00:プロローグ
『――――だぞ!』
声が――小さな声が、響く。
反響するようなそれは、どこから聞こえてくるのかも定かではない。
遠くのようで近く、近くのようで遠い。
それが、手の届かないという意味であるならば――それは、限りなく遠いものであっただろう。
それが、手の中にあるという意味であるならば――それは、限りなく近いものであっただろう。
手を握られている今ならば、彼女を近くに感じることが出来る。
けれど、それはじきに離れていってしまうものであった。
『絶対――――だ!』
それは幼い少女の声。
まだ本当に幼い年の頃であろうに、その言葉にはとても強い意志と力が込められていた。
悲しみに、寂しさに震える声であるはずなのに。
己が半身のようであった友と離れ離れになる、その瞬間の筈なのに。
少女の声の中には、未来への希望と、離別の悲しさが混在していた。
決して、嘆くだけではない。
『いいか、ライ』
読み方が違う、最後ぐらいちゃんと呼べ――少女の声に対し、そんな言葉が空気を震わせる。
憎まれ口のようなその声も、悲しみに震えていて。
ただの強がりにしか聞こえないそれに、少女は愉快そうに笑い声を上げていた。
『にはは。弱虫だなぁ、ライ。けどな、大丈夫だ!』
何の根拠も無く、少女は笑う。
寂しいものは寂しい、辛いものは辛い。けれど、それすらも飲み込んで、少女は涙を流しながらも笑っていた。
太陽のように輝く笑顔で、少女は笑う。晴れやかに、高らかに、未来への希望を謳いながら。
『絶対、あたしたちはまた会える!』
理由も無いのに、自信満々で。そんな彼女の姿を、しかし笑う事など出来なかった。
彼女は常に本気だから。本気で努力して、本気で取り組んで、たとえ失敗したとしても本気で笑う。
絶対に諦めない。どんなに難しい事だって、必ず成し遂げてきたのだから。
その姿はまるで、光り輝き人々を導く太陽のようで。
――少年は、その輝きに魅入られたのだ。
『だから、さよならじゃない! またね、だぞ!』
眩しさに、眼を細める。
差し込んでくる光はあまりにも強く、そして焦がれるほどに暖かなもの。
少年は、必死でそれに手を伸ばし――
* * * * *
「ぅ……?」
差し込んでくる強い光に、少年――三久頼斗は小さくうめき声を上げながら目を覚ました。
白海大学付属中学高等学校、その中央棟の屋上。貯水タンクの陰で昼寝をしていた彼の顔には、移動した太陽の光が当たっていた。
薄目を開けてそのまましばしぼんやりと空を眺め、頼斗はゆっくりとその手を空へと伸ばす。
太陽を透かした手は赤く、その熱を感じ取りながら、しかし掴む事など叶わない。
「空、か……何考えてるんだろうな、俺も」
空に憧れる――そんな子供じみた己の感傷に、頼斗は小さく苦笑する。
けれどそれは、幼い頃から捨てる事の出来ない感情だった。
いっそ空に落ちて行きたいと思うほどに、頼斗は青い空に憧れていた。
今更になってそんな事を思い出してしまったのは、幼い頃の夢を見てしまったせいだろうか。
けれど頼斗は、それを悪い感覚であると思う事は出来なかった。
子供じみていて、荒唐無稽で――それでも、大切な祈りだったから。
「あー……」
寝惚けているな、と再び苦笑。
頼斗は勢いをつけると、日課である放課後の昼寝を切り上げる為に身体を跳ね上げながら起き上がった。
わざわざブルーシートまで敷いて行っているそれは、稀にそのまま天体観測と化してしまう場合以外は常にこの時間で終了している。
あまりゆっくりしていては、スーパーのタイムセールに間に合わないのだ。
今いる場所から降りるため、周囲に人の眼がないかどうかを給水塔の陰から確認する。
とりあえず誰もいない事を確認し、そこから飛び降りようとして――金属製の扉が、轟音と共に蹴り開けられた。
その音にぎょっとして、頼斗は再び給水塔の陰へと舞い戻る。
そしてそれと同時、幾人かの足音と、少女の叫び声が建物の奥から響いてきた。
「いたわよ! ヒメ、取り押さえなさい!」
「うん! 覚悟してください!」
「うおっと! 割と本気で木刀振ってないかお前、何か恨みでもあるのか!」
「無いと思ってるんですか!?」
その声と共に飛び出してきたのは、一人の男性と二人の少女。
男性のほうはともかく、少女二人に関しては、頼斗にも見覚えがあった。
「……篠澤姫乃と神代杏奈?」
この白海中高では割と有名な二人組みである。
見目麗しい少女であるのは確かだが、それ以上に二人には強烈な個性があるのだ。
姫乃はとある人物から古流剣術を学んでいる剣士、そして杏奈は地元の神社の巫女。
去年の文化祭では二人の和装姿が出し物に出され、結果として二人は有名な存在として余計に知られるようになってしまったのだ。
そしてそんな二人に、一人の男が追いかけられている。
(っていうか、篠澤の剣を躱すって……何者だ?)
