狂愛の協奏曲(コンチェルト)【作・嵐山林檎】
――― 【アート】ナッツ ×【作家】嵐山林檎 ―――
白いブラウスに浅葱色のプリーツスカートを履いて、ヘイランは石畳の広場を一人で歩いていた。仕立てた洋服を配達してきた帰りだ。晴れた日の昼下がりの広場が彼女は好きだった。
広場の真ん中には大きな円型の噴水がある。ヘイランの背丈よりも高く噴き上がる水柱がてっぺんで細かい水滴になり、青空を背景にキラキラと輝く。気分の良さに寄り道をしたくなって、ヘイランは広場の脇の路地に足を踏み入れた。
細い路地の左右には家具や食器、アクセサリーなどを扱う店が並んでいて、店先を覗くだけで気持ちが上がる。形のよい唇に笑みを浮かべて、ヘイランは気ままに路地を散策した。
路地の突き当りに一軒の楽器店を見つけた。蔦の生い茂ったレンガ造りの建物で、半開きの扉の上の看板には「ヴィルニー弦楽器店」も文字がある。
こんな店あったかしらと扉の隙間から覗くと、店の奥の女性と目が合った。愁いを帯びた黒い目でヘイランを見つめる彼女は、ダークブラウンの長い髪に髑髏のデザインの髪飾りをつけていた。
「お嬢さん、どうぞお入りくださいな」
歌うような声に誘われて、ヘイランは店内に入った。狭い部屋の壁にはバイオリン、ビオラ、チェロなどが所狭しと陳列されていて、まるで楽器の博物館のようだ。
「私はヴィルニー。弦楽器を作っているの。ちょうど良かったわ。新作のバイオリンの音色を聴いてくれる人を探していたの」
「ごめんなさい、音楽には詳しくないの」
「大丈夫ですわ。あなたみたいな綺麗な人を探していたのよ」
ヴィルニーはにっこりと微笑み、左手に持ったバイオリンを顎の下に挟んだ。聴くだけならいいかなと、ヘイランは彼女の手元を見つめて耳を澄ませた。
ヴィルニーの右手がすうっと動いて、弓が絃をこすった。小刻みに震えた絃から伸びやかな音色が溢れ出す。音色は鋭い高音になり、室内の空気を切り裂いた。
突然、ヘイランの頭に痛みが走った。まるで剛力でこめかみをわし掴みにされたみたいだ。手を頭にやろうとしたが、なぜだか腕が動かない。
バイオリンの旋律がゆっくりになると、ヘイランの頭の中に男性の優しい笑顔が浮かんだ。ほほ笑んでいるのはローランだった。ヘイランの胸に懐かしさが込み上げたその時、頭の中のローランは血を吐いて苦しみだした。そうだ。あの日、浜辺で彼女が毒殺したのだ。
つづいて銀髪のアルカードの寝顔が頭に浮かんだ。彼を殺めたのもヘイランだ。アルカードの目がパチリと開く。真っ赤に充血した目で瞬きもせず、じっとこちらを睨んでいる。
ヘイランの頭の中で次々と、過去に屠った男達の顔が浮かびあがった。ある者は血を吐き、ある者は赤黒い顔で息を詰め、ある者は首筋から血しぶきを上げて、恨めしげに彼女を凝視する。
胸に焼きつくような痛みを感じて、ヘイランは喉の奥から呻き声を漏らした。胸を突き破りそうな勢いで鼓動が打ちつける。
あのバイオリンをやめさせないと!
スカートの裏側の護身用ナイフに手を伸ばそうとしたが、まるで縄で縛られたみたいに腕が動かない。眉間に皺を寄せて、ヘイランはヴィルニーの白い顔をキッと睨みつけた。
「うふふ、いい表情ですわ。もっともっといい顔を見せて欲しいの」
ヴィルニーは嬉々として体を揺らし、バイオリンを弾く手に力を込めた。旋律が速くなり、音色につられるようにヘイラン体が勝手に動きだした。さっきまで動かなかった手脚が、今度は止めようとしても止まらない。
せわしなくステップを踏むヘイランの靴がカツカツと床を鳴らす。華麗な踊りの代償として、相当な負担が彼女の肉体にのしかかった。捻じられた体は腰から千切れそうで、手脚は折れそうなくらい曲がっている。
このままでは心も体も壊れてしまいそうだ。しかし自由を奪われたヘイランは、額に脂汗を浮かべて耐えるしかなかった。
「あはははは。素敵だわ。音楽から生まれる人間の苦しみって素敵だわ」
血走った瞳を輝かせて、ヴィルニーはバイオリンを弾き続ける。
どれくらい時間が経ったのだろう。踊り疲れたヘイランの視界がぼんやりと霞みはじめた。
逃れることはできないか……。
その時、絃楽器店の扉がバタンと大きな音を立てた。玄関に立つ赤い瞳の男。赤紫のシルクハットを被ったその男の顔に、ヘイランは見覚えがあった。
「おやおや、お楽しみのところを申し訳ありませんな。集金に参ったのですな」
男はヴィルニーに親しげに声をかけると、顔を歪めて踊るヘイランを一瞥した。
「おや、どこかでお見かけしたような。そうだ、昨年の七夕祭りでお会いしましたかな」
間違いない。金魚すくいの露店でインチキしているのをタオ・スーに突き出した男だ。名前は確かメフィスト。ヘイランのことを恨みに思っているに違いない。
ますます状況が悪くなったと絶望が深くなる。
苦渋の表情で踊るヘイランを見ていたメフィストは大きく頷き、大ぶりのバイオリンを壁から外して顎の下に構えた。口元からフフフと不敵な笑いが漏れる。
「どれ、吾輩も一緒にジャムセッションといきますかな」
「やめなさい、メフィスト」
ヴィルニーの言葉に耳を貸さずに、メフィストはバイオリンを弾きはじめた。ギギギギギと地を這うような低い音がバイオリンから吹き上がる。絃が放つ重い音色に、室内の空気がビリビリと震えた。
「やめて、駄目よ! こら、やめろ!!」
髪を振り乱してヴィルニーが叫んでも、メフィストは意に介さずバイオリンを弾き続けた。
すると突然、ヘイランの耳からバイオリンの音がすっと消えた。ヴィルニーの高い音色も、メフィストの低い音色も聞こえない。二人とも手を休めずに弾いているのに、ヘイランの耳にはどちらの音も聞こえなくなった。
バイオリンの音が消えると、ヘイランの体を無理やり動かす力がふっと消えた。糸が切れた操り人形のようにヘイランはよろめき、ガクンと床に片膝をついた。ふらつきながらスカートに右手を伸ばして、内側に忍ばせたナイフを握った。
狙いをつけて、ヘイランは右手を大きく振った。手から放たれたナイフが真っ直ぐに飛んでいく。ヴィルニーのバイオリンにナイフが突き刺さり、絃をブツリと断ち切った。
「ぎゃああ! 何をする!」
絶叫したヴィルニーがバイオリンを投げ捨ててひっくり返った。ヘイランの耳にメフィストの低いバイオリンの音だけが、ギイギイと再び聞こえ始めた。
涼しい顔でバイオリンを弾くメフィストの側をすり抜けて、ヘイランは扉から店の外へと飛び出した。眩しい陽