154:天空に最も近い場所
触れた扉――かつて、氷古龍と出会った時の物と同じ重厚なそれは、三人が触れると同時、独りでにゆっくりと開いていく。
その先に現れたのは、先ほどの空間と比べれば圧倒的に狭い、それでも教室程度の広さはある空間だった。
円形に――否、球形に広がるその空間は、ちょうど足元と同じ高さで不可視の床が広がっているようであった。
銀に輝く紋様が浮かび上がる透明な床に足を踏み入れ、ライト達は困惑しながら周囲へ視線を走らせる。
「これは……ここから、《魔王》達のいる場所に繋がっているのか?」
「そうだと思いますけど……」
「ともあれ、あまり時間はない。皆に時間を稼いでもらっているんだ、二人とも、急ごう」
「あ、ああ」
同じく困惑した様子ながらも、ヒカリは真っ直ぐと正面を見据えて声を上げる。
彼女の視線が向いている先は、この空間の中央。
恐らく、この球形の空間のちょうど中心点に当たるであろう位置――そこには、銀色に輝く炎が浮遊していたのだ。
人魂のようにも見えるが、《識別》してもエネミーであると判定されることはない。
むしろ、何の情報も読み取ることができず、ライトはより強く警戒心を露にしていた。
だが、この空間には、他にオブジェクトと呼べる物体は存在していない。
「やっぱり、アレだろうな……時間がない、行くぞ」
「警戒してるんだが……やるしかないか」
揺らめく銀の炎。見ているだけで引き込まれそうになるような、不思議な輝きを放つそれ。
その不可思議な感覚に口元を引き結びながら、三人はゆっくりと銀の炎へ近づいていく。
熱は感じない。ただその眩い輝きだけが、三人の感覚を支配していく。
触れられるほどの距離まで接近し、けれどその炎に変化はない。
熱を伝えぬそれにヒカリは恐る恐るながらも手を伸ばし――それに触れようとした瞬間、銀の炎は眩い輝きを放ちながら弾けていた。
「っ、何か失敗――」
したのか、と思わず視界を保護しながら叫びかけたヒカリは、ふと体に触れる風の感覚に言葉を止めていた。
閃光によって視界が奪われた一瞬。そのたった一瞬だけで、周囲の様相は一変していたのだ。
僅かに傾き、オレンジ色に輝く太陽。その光によって染め上げられた天空。
眼下には雲海が広がり、それもまた眩い太陽の色に染まっている。
オレンジと、僅かな黒と灰色。その合間から見える景色は、まるで世界を一望しているかのような錯覚を覚える光景であった。
「ここは……ヒュウガの頂上、なのか?」
「恐らくは、そうだと思います……初めてログインした時の、あの光景。あの建物が見えたのも、覚えていますから」
そう告げてアマミツキが指し示したのは、ライト達の後方に存在していた一軒の建物だった。
白く、丸い天井の目立つその建物。天井に開いた隙間より覗くレンズは、それが何の建物であるかを如実に示していた。
「天文台? こんな所に……」
「これが《魔王》と《女神》がいる場所ってことなのか?」
「けど、確かに他には何もないな。周りの景色もいいし、一度飛び回ってみたくはあるけど、そんなことを言ってる場合じゃないか」
目的地だと思われる場所に到着したことを仲間達にメールで連絡し、ヒカリは改めて天文台へと視線を向ける。
扉は開け放たれている。まるで誘われているようなその光景には警戒心を抱かずにはいられなかったが、それでもここまで来て引き下がることはできない。
三人は視線を合わせて頷くと、意を決して天文台へと足を踏み入れていた。
最初に続く廊下を――建物の大きさからすれば不自然に長いそれを抜け、先にある扉へ。
両開きの木製の扉は、手を触れただけで自ずと開き――
「――来たか」
『――来たね』
二つの声が、重なって響き渡った。
男の声と女の声。それは、巨大な天体望遠鏡が鎮座する広間に反響しながら響き渡る。
否――彼らの声が不自然に響いているのは、まるで彼らの声にエコーが掛かっているように感じるためだろう。
空気を伝わる音とは異なる不思議な響きに、三人は反射的にその発生源へと視線を向けていた。
そこに在ったのは二人の人影。
