに頬杖を突き、《白銀の魔王》九条煉はそう呟く。
桜の木の下に集まり、笑顔で乾杯をする少年少女たちの姿。
そこに一切の曇りはなく、ただ楽しげな笑顔のみが溢れていた。
そんな彼らを見下ろす《魔王》の視線は、楽しげな色の中に、どこか不満そうな感情を残していた。
「ああ来るとはな。全く、こっちの信条を無視しやがって」
「だめだよ、レン。あの子たちが、そう決めたんだから」
「分かってるよ。干渉はしない、余計な手出しはしない。他の全ての人間と同じだ」
隣で語るのは、《黄金の女神》ミーナリア。
彼女は、どこか寂しげな、けれど嬉しそうな色を交えた視線で、眼下の宴を眺めていた。
頼斗たちに対しては、二人とも特別な感情を抱いている。
例え道具として生み出したとしても、あの二人は確かに煉たちにとっての血族であったのだ。
身内であり、庇護すべき対象であり――強欲なる《魔王》にとっては、常に手の内にあって当たり前の存在だった。
だが、彼らは成長した。そして、自分自身の意思で歩き出すことを望んだのだ。
「いずれ戻ってくるにしても、しばらく手の内から離れることは事実……ったく、面倒なことをしてくれたもんだ」
煉は呟きながら視線を向ける。その先にいるのは、頼斗の隣に腰掛けるひなたの姿だ。
《斬神》の加護を持ち、彼の思惑から頼斗たちの傍に置かれた彼女。
その存在がなければ、恐らく今の結果はなかっただろう。
《蒼穹》と《太陽》は、互いが互いを求めるようにできている。
それは彼らにとって、本能にも近い感覚だ。他の物は必要とせず、ただ互いのみを求める――そんな彼らであったならば、人の形を捨てることに躊躇いなど無かっただろう。
この結末を作ったのは、ひなたであると言っても過言ではない。
「レン」
「分かってるって。あいつらは己の意思で……俺の誘導ではなく、己自身の意思で俺たちの元まで辿り着いて見せた。それだけの覚悟を見せ付けられた以上、余計な手出しはしないさ。俺自身が許せないしな」
「なら、見守ろう、レン。あの子達ならきっと、幸せを掴んでみせてくれるよ」
「ああ……ま、所詮は人の一生だ。そう長い時間って訳でもない。それぐらいの家出なら見逃してやるさ」
笑いながら、煉は手すりに預けていた体を起こす。
口元に浮かぶものは笑み。普段と変わらぬ、不敵な《魔王》の表情。
その表情と視線で頼斗たちを見下ろして、彼は楽しげに告げる。
「言ったからには、手出しはしない。己の力で掴んで見せろ……楽しみにしてるぞ、ガキ共。子供がいない間に、親は楽しませてもらうとするさ」
そして、彼は《女神》を伴って踵を返し――
* * * * *
「――――――」
頼斗は、ふと視線を上げる。
視界の外を感じ取れる不思議な感覚。その力に引っかかった僅かな気配を追うように、その視線は建物の上部へと向かっていた。
だが、そこには何の姿もない。ただ、いつも通りの建物の姿があるだけだ。
「ライ、どうかしたのか?」
「兄さん?」
「……いや、何でもないさ」
――そう、何でもない。
何故なら、自分達は彼らの干渉を否定したのだから。
彼らの行動は関知せず、そして自ら関わることもない。
ただ――
「勝手な人達だけどさ……それでも、感謝はしてる」
誰にも聞こえぬように、小さく呟く。
遥か遠き場所で決別した、己の両親へと向けて。
「産んでくれてありがとう、家族と出逢わせてくれてありがとう――望むものは掴んでみせる、見ていてくれ」
――両隣の二人を抱きしめながら、遠き蒼穹へと誓いの言葉を告げていた。
今日の駄妹
「そう、これこそが……人間であることを選んだ、私たちの限界です。本当に、ありがとうございました」