姫乃の剣術は、全国クラスである剣道部の人間ですら誰も太刀打ちできないレベルに達している。
そんな彼女の剣を飄々と躱しているあの男は一体誰なのか――そんな疑問と興味が湧き上がった。
制服を着ていないため部外の人間である事は確かだ。
しかし、そんな人間が何故ここにいるのか、何故彼は姫乃に追い掛け回されているのか、そんな疑問が頼斗の思考を埋めていた。
そしてもう少し観察してみようと身を乗り出して――ふと、更なる足音が響いているのを感じ取る。
「よし、屋上に追い詰めたか……杏奈、一旦下がれ! 出入り口を塞ぐ! トモは迂回しながら退路を埋めろ!」
『了解!』
そんな声と共に現れた男子生徒は、もう一人の体格のいい男子生徒を含めた三人に対して突然指示を飛ばし始める。
そしてその三人も、彼の言葉に対して無駄に訓練された動きで行動を開始した。
一瞬呆然としていた頼斗も、すぐさまその声の主の正体に気付く。
(おおぅ、旦那と兄貴も現れたか)
篠澤姫乃が有名であるが故に、セットで名が知られている二人の男子生徒。
それが、姫乃の恋人である嶋谷賢司と兄である篠澤友紀だった。
特に賢司に関しては、姫乃というかなりの美少女の恋人というだけあって、やっかみと祝福を込めて日々『爆発しろ』という声援が送られている。
主に、同じクラスである頼斗によって。
(って言うか、本当に一体何してるんだ?)
よくよく考えてみれば、人に対して思い切り木刀を振るっているという状況自体が異常である。
姫乃の技量もあり、一撃が当たれば大怪我をする事は間違いないだろう。
普段温厚な性格である姫乃が遠慮なく木刀を振るっている事も珍しいが、一体どうなっているのか――そう考え、様子を見る為に頼斗は再び身を乗り出す。
彼らは割と近くまで寄って来ており、そうしなければ建物の陰に隠れてしまっていたのだ。
頼斗は気付かれぬようにゆっくりと近付き――肘を、縁に置いてあったペットボトルにぶつけていた。
「あ――」
止める間もなく、ペットボトルは落下してゆく。
それがコンクリートの床に落下して高い音を立てた瞬間、動きを止めなかったのはたった二人だけだった。
追う姫乃と追われる男性、ただその二人のみが、まるで初めから分かっていたと言わんばかりに攻撃と回避を続ける。
落下したペットボトルも一瞥もくれずにあっさり躱し、攻防を続けてゆく。
が――生憎と、そこに接近していたもう一人は、それを躱す事は出来なかった。
「うぉおっ!?」
「え、ひゃ――」
「ぬっ!?」
強く踏み込んだ友紀が、突然の音に驚いたが故に反応しきれず、落下したペットボトルを踏みつけて転倒する。
その事態に流石の姫乃も完全には反応しきれず、けれどその熟練の体捌きによって何とか突っ込んできた友紀を躱す。
結果、彼女の振るう木刀の軌道は大きくぶれ――対する男は、反射的にそれを掴み取って止めていた。
『――あ』
全員の動きが、止まる。
彼らの視線は全て、男が木刀を掴み取った右手に向けられていた。
そのまま、しばし沈黙し――
「――ぃよっし! でかしたわ、ヒメ!」
「怪我の功名だが、ナイスだ」
「あ、え、えっと……う、うん!」
「どうだ、見たか俺のナイスアシスト!」
――突如として、四人は歓声を上げ始めた。
落下したペットボトルを掴み取ろうとした体勢のまま、頼斗はその様子を呆然と眺める。
一体なんだったのだろうか、と。
そんな彼の疑問に答えるかのように、木刀を向けられていた男性は苦笑交じりに声を上げた。
「まあ予想外の部分はあったが、一応よしとしておくか。つー訳で、お前たちは合格だ。ほら、裏で指示をしていた奴の分もあるぞ」
そう言って、男は懐から何枚かの紙を取り出す。
それを一人一人に手渡し――そして、その視線を上へと上げた。
呆然と様子を眺めていた、頼斗の方へと。
「そこのお前、お前も降りて来いよ」
「え、あ、はぁ」
今一状況が理解できず、生返事のままに、頼斗はその場から飛び降りる。
