俺様王太子(※中身は恋愛初心者)の心の声が、全部聞こえてしまうせいで私の羞恥心が限界を迎えつつある
皆さん、情けないイケメンは好きですか?
私は大好物です(癖
私は、人の心の声が聞こえる。
――と言うと大層な力のようだけれど、私に聞こえるのは「表に見せているものと、本心が食い違っている人」の声だけだ。
だから当然、こうなる。
「まあ、素敵なドレスですこと」《どこの古着屋で買ったのかしら》
「伯爵令嬢とお会いできて光栄です」《地味な娘だ。持参金はいくらだ》
まあ、とどのつまり、こうやって相手から品評されるのが丸わかりになってしまうということでもあって。
十八年も生きていれば慣れるけれど、疲れはする。だから私の人生の目標は、なるべく静かに、なるべく人と関わらずに暮らすことだ。
――が、そんな私の地味な静かな日常は突然破られた。
私が、なぜか王太子殿下の婚約者に選ばれてしまったのだ。
理由は知らない。父に聞いても「王家からのお申し出だ」「わからん、むしろ本当にわからん。殿下はなぜうちの地味な娘を?」としか言わないし、父から心の声も聞こえなかったので、本当にわからないのだろう。
……地味な、というのは誉め言葉として受け取っておきますよ、父上。
とはいえ、おそらくどうせ政略だろう。
考えてみれば簡単だ。派閥の均衡を崩さない、当たり障りのない家の娘。それがたまたま私だったというだけのこと。
標的にされた方としては、はた迷惑な話だが幸い、婚約は三ヶ月の仮婚約から始まる。その間に「性格が合いませんでした」ということにして、穏便にお断りすればいい。王家だって、地味な伯爵令嬢ひとりにこだわる理由はないはずだ。
――と、私はそう思っていた。
私が十数年ぶりに訪れた王宮の応接間の扉が開くまでは。
「――お前が、リゼット・フォルクナーか」
入ってきたのは、金の髪に深い青の瞳の青年だった。レオンハルト王太子殿下。肖像画でしか見たことのない顔が、肖像画よりずっと整っていて、肖像画よりずっと不機嫌そうに私を見下ろしている。
私は立ち上がり、型通りの礼をとった。
「お初にお目にかかります、殿下。リゼット・フォルクナーでございます」
殿下は答えず、つかつかと歩み寄ってきた。
……なんか近いな、と私は思った。淑女に対する距離ではない。
そして私の目を見つめ――ようとして、一瞬だけ視線を泳がせてから、殿下は言い放った。
「悪くない……今日からお前は、俺の女だ」
……………………。
…………。
……。
えっ? と思って一時停止してしまった私は悪くないはずだ。
「今日からお前は、俺の女だ」などと今どき、そんな痛いことをいう輩がいたなんて。しかもそれがうちの王国の殿下だったなんて。
が、私が衝撃を受けたのは、そのあとのことだった。
聞こえてきてしまったのである。例の、はた迷惑な心の声が。
《言った……! 言った言った言った! 言えた……( ;∀;)》
……ん?
