153:《水魔》
周囲の景色が一変する。
蛇の鱗が敷き詰められた、巨大な闘技場。
その中央で《水魔》に対して刀を突きつけているプリスは、鋭い視線を向けながら宣言する。
「これで、貴方の力は使わせません」
「技量での真剣勝負を突きつける力、ね。《賢者》あたりに使われたらと思うと、ぞっとしないことは確かよ」
対し、刃を銃身で受け止めているハイドラは、プリスの言葉に対して薄い笑みを浮かべながらそう返していた。
例えレイドボスであるハイドラが相手だとしても、確実な効果を発揮するこの闘技場。
ハイドラとプリスのステータスは全てが平均化され、完全なる互角の状況として戦闘が仕切りなおされる。
けれど――ハイドラに、焦りの気配は一切なかった。互角の力で迫ろうとする切っ先を、回復を終えて周囲から襲い掛かろうとするほかのメンバー達の気配を感じ取りながら、それでも。
「でも……貴方、超越者のことさっぱり分かってないわね」
「分かりません、そんなもの。理解したくなんて無い。私はそのために、この世界で力を使ったんですから!」
「そうだったわねぇ。なら、少し教育してあげましょうか――回帰」
刹那、背筋に氷が入り込んだと錯覚するような気配を感じ、プリスは咄嗟に跳び退っていた。
そんなプリスを追うことも無く、また銃口を向けることすらせずに、ハイドラは嗤いながら手を広げる。
彼女の周囲に渦巻くのは、深く暗い、深遠の如き気配。
――そして天空に昇るのは、あまりにも巨大に映える白銀の満月。
「――《静止:肯定創出・水魔顕現》」
「っ……超越じゃ、ないのに!?」
降り注ぐ月光と、ハイドラの周囲から溢れ出す大量の水。
それら全てが、彼女の持つ《静止》の力によって満たされていることを理解し、プリスは戦慄していた。
あらゆる力を無効化することができるプリスだからこそ、現状動くことが可能なのだ。
他の仲間達は、誰一人として、一歩たりとも身動きが取れなくなってしまっている。
《肯定創出》は、プリスも扱える自己強化の法だ。自分自身の願いを肯定し、自らの在り方を創出する。
あらゆる物体を断ち切る刃は、己の力が不当に無力化されることを認めないプリス自身の在り方であると言える。
だが、それはあくまでも前段階。《超越》と呼ばれる力には、遠く及ばない程度の出力でしかない。
だというのに――
「どうして、無効化されないの……?」
「当然でしょう? 疑問に思うほどのことでもない。貴方とアタシじゃ、願いの規模が違うのよ」
特殊な力を無効化するプリスの超越。
しかし、その中ですら自らの力を満ち溢れさせながら、ハイドラは笑みと共に宣言する。
「超越者の力を決めるのは、力の総量と願いの強さ。その両方で、貴方はアタシよりも圧倒的に劣っている。他人の願いの内容そのものをどうこう言うつもりは無いけれど……相手のことまで配慮するような力を使うようじゃ、それを支える意志の強さも高が知れているってモノよ。《霊王》がどれだけ手加減してたか、貴方に分かる?」
自らの動きが鈍っていることは無い。例え力で劣るとしても使っているものは超越だ。
回帰とはあまりにも大きな出力の差がある――故に、プリス自身の動きが封じられることはない。
それでも、あの水に包まれればどうなるか。それは、想像に難くないことであった。
けれど――プリスは大きく息を吸い、そして吐く。呼吸を整え、意識を鎮め、刀を正眼に構えながら真っ直ぐと前を見据える。
例えどれほどの力の差があったとしても、諦めるわけには行かないのだから。
「絶対に……三人を、行かせて見せます」
「ふぅん。なら、見せて貰おうかしら」
笑みと共にハイドラは呟き――その直後、彼女の足元にあった水は一斉に動作を開始していた。
うねりを上げて殺到する水の塊。それは正に、奔流と呼ぶべき勢いと質量を有していた。
その光景に、プリスは表情を歪めて横へと回避する。
プリスの手にあるものは刀一振りであり、相手は水の塊だ。
刃で水を切ることはできない。たとえ能力を無効化する力を有していたとしても、それで完全に消しきれるかどうかも分からないのだ。