周囲の表情は様々だ。姫乃は最初から知っていたとでも言うかのように微笑んでおり、それに対して杏奈は少し驚いた表情を浮かべている。
友紀が無意味にサムズアップしながらウィンクしているのは、流石の頼斗もスルーしたが。
「ええと……嶋谷。これって一体どんな状況だったんだ? 何か、お前の恋人がこの人を撲殺しようとしてたように見えたんだが」
「え、あ、ああっ!? ち、違います違います! 私そんな事しようなんて――」
「でもヒメ、途中から私怨混じってたわよね?」
「あー、うん、まぁ……ええと、ちょっと事情があってな。九条さん、確かそのチケットって一枚余ってましたよね?」
「ん、ああ」
九条と呼ばれた男は、そんな賢司の言葉に対してにやりとした笑みを浮かべる。
そして、値踏みするように頼斗の方へと視線を向け――数秒後、その笑みを深いものへと変えた。
その不気味な表情に、頼斗は思わず一歩後ずさる。
が、そんな少しだけ開いた距離などものともせず、彼はずかずかと接近して、頼斗の手に先ほどの紙を手渡していた。
「さっきの決定打はお前が発端でもあったからな。どうせ余ってたし、ちょうどいいだろう」
「は、はぁ……って、これ!?」
何気なく、葉書大のその紙へと視線を落とし――頼斗は、思わず絶句していた。
そこに書かれていたのは一つのキャンペーンの案内状。
『《Blade Blaze Online》サービス開始記念・無料配布キャンペーンチケット』――そこには、そう書かれていたのだ。
《Blade Blaze》、通称BBというアーケードゲームが存在している。
そのゲームはアーケードゲームに力を入れているゲーム会社であるLIT社が提供している物なのだが、製作を行ったのが会社には属さぬフリーのチームであるというのは有名な話だ。
チームの名は《タカアマハラ》。メンバーは僅か数人ながら、世界初と呼ばれる技術をいくつも世に叩き出した怪物グループである。
そしてそんな彼らが世に送り出した技術は全て、BBを生み出す為のものであったとされている。
――そう、全ては世界初のVRゲーム、《Blade Blaze》の為に。
ゲーム一つの為に山を買い、既存の知識では考えられなかった理論を叩き出し、新たな物質を発見し、他国の100年以上先を行くとされるスーパーコンピュータを製作した。
それは最早、天才という言葉を通り越して異常であった。
本来なら法律で禁止されていた、医療以外で神経に直接干渉する技術も、彼らの為に改正されたとすら言われている。
そんな彼らの生み出したゲームは、すぐさま多くの人間を虜にした。
創作の中で語られはしたものの、少なくともあと数十年は無理であろうと認識されていたVRゲーム。
そのゲームの中の世界は、最早『もう一つの現実』と呼んでも差し支えないほどにリアルなものであった。
BBは剣と魔法の冒険活劇、ゲームの世界に入り込み、様々なプレイスタイルを選択して敵を倒してゆくゲームだ。
ステージや現れる敵、難易度もプレイの記録によって変化して行き、全国対戦する事も可能。
それだけのゲームであるにもかかわらず、料金は普通のアーケードゲームと大差ない。人気が出るのも当然と言えた。
採算を度外視しているとしか思えないが、運営資金に関しては大半を《タカアマハラ》が負担しているらしい。
と言うのも、彼らの中で唯一対外に名と姿が知られている人物、常世氏曰く――
『――特許と株でお金なら大量にあるから、潰れる心配は皆無や。皆安心してプレイするんやでー』
――との事であった。
ゲームショウで言う発言とは思えないが、周囲は歓声と苦笑いに包まれていたと言う。
そして現在、新たな展開として、《Blade Blaze》はオンラインゲームとしてリリースされる事となったのだ。
そのサービス開始を記念して、抽選で1000名に対してゲームに必要となるVR機とソフトを無料配布するキャンペーンが行われていたのだが――
「こんな物、どうして何枚も……」
「そりゃまあ、俺は関係者だからな。知人に贔屓するのは当然だ」