《いや待て、声が裏返らなかったか? 「俺の」の「れ」のあたりで裏返らなかったか? 練習では裏返らなかったのに……!( ;∀;)》
ちなみに補足しておくと心の声はその人の精神状態そのものなので、焦っていれば焦ったような口調が聞こえてくる。
のだが。
《だめだ、彼女が黙っている。引かれた………? 絶対に引かれた。初手から間違えた。もう終わりだ。あ、そうだ、修道院に行って出家しよう……あ、でも待てよ。王太子って修道院に入れるのか……?(´Д⊂ヽ》
私は殿下の顔を見た。
眉ひとつ動いていない。冷ややかで、自信に満ちていて、いかにも人の上に立つことに慣れた顔。
が、その内心から聞こえる声はとんでもなく焦っている。
《でも顔は崩すな。ユリウスが言っていた。女性は強引な、ちょっと悪いくらいの男が好きだと……強引に……もっと強引に……(`・ω・´)》
はて、ユリウス、とは誰だろう、と私は思ったが、答えは殿下の背後にいた。
黒髪をきっちり撫でつけ、眼鏡をかけた、怜悧な顔立ちの青年。気が付けば側近の徽章をつけた彼は壁際に控え、一切の感情を表に出さずに主を見守っている。なるほど、これが件のユリウス、だろう。
が、
《――尊い》
そんでもって、後ろの無表情のコイツからも声が聞こえてきた。
《尊い。殿下が、ついに、リゼット様に、話しかけられた。十年。十年かかった。「女は強引な男が好き」などという大嘘を真顔で吹き込み続けた甲斐があった。強引にでもならなければ、この方は一生、遠くから見ているだけだったのだから。……それにしても、普段気弱な殿下がキザな感じで口説いている様子……これはよい》
無表情なくせに内心は殿下に負けず劣らずの口数の多さである。このユリウスとやらも内心を取り繕っているタイプらしい。
しかも、その内容。
私が「あ、コイツが犯人か……」と視線を投げかけると、側近の青年は無表情のまま、すっと目を伏せた。
私は思った。こいつはこいつで何を考えていやがるのだ、と。
思わず、普段使ったこともなく両親にいやいや持たされた扇を開いて、口元を隠す。
頬が熱い。
間違っても、ときめいたからではない。聞いているこちらが恥ずかしいのだ。「今日からお前は俺の女だ」を、声の裏返りを気にしながら言う人を、私は生まれて初めて見た。
「……ふん。照れているのか。かわいいところがあるじゃないか」
《照れてる!? 効いてる!? 嘘だろ、ユリウスすごい……! あ、でも全部可愛いけど……!(`・ω・´)》
そう言ってドヤ顔をする殿下。
心なしか心の声の後ろに顔も浮かんでいる気がしてきた。
照れていません。効いてもいません。
とは言えないので、私は扇の陰で、静かに天井を仰ぎながら余所行き用の小声で言った。
「て、照れてしまいましたわ……」
照れているのではなく、恥ずかしいだけである。穴があったら入りたい。
が、三ヶ月だ。私は自分に言い聞かせた。三ヶ月耐えれば、静かな生活に戻れる。
この時の私は、まだそう信じていたのであった――
二
仮婚約の決まりで、私は週に一度、王宮の庭園で殿下とお茶をすることになった。
一週目にして、私は悟った。
これは無理だ。こんな状況に耐えられる人間がいると思わない。
まず、殿下は私を見るなり、いきなり顎を上げて言い放った。
「……ふん。少しは見られる格好をしてきたようだな」
《可愛い。すごく可愛い。今日のドレス、似合ってるなあ……( ;∀;)》
「あ……はい。殿下にお会いするので、少しだけお洒落をしてまいりました」
「当然だ。俺の隣に立つ女なのだからな」
《俺に会うためにお洒落してくれたの!? 嬉しい……!(`・ω・´)》
……ああ、もう。開始三十秒でこれである。
しかも、殿下の俺様ムーブはこれだけでは終わらなかった。
庭園へ向かう途中、殿下は当然のように私の手を取った。
「……ほら」
「あの、殿下?」
「俺の手を取れ。お前を一人で歩かせるつもりはない」