水自体の質量もあり、まともに受ければ行動不能になることは明白である。
胸中でそう反芻しながら駆けるプリスへ、しかしハイドラは容赦なく銃口を向ける。
放たれるのは、紅に輝く魔法の弾丸だ。
「く……っ!」
「ホラ、だから駄目なのよ」
弾丸を斬り払いなおも駆けるプリスへ、ハイドラは一歩も動くことなく水を操りながらそう告げる。
その顔に浮かぶものは嘲笑か、或いは憐憫か。どちらにせよ、徹底的に見下したその声音は変わることなく、プリスへと向けて突きつけられる。
「自分の力が通用しないかもしれない――そんなことを考えている時点で、通用するわけが無いでしょう? 自分の力こそが至高であると、決して届かぬことなどありえないと、そう信じられない時点で、魂が負けているのよ」
反論するような余裕も無く、プリスは必死に闘技場を駆け巡る。
ハイドラは、心の底からそう信じているのだろう。己の力が通じないはずが無いと。
だからこそ、このプリスの展開する能力無効化の空間の中でさえ、まるで影響を受けた様子も無く力を行使しているのだ。
そこには技術も、剣も何も無い。彼女の理はまるで海底そのものだ。
全てのものを飲み込み、沈め、永遠の淵に埋めてしまう。
故に――
「そんな、ものっ……認められるわけが、ないじゃないですかッ!」
プリスは、反転する。
迫り来る水の奔流へと向けて、まるで恐れる様子もなく一歩を踏み出す。
凄まじい勢いで押し潰そうと迫ってきていた水は、瞬く間もなくプリスを飲み込み――その身に触れた瞬間に、消滅していた。
自らの理を否定させるわけには行かないと、ただ己の意思と魂を振り絞り、届かせるために刃を振るう。
踏み出す足は地面に広がる水すらも消滅させ、小細工もなく、一直線に《水魔》へと向かい――
「ほざいたわね小娘が」
――極大の殺意を込めた視線が、プリスの瞳を射抜いていた。
体が、魂が震えるほどに強い感情。
その瞳に、プリスは一瞬とは言え、体を硬直させていた。
そしてその瞬間、再び現れた水の流れが、プリスの足を縛り付ける。
「っ……!」
「認めない? それはこちらの台詞よ。アタシの愛を――彼に対する愛を踏み躙ろうとしているくせに、大した覚悟もなく《斬神》たちの好意に甘えている。だからあいつは嫌いなのよ……いつまで経っても甘いまま、そのくせ全てを思い通りに動かしている」
拘束されたのは足だけではない。
その水に触れただけで、指先一つ動かせなくなってしまっているのだ。
どれだけ力を込めようと、体は僅かにすら反応しない。
それは即ち、《水魔》の力と意志がプリスのそれを圧倒している事実を示していた。
「道を阻むなら、その道を飲み込み凌駕するほどの覇者でなければならない。アタシの道は貴方に譲ってあげられるほど安いものではないわ」
「そう、かも、しれません……」
口を開くことは、声を発することはできる。
それは力によって抵抗しているためなのか、それともハイドラが制限しなかったためなのかはプリスにも分からなかったが。
近づいてくる彼女に対し、為す術など何一つない。
だが、それでも――
「私では、タカアマハラの皆さんに届かない……師匠にも、貴方にも……勝てないことなんて、最初から分かっていました」
「そう決め付けてしまうから、貴方はそこまでなのよ」
「はい、そうです……だから」
――視界の端で、アイコンが点滅する。
表示されるメールのマーク。それにフォーカスし、表示された内容に、プリスは小さく笑みを浮かべていた。
「勝負では、絶対に勝てません。だから……試合の勝利条件は、満たさせてもらいました」
「……何ですって? っ、まさか!?」
プリスの言葉に眉根を寄せたハイドラは、咄嗟に周囲へと視線を走らせる。
空を飛ぶ影はない。元より、ハイドラは己の力でライトとヒカリを拘束できぬことを理解していたため、二人が空中で縫いとめられていることは無いと考えていた。
だが、一切の横槍が入らなかったことを疑問に思うべきだったのだ。
アンズの傍に立っているはずのアマミツキ――そこには確かに、彼女の装備を纏った人影が存在している。