「いや、それを当然って言っちゃ駄目でしょう」
悪びれる様子も無く言い放つ九条に対し、杏奈が半眼でそう声を上げる。
しかしながら、その男は全くと言っていいほど堪えた様子は存在していなかった。
「まあ、とは言っても、コイツをタダでやるという訳にも行かなかったからな。そんな訳で、俺に一撃を当てられたらくれてやると言う話になっていた訳だ」
「……一体どんな流れならそんな話になるんだ?」
「それはこの人だからとしか言いようが無い」
賢司の言葉に、頼斗は小さく肩を竦める。
何とも言いがたいが、彼らには彼らなりの付き合いがあるのだろうと納得したのだ。
とは言え――頼斗は、これを安易に受け取る気にはなれなかった。
「……俺は偶然ここに居合わせただけですから、受け取れません」
「ほう?」
「……本気ですか、三久先輩?」
頼斗の言葉に対し、九条は面白そうに口の端をゆがめ、そして杏奈は訝しげに眉根を寄せる。
確かに、これに対して頼斗は強い魅力を感じていた。
あまり多くの金も使えない立場であり、無料で手に入れられるというのであれば飛びつきたい気持ちもある。
けれど――
「これは、俺が俺の努力で手に入れた物じゃない。自分で積み上げていないものに甘えたくない……済みません、性分なんです」
「いや、好感の持てる性格だと思うぞ。つまり、何の大義名分も無く受け取る事は出来ないって事か」
「……はい」
それが、頼斗の信条だったから。
自分の努力と、それによって積み重ねてきたものは裏切らない。
それを信じる事で、常に努力する自分を保つ事が出来る。その考え方は、頼斗がずっと続けてきたものだったのだ。
だからこそ受け取れないと言う頼斗の言葉――それに対し、九条はくつくつと笑う。
「成程な、それなら――」
声を上げながら、彼は頼斗の手からチケットを回収した。
そしてそれを、隣に立っていた杏奈へと手渡す。彼女はそれを受け取ると、嘆息交じりの半眼を九条へと向けてから、それを頼斗へと差し出してきた。
「受け取ってください、三久先輩」
「いや、だから俺は――」
「私たち全員からのお礼、そういう名目でも駄目ですか?」
その言葉に、頼斗は思わずまじまじと杏奈の事を見つめていた。
彼女はどこか面倒くさそうに、けれどその表情は真剣に、真っ直ぐと頼斗へ向けて声を上げる。
「私達は、どうしてもこれが必要だった。うちのお節介な先輩を、ある人に会わせてあげたかったんです。けど、貴方の助力が無かったら、これを手に入れられていたかどうか分からない。だから、これは私たち全員からのお礼です」
「む……」
「受け取っとけよ、三久。それともお前は、俺達の気持ちなんか受け取れないってか?」
「……卑怯な言い方をするなよな、篠澤兄。はぁ……分かった、受け取らせて貰うよ」
嘆息と共にチケットを受け取り、頼斗は思わず苦笑を零していた。
何だかんだで、嬉しい事は確かなのだ。言いくるめられてしまったが、それ程悔しさは感じていない。
そんな頼斗の様子を観察しながら、九条は笑みを消さぬままに声を上げた。
「さて、それじゃあ俺は戻るとするかね。サービス開始は今週末だ、楽しみにしておけよ?」
結局正体の分からぬままだった男に首を傾げながら、しかしチケットを受け取った礼もあり、頼斗は軽く会釈する。
それに対してひらひらと手を振りながら横を通り抜けた九条――彼はその瞬間、一つの言葉を頼斗に囁いていた。
「――夢を追え。そうすれば願いに届く」
「え――」
まるで見透かしたようなその言葉に、頼斗は驚愕しつつ振り返る。
しかしそのときには、彼の姿は既に屋上から消え去っていた。
その姿が消えた屋上の出入り口、そして手の中のチケットへと視線を交互に動かし、頼斗は小さく息を吐き出す。
――胸の中では、空に対する憧れが再び燻るのを感じていた。
本日の駄妹
「私の兄さんセンサーが唸ります。そろそろ目を覚ましたはず……帰ってくる前に兄さんのベッドの匂いを堪能しなければ」