《て、手、繋いでくれるかな……。嫌じゃないかな……。いや、婚約者なんだからエスコートくらい普通だよな……?(`・ω・´)》
差し出された手は大きく、指は長く、いかにも王子様といった感じである。実際、その姿は悔しいくらい絵になっていた。
「……ありがとうございます」
私がそっと手を重ねると、殿下は口元に不敵な笑みを浮かべた。
「ふん。最初から素直にそうしていればいい」
《手、ちっちゃい……! 柔らかい……! どうしよう、汗かいてないかな、俺……!(;´・ω・)》
が、内心はこれである。
もちろん、声に出して「殿下、痛いですよ」なんて言えるはずもない。
しかも困ったことに、殿下のエスコートそのものは完璧だった。歩幅を私に合わせ、段差ではさりげなく支え、陽射しの強い場所では自然と自分が日除けになる位置に立つ。
これで余計なことを言わなければ、さぞ素敵な殿方なのだろう。
……余計なことを言わなければ、な。
やがて庭園の東屋に到着すると、殿下は私の椅子を引いてくださった。
「座れ」
《椅子、引くの早すぎなかったかな……(;´・ω・)》
「ありがとうございます」
「礼などいらん。お前は俺に甘えていればいい」
《い、言っちゃった……! 甘えていればいいって……!(`・ω・´)》
私は静かに腰を下ろした。
どうしよう。まだお茶すら始まっていないのに、もう帰りたい。共感性羞恥心で今日、私は死ぬのかもしれない。
ところが、殿下はさらに追い打ちをかけてきた。
「……リゼット」
「はい?」
「お前は、俺以外の男にもそうやって笑いかけるのか?」
「……え?」
突然の質問に、私は目を瞬かせた。
殿下は椅子に深く腰掛け、片肘をついて私を見つめている。
その青い瞳は、妙に真剣だった。
「答えろ」
《聞いてしまった……! 嫉妬深い男だと思われるかな……? でもユリウスが、独占欲を見せるのは効果的だって……!(`・ω・´)》
「ええと……普通に、笑いかけることもありますけれど」
「…………そうか」
《そりゃそうだよな! 笑うよな! 他の男にも笑いかけるよな! 当たり前だよな……》
殿下の表情は変わらない。
ただ、心の中で何かが盛大に崩れ落ちたらしい。
そして、殿下はおもむろに私の手を取った。
「ならば覚えておけ」
「は、はい」
「お前を一番幸せにするのは、この俺だ」
《…………言えた》
……。
《今の、格好よかったかな……?》
…………。
《格好よかったよね……?(´;ω;`)》
私はそっと扇を開いた。
口元を隠さなければ、とてもではないが耐えられなかった。
「……ふん。顔が赤いぞ」
《赤い! 照れてる! やった!》
違います。
あなたの台詞が恥ずかしすぎるだけです。
しかし、どうやら殿下は私の反応をすっかり勘違いしたらしい。その後も、何かにつけて俺様な台詞を披露してくださった。
「俺から目を逸らすな」
《でもずっと見つめられると俺も恥ずかしい……》
「欲しいものがあるなら言え。何でも与えてやる」
《好みの食べ物とかでいいかな……? 宝石とかのほうがいいのかな……?》
「お前の居場所は俺の隣だ」
《隣にいてくれたら嬉しいなあ……》
これは無理だ。
殿下が何か言うたびに、私の羞恥心がすり減っていく。顔が真っ赤過ぎて、家族にも風邪かと疑われてしまった。おそらく、このまま三ヶ月も続いたら、破談より先に私の心が死んでしまう。
ならば、作戦を変えるしかない。
殿下本人は普通によい方である。殿下に、あの演技をやめていただくのだ。
心の声が聞こえていることは、もちろん言えない。言えば、あの裏返りも修道院も全部聞いていたと白状することになる。殿下が本当に修道院に入ってしまう。国家崩壊の危機である。さすがにその引き金を引きたいわけではない。
だから、さりげなく誘導する。
二週目のお茶会で、私は紅茶のカップを置き、できるだけ自然に切り出した。