だが、それが彼女自身ではないことは、注視すれば遠目であっても簡単に察知できることであった。
――何のことはない。ただ単に、最初からライトたち三人を、この空間に引きずりこまなかっただけの話だ。
「ゴーレム……! まさか貴方、最初からあの三人を除外していたの!?」
「はい、その通りです。そうすれば、私の超越を打ち砕かない限り、貴方はライトさんたちを追えません」
「それ、どういう意味だか分かってるのよね、貴方?」
超越は、超越者そのものであるといっても過言ではない。
その超越を砕かれることは、即ち超越者自身の魂を打ち砕かれることとも同じだ。
故に、これは自分自身の命を使った足止めに他ならないのである。
それを理解しながら、プリスはなおも声を上げる。
「無理やり突破されれば、私はただではすみません。ハイドラさんなら、それも簡単にできるでしょう。でも……本当にできますか、ハイドラさん」
「貴方……」
「確かに私は《斬神》……アンズちゃんのお兄さんの好意に甘えています。師匠も、菊理さんも、皆さんに良くして貰っています。だからこそ、貴方にできますか、ハイドラさん。自分達の仲間の三人を敵に回して、それでも私を殺して先に進みますか」
例えゲームの世界であったとしても、魂そのものは同じだ。
超越を打ち砕かれれば、プリスは――篠澤姫乃は高い確率で死に至るだろう。
だがそうなれば、ただでは済まされないのは事実だ。《斬神》と《霊王》は決して許しはしないだろう。
これは、自分自身の命を利用した人質だ。一歩間違えれば――ハイドラが感情のままに突き進めば、その時点でプリスの魂は砕かれる。
けれど、プリスには確信があった。
仲間と手に入れた現状を失いたくないと願う彼らならば、決してそのような行動には出ないはずだ、と。
そんなプリスの強い視線を受け止め、ハイドラはしばし呆然とし――そして、耐え切れないというように、顔を抑えながら笑い声を零し始めていた。
「ふふっ、あはははははっ! なるほど、そうか。アタシは、貴方に超越の展開を許した時点で負けていたということね」
「卑怯だとは思いましたけど、でもこれぐらいしか方法が……」
「いいえ、正しいわ。いいようにしてやられた。認めるわよ、この戦いはアタシの負け。無理に通ろうとしたら、あいつらだけじゃなくて《刻守》まで敵に回すわよ。流石に、そこまではやれないわ」
笑みを零したまま、ハイドラは軽く横へと腕を振るう。
その瞬間、天に昇っていた銀月も、周囲に満たされていた水も一瞬で姿を消していた。
無理な体勢で拘束されていたプリスは思わず体勢を崩しかけるが、何とかそれを整えて直立する。
視線を向ける先は、なおも笑い転げているハイドラだ。
「ハイドラさん、今更言うのもなんですけど……どこまで本気だったんですか?」
「ふふっ、別にアタシは、一つも嘘を言ったつもりはないわよ。言ったことは全部本音だし」
「でも……今こうして負けを認めているってことは、アマミツキさんが行くことは、許容範囲内だったんじゃないんですか?」
「さてねぇ」
笑いながらはぐらかすハイドラに、プリスは口を噤んでいた。
どれほど質問したところで、素直に話してもらえるとは思えない。
彼女自身の目的が一体何なのか。そして、三人が先に進んだことで、結果がどう変わるのか。
それを知っているものは、恐らくこの場にはいない。
「ま、この後を楽しみにさせて貰おうかしらね」
くすくすと笑うハイドラの様子に、プリスは僅かに視線を細めることしかできない。
勝ちを譲られた――その感覚はあった。果たして、彼女はどこまで本気だったのか。
意表を突けたことは事実だろう。だが、結局のところ彼女の思惑全てを上回ることができたわけではない。
この先を含め、未来は未だ霧の中だ。
「……ライトさん、ヒカリさん、アマミツキさん」
この場からは見えない、先へと進んだ仲間達の名を口にする。
彼らが進んだ先に待つものは何なのか。それは、まるで予想もできないが――
「……どうか、頑張ってください」
――万感の思いを込め、プリスはそう呟いていた。
今日の駄妹
「成程、こんなことも可能なのですか……色々と試してみたいですね」