黒く揺らめくローブを纏った女性の姿と、白く堅固な甲冑を纏った男性の姿。
そして二人の中間には、人の身の丈ほどもありそうな巨大な刀が一振り、地面に突き刺さっていた。
天体望遠鏡の台座に腰掛けていた男は、ライト達の姿を認め、ゆっくりと立ち上がる。
それに寄り添う黒い影の声は――どこか、聞き覚えのあるトーンで放たれていた。
『中々、面白い余興だったな。《水魔》を退けここに辿り着くとは、ワタシが期待した通りというわけだ』
「アレには後で言い聞かせておけ。聞くかどうかは知らんがな……さて」
白い甲冑の男が、その黒い瞳を向ける。
身長は2メートル近い偉丈夫。重厚な鎧を纏いながら、その重さを一切感じさせない身軽さで立ち上がったその姿に、ライト達は思わず息を飲む。
ただそこにいるだけで、凄まじいまでの存在感と圧迫感を放っていたのだ。
だが、それに押されているだけでは話が進まない。
唇を噛み締めるように意を決し、三人は男の前へとゆっくりと進み出る。
そんな三人が接近するのを待ち、男は声を上げる。
「まずは、お前達を歓迎しよう。良くぞ、この地まで辿り着いた」
「っ……貴方は、《魔王》じゃない……《斬神》で合っている?」
「確かに、オレはそう呼ばれる存在だ。滑稽だとは思うがな。どうにも、勝手に呼び名が定着したらしい」
自嘲しながらそう返す《斬神》は、その長身で問いかけたヒカリを見下ろす。
小柄なヒカリでは、50cm以上の身長差があるだろう。
大きく見上げなければならないヒカリは若干距離を開けながら、眼前に立つ《斬神》へと問いかける。
「あたしたちは、《魔王》と《女神》……貴方達のリーダーである人物に会いに来た。ここでなら会えると、そう聞いて。それに間違いは?」
「無いな。こここそが高天原の門であり、オレが守護する領域だ。お前達は、この先へと進む権利がある……いや、お前達は進まねばならない」
《斬神》の視線が向かう先は、背後にある天体望遠鏡。
その台座にあるのは、煌々と銀の炎を輝かせ続ける篝火だ。
篝火から視線を外した《斬神》は、再びヒカリたちを見下ろす体勢へと戻る。
そんな彼の、黒く底の見えない瞳からは、ヒカリも感情を読み取ることはできなかった。
「ただの人間が、あいつらに会うことはできない。ただの人間では、例えオレの創造したフィルター越しであったとしても、あいつらの存在に耐え切れないからだ。だが――」
『お前達ならば可能というわけだ。フィルターが無くとも、お前達ならば』
《斬神》とその傍に佇む黒い女性の言葉は、そのままでは理解しがたい内容だった。
けれど、このゲームの中でさえ、現状が異常であるということは三人にも理解が出来ている。
ここは果たしてゲームの中なのか。現実世界であるはずは無い。けれど、けれど。
現実とも虚構とも取れぬ、中途半端な現実感――その先に求めるものがあることを、直感的に感じ取っていたのだ。
「……兄さん、姉さん」
「アマミツキ?」
「どうかしたのか?」
ふと、声を上げたアマミツキに、その場の視線が集中する。
若干気圧されたように言葉を詰まらせるアマミツキであったが、それでも一度唾を飲み込み、呼吸を整え声を上げる。
じっと、台座にある銀炎の篝火を見つめながら。
「私は……あの先へは、行けません」
「な……何を言ってるんだ、お前は! せっかくここまで来たんだぞ!?」
「どうかしたのか、アマミツキ? 何か、分かったのか?」
案ずるような色のあるヒカリの問いかけに、アマミツキは小さく頷く。
彼女の視線は篝火から外され、眼前の偉丈夫へと向け直されていた。
その視線に、強い確信を込めながら。
「この人が言ったとおり、私では恐らく、《魔王》と《女神》との対面は耐えられない。私は、『ただの人間』なんですよ。ユニーククラスを得られなかった私は、彼らと相対することはできない」
「その通りだな。確かに、多少他の人間と異なる部分はあるが……それでも、あいつらの力には耐えられないだろう」
「ですから、私はこの先へは同行できません」
《斬神》の言葉に頷き、アマミツキはそう告げる。