「殿下。わたくし、殿方は穏やかな方が好ましいと思いますの」
殿下の手が止まった。
《……え》
顔は相変わらず冷ややかだ。だが内側では、明らかに何かが崩れる音がした。
《穏やか……? 穏やかって言った……? じゃあ俺、今まで全部逆……?》
そうです。全部逆です。
よし、と私は扇の陰で小さく拳を握った。届いた。これで明日からは――
殿下がちらりと背後を振り返った。壁際に控えていたユリウスが、音もなく進み出て、殿下の耳元に何事か囁く。
そして元の位置に戻る。完璧な無表情で。
《――申し訳ございません、リゼット様》
側近の心の声は、穏やかで、静かで、そして覚悟が感じられた。
《ですが、ここで殿下が一歩でも引けば、あの方は二度と前に出られません。十年見てきた私が保証いたします。どうかもう少しだけ、お付き合いくださいませ。……あと単純に、楽しいからもっと見たい》
どっちかっていうと、最後のが本音ですよね。
私がそう思っていると、殿下がこちらに向き直った。その青い瞳に、さっきまでの動揺はもうない。
なぜかキリッとしている。なんかイケメンを通り越して小動物が見えるような気がしてきた。
《ユリウスが言うには、女性は好きな相手の前では逆のことを言うものらしい。つまり「穏やかな方が好き」は「もっと強引に来て」という意味……! 危なかった、真に受けるところだった……!(`・ω・´)》
違います、殿下。真に受けてください。真に受けてくださっていいんです。
「……ふん。お前の好みなど、知ったことか」
《ごめんなさいごめんなさい本当はすごく知りたいです( ;∀;)》
「お前が俺に合わせろ」
《合わせたいのは俺のほうです》
殿下はそう言いながら、皿の上の焼き菓子を、ぐい、と私のほうへ押しやった。
「食え」
《これ、リゼットが好きだって聞いた木苺のタルト……合ってるかな……違ってたらどうしよう……》
私は、押しやられたタルトを見下ろした。
木苺のタルト。確かに、私の好物だ。たしか殿下には話したことがないのに。
「……いただきます」
一口かじると、甘酸っぱさが広がった。
《食べた! 食べてくれた! ユリウス、見たか!》
《拝見いたしました。尊い。今日をタルト記念日として、後ほど正式に王国の記念日といたしましょう》
そんなもの、記念日にするな、と思いながら私は無言で咀嚼した。
助けてくれ、なんなんだこの時間は。
そして、頬が熱いのは、きっとタルトが美味しすぎたせいだ。
きっと――そうに違いない。
三
それからの日々を、私は「はた迷惑な恋愛指南講座・実践編」と呼んでいる。
第一講:壁ドン
王宮の回廊を歩いていたら、角を曲がったところで殿下が待ち構えていた。
どん、と私の顔の横の壁に手がつかれる。
「……逃がさないぞ」
《手首ひねった……》
殿下の顔は凛々しい。声は低く、甘い。
だが手首をひねってしまったらしい。そこまで犠牲を払ってまでやることか?と私は思った。
《痛い……思ったより壁が遠かった……でも顔は崩すな……ここで「痛っ」とか言ったら全部終わる……》
私は息を止めた。
笑ってはいけない。絶対に笑ってはいけない。
奥歯を噛みしめた結果、顔が真っ赤になった。
《赤くなった! 効いてる!》
回廊の柱の陰から、ユリウス様の心の声が聞こえた。
《手首の角度は次回までに矯正いたしましょう。それにしても尊い》
お前が主犯か、と私は思った。怪我の危険性があるなら止めてやれよ。
第二講:顎クイ
また別の日。
王宮の薔薇園のベンチで、殿下が私の顎に指をかけた。
「……俺だけを見ていろ」
《ユリウスに教わったがこれは『顎クイ』と呼ぶらしい。でも、顎ってどのくらいの力で持ち上げるんだ……? 強すぎたら首が……首が折れたらどうしよう……王太子、婚約者の首を折る……歴史に残る……》
指先が震えている。ほとんど触れていない。羽根で撫でられているくらいの力だ。
それが逆に、くすぐったくて、たまらなく恥ずかしい。
私の顔は、また真っ赤になった。
《また赤くなった……! 俺、もしかして才能あるのか……?(`・ω・´) 顎クイの才能が》
ないですよ?殿下。
またしても顔を真っ赤にしながら私は思った。
第三講:夜会
王宮の夜会で、私は殿下と一曲踊った。
曲が終わる直前、殿下が私の耳元に顔を寄せた。
「……今夜は、帰さない」
私は硬直した。
さすがにそれは、令嬢として聞き流せる台詞ではない。
だが次の瞬間、殿下の心の声が聞こえてきた。
《……帰さなかったら、そのあと何をすればいいんだ?》
……。
《ユリウスに聞いてない。帰さないって、具体的にどこに? 俺の部屋? 俺の部屋に連れていって、それから……チェス……? チェスでいいのか……? チェスをしながら、夜通しお喋りとか?》
壁際で、あの無表情男は静かにグラスを傾けていた。
《ふっ。殿下。その先はお教えしておりません。お教えする予定もございません。殿下にはまだ早うございます》
分かっているなら、その台詞を教えないでください。
私は真っ赤になって俯いた。
周囲の貴婦人たちがざわめく。
「まあ、ご覧になって。あんなにお顔を赤くして」
「殿下にすっかり骨抜きにされていらっしゃるのね」
違うのです。
今夜、殿下とチェスをする未来が見えて、恥ずかしさで死にそうなだけなのです。
こうして、仮婚約の二ヶ月が過ぎた。
私が赤くなるたびに、殿下は自信をつけ、台詞は過激になり、あの無表情メガネはいきいきしていった。宮廷では「堅物の王太子殿下が、地味な伯爵令嬢に夢中らしい」という噂と、「地味な伯爵令嬢が、王太子殿下に骨抜きらしい」という噂が、同時に流れている。
前者は本当だ。
後者は――嘘だ。
……たぶん。
四
王妃様主催の園遊会は、騒音の洪水だった。
「リゼット様、殿下とのご婚約、本当におめでとうございます」
《どうせ三ヶ月で捨てられるわ》
「なんてお似合いのお二人でしょう」
《殿下もお気の毒に。他にいくらでも美しい方がいらっしゃるのに》
「今度ぜひ、我が家のお茶会にも」
《王太子妃になるなら、今のうちに取り入っておかないと》
笑顔で頷いて、笑顔で礼を言って、笑顔で次の挨拶を受ける。
慣れている。慣れているはずなのに、今日はなぜか、ひどく息が苦しかった。
私は人の輪を抜け出し、庭園の奥へ逃げた。
背の高い生垣で作られた迷路。その奥まった一角に古い石のベンチがあって、そこだけは誰の声も届かない。
ベンチに腰を下ろし、目を閉じる。
静かだ。
――と思ったら、砂利を踏む足音がした。
「……俺の許可なく、勝手に消えるな」
殿下だった。
《いた……! よかった……急にいなくなるから、何かあったのかと……(;´・ω・)》
殿下はいつものように眉をひそめ、いつものように腕を組み、いつものように何か俺様な台詞を続けようとした。
そして、私の顔を見て、止まった。
私はどんな顔をしていたのだろう。
「…………っ」
殿下は何も言わず、組んでいた腕をほどき、少し間を空けて、ベンチの端に腰を下ろした。
それから、ぽつりと言った。
「……騒がしいところは、昔から苦手だったな。君は」
声が、聞こえなかった。
殿下の心の声が、何も。
私は思わず殿下の顔を見た。
殿下は前を向いたまま、生垣の向こうの空を眺めていた。冷ややかでも、自信に満ちてもいない、ただの青年の横顔。
表に見せているものと、本心が、ぴったり重なっている。
この人の心の声が静かなのは、初めてだった。
しかも、「昔から」と言った。
どういう意味だろう。私たちは、三ヶ月前に初めて会ったはずなのに。
頬が熱くなった。
――あれ?
いつもと同じ熱さだ。壁ドンのときも、顎クイのときも、夜会のときも、私はこうやって赤くなっていた。
でも、今は笑いを堪えているわけではない。
恥ずかしい台詞を聞かされたわけでもない。
じゃあ、この熱さは、何?
「……っ」
殿下がはっと我に返ったように肩を跳ねさせた。
「お、お前は、俺のものなのだから、俺のそばを離れるなと言っている!」
《しまった素が出た素が出た素が出た! 「君」って言った! ユリウスに「殿下は『お前』で統一してください」って言われてたのに……!》
うるさい。
いつもの騒音が戻ってきて、私はなぜかほっとして――気づいたら、声を上げて笑っていた。
「な、何がおかしい」
《笑った……? リゼットが、笑った……》
殿下の心の声が、ふっと小さくなった。
《……笑ってくれた》
《…と》
「ん?」
《……尊いオブ・ザ・イヤー確定》
そんな別の心の声とともに、生垣の陰から、どさっと人が崩れ落ちる音がした。
あのメガネの心の声は、それきり何も言わなかった。
きっと尊過ぎて、あの変態は失神でもしてしまったのだろう。
五
仮婚約の最終日。
私は王宮の応接間で、三ヶ月前と同じ椅子に座っていた。
今日、私は答えを出さなければならない。このまま本婚約に進むか、それとも「性格が合いませんでした」と申し出るか。
三ヶ月前の私なら、迷わず後者を選んでいた。
扉が開いた。
殿下が入ってきて、三ヶ月前と同じように、つかつかと私の前まで歩み寄った。後ろにはユリウス様が、三ヶ月前と同じように控えている。
殿下は私を見下ろし、いつもより低い声で言った。
「答えなど、聞くまでもない」
殿下の手が、私の手を取る。
「お前は俺のものだ。誰にも渡さない」
今までで一番、完璧な俺様だった。声は裏返らず、手首もひねらず、視線も泳がない。
そして、今までで一番、静かな心の声が聞こえてきた。
《……知ってる。リゼットが、最初から断るつもりだったこと》
私は息を呑んだ。
《フォルクナー伯が、うちの父上にこっそり相談していた。娘は静かに暮らしたがっている、王太子妃など務まらないと言っている、と。だから、今日が最後だ》
殿下の手は温かい。少しだけ、震えている。
《最後くらい、ユリウスに教わった一番かっこいい台詞を、ちゃんと言わせてほしかった。……言えた。もう十分だ。彼女が首を横に振ったら、ちゃんと手を離そう。笑って、離そう》
殿下の顔は、冷ややかで、自信に満ちている。
だが、その内側で、泣くのを我慢している。
――ああ、もう。無理だ。
これ以上、黙って聞いていられない。
私の声は思わず、表に出ていた。
「殿下」
「……何だ」
「心の声、全部聞こえておりました」
応接間が、静まり返った。
今度は、表向きだけではなかった。殿下の心の中も、一瞬、真っ白に静まり返った。
それから、堰を切ったように。
《え》
《えっ》
《ぜんぶ?》
《ぜんぶって、全部? 声が裏返ったのも? 手首ひねったのも? 修道院も? チェスも!?》
はい。全部です。
私は、自分の体質のことを説明した。表と本心が食い違っている人の声だけが聞こえること。殿下の声は、初めて会ったあの日から、ずっと聞こえていたこと。
殿下の顔が、首の下から順番に赤くなっていった。耳まで真っ赤になったところで、殿下は両手で顔を覆った。
《死にたい……いや死ねない、王太子だから……修道院……やっぱり修道院……》
殿下の背後で、陰険眼鏡ことユリウスが完璧な無表情のまま、半歩後ずさった。
《……え。全部? ということは、私のも?》
「ええ、ユリウス様のも、です」
そして私は殿下に向き直った。顔を覆った指の隙間から、青い瞳がこちらを窺っている。
「ですから、殿下。もう演技は結構です」
私は、殿下の手を握り返した。
「殿下の本当の言葉で、聞かせてください」
長い沈黙があった。
殿下はゆっくりと手を下ろした。顔は真っ赤で、眉は情けなく下がっていて、俺様のかけらもない。
「……好きだ」
もう一つの声が、聞こえなかった。
「十年前、庭の迷路で泣いていた俺に、君が声をかけてくれたときから。ずっと」
何も、聞こえない。
この人の言葉と、この人の心が、隙間なく重なっている。
そして、その時、ふと、私は思い出した。
――私は十数年前に一度だけ、両親につれられ、王宮を訪れたことがある。
十年前。広い庭の迷路。
記憶の底で、何かがかすかに揺れた。
歩いているうちに、会ったのは、生垣の陰で膝を抱えていた、金色の髪の男の子。
めそめそと泣く男の子に。
私はその子に、何と言ったのだったか。
――わたくし、強い人が好きなの。だから、泣きやんだら、あなたも強い人ね。
それはたった一度きりの邂逅。
好き勝手に歩き出し、両親とはぐれてしまったことで私は怒られ、それっきり目立ちたくもない私は王宮に顔を出すこともなかった。
だけど。まさか。
まさか、それで、俺様に?