ユニーククラスの正体が一体何なのか。今のライト達はそれを理解している。
故にこそ、そんなアマミツキの言葉を否定することは出来なかった。
だが、納得できないことも事実だ。自分達の過去に関する真実を求め、仲間達の協力を得ながらここまで進んできたのだ。
これまでの苦労を無駄にしてしまっては、彼らに対しても面目が立たない。
とは言え、アマミツキを危険に晒したくないことも偽らざる本音であり、ライトは眉根を寄せて沈黙する。
だが――対するアマミツキは、そんなライトを安心させるように、淡く笑みを浮かべていた。
「大丈夫です、兄さん。きちんと、目的を達することはできますから」
「何? どういうことだ?」
「先ほど、《水魔》が言っていましたから。私は《斬神》の眷属だと」
告げて、アマミツキは《斬神》の漆黒の瞳を見つめる。
感情を映さぬ鉄面皮と漆黒の瞳。瞳は光を反射せず、けれど確かな強い意志力を感じさせるその視線。
それを真っ直ぐと受け止めながら、アマミツキは確信と共に言葉を紡ぐ。
「兄さんと姉さんが、この先に進んで答えを得られるかもしれないように……私は、ここで答えを得られるかもしれない。私とこの人は無関係ではない、そんな確信があるんです」
「…………」
アマミツキの言葉に、《斬神》はただ沈黙したまま目を閉じる。
アマミツキには、その表情がどこか苦笑しているようにも見えていた。
超然としていて、遥か遠い存在であり、けれどどこか人間らしさも残っている。
そんなアンバランスな印象に、アマミツキは共感にも似た感情を抱いていた。
「だから私は、この人から話を聞きたいと思います。この人もきっと答えてくれる。これ以上、煙に巻くことはしないでしょう?」
「……お前がそう求めるならば、応えよう。ここまで、長々と付き合わせてしまったのだからな」
『くふふふ。殊勝な態度じゃないか』
「お前とて、他人事ではないだろう」
《斬神》は黒い影の言葉を斬り捨て、再び瞳を開く。
相変わらずその顔に表情は無い。けれど、確かな感情を感じさせる気配を漂わせながら、彼は頷いていた。
アマミツキの言葉に対し、拒否をするような意思は無い。
それが己の役目であると言うかのように、《斬神》はアマミツキへと告げる。
「だが、オレの話はお前にのみ伝えよう。その先をどうするかは、お前の自由だがな」
「……分かりました。兄さん、姉さん。なので私は――」
「ここで待つ、か……そう、だな。そうした方が、いいんだろうな」
少なくとも、ここまで辿り着いた意味はあったのだ。
仲間達の奮戦が無駄になったわけではない――それを確認して、ライトは頷く。
ヒカリもまた納得した様子で頷き、声を上げていた。
「分かった。アマミツキ、お前はここで待っていてくれ。あたしとライは、この先に進む。それで問題はないんだな?」
『そう、お前達二人が進むならば問題はないさ。《水魔》も気づいていたみたいだがね』
「勘が鋭いことだ……さて。お前達がこの先に進む前に、一つ確かめておきたいことがある」
黒い女の言葉に頷き、ヒカリが篝火へと向かって進み出る――《斬神》の声が掛かったのは、ちょうどその瞬間だった。
その言葉に反応し、ヒカリは反射的に《斬神》の方へと視線を向ける。
彼は、ゆっくりと右手を持ち上げ――その手の中に、まるで初めからそうであったとでも言うかのように、一振りの長大な刀が姿を現していた。
それは紛れも無く、先ほどまで地面に突き刺さっていたはずの刃。
《斬神》は一歩も動くことなく、それどころか手を伸ばすような素振りすらなく、その刀を手にしていたのだ。
「っ!?」
「お前達の出した答え、ここで見せて貰おう」
言い放ち、《斬神》は刃を振るう。
重く、巨大なその刃を、まるで小枝のように片手で振るい、上段へと振り上げる。
その姿にヒカリは思わず目を見開いて硬直し、ライトはほぼ反射的に彼女の前に出て庇う。
そして《斬神》は――二人まとめて両断せんと言わんばかりに、その刃を振り下ろしていた。
今日の駄妹
「果たして、何を教えてくれるのでしょうかね」