そんな一瞬の出会いをこの人はずっと覚えていたのだろうか。
確かめたい気持ちと、確かめたら私が恥ずかしさで死ぬ気持ちが、同じくらい大きくなっていく。
頬が熱い。
今度は、理由がはっきり分かっていた。
「……殿下。仮婚約のお返事を申し上げます」
殿下の喉が、ごくりと鳴った。
「本婚約で、お願いいたします」
殿下の顔は、精いっぱい平静を保とうとしていた。
そしてもちろん、その内側は。
《え、え、え、夢? これ夢? ユリウス、俺を殴れ、いや殴るな、夢だったら覚めたくない、いやでも、いや、リゼットが、本婚約って、本婚約って言った、俺の、俺の――》
「殿下」
「な、何だ」
「うるさいです」
私が笑うと、殿下もつられたように、情けない顔で笑った。
壁際で、ユリウスが無言で天を仰いでいた。
やがて彼は、乱れた表情を完璧に整え直し、恭しく一礼した。
「――これにて一件落着ですね」
「いや、あなたが一番の原因だと思うんですけど」
だったら先に言ってくれればいいのに。
私がそういう気持ちを込めてにらみつけると、ユリウスは何食わぬ顔でしれっと拍手をしていた。
「はて。一体、何のことでございましょう」
《さて、次は結婚式ですか。いやあ、楽しみですねえ》
この男、私と王子のやりとりを、楽しみたかっただけではないのか。
私は深々とため息をついた。
まあ、いいか。
何はともあれ、これでようやく殿下の俺様演技から解放されるのだ。
これからは、心の声が聞こえない、穏やかな殿下と一緒に過ごすことができる。
そう思って、私は殿下に微笑みかけた。
「……レオンハルト様」
「…………っ!」
殿下が固まった。
《い、今、名前で……名前で呼ばれた……!》
あっ。
《レオンハルト様って……! 初めて……! どうしよう、嬉しい、嬉しすぎる……!》
ああ、だめだ。
これは、だめだ。私は悟った。どうやらこの人の心の声が聞こえなくなるのは、まだまだ先のことらしい。
……それでも。
不思議と、以前ほど恥ずかしくはなかった。
まあ、少しくらい騒がしい人生も、悪くないかもしれない。
「……ふん。今さら名前で呼んで、俺を喜ばせようというのか」
《もう一回呼んでほしい……》
「はいはい」
と、私は素直じゃない婚約者に対し、笑顔で笑いかけた。
仕方ないな、という気持ちを込めながら。
「これから、よろしくお願いいたしますね――レオンハルト様」
※プチキャラ紹介
・リゼット
結構冷静に俯瞰するタイプがゆえに、殿下の攻勢に耐えられなかった。でもやっぱりまっすぐなところは好き。幼少期は今よりもお転婆系のタイプだったが、心の声が聞こえるようになってから今くらいの性格に落ち着く。
・殿下
健気なイケメン。好きな女の子にずっと振り向いてほしくて頑張っていた。どうやってアプローチしたらいいかを側近のユリウスに相談した結果、「俺様キャラ」にチェンジ。婚約が結べる年になったので本格的に動き出した
・ユリウス
「殿下は押しが足りないので俺様キャラが似合っているのでは?」と言って、リゼットの羞恥心がボロボロになるきっかけを作った殿リゼ推しの変態。今は記念日を作るために奔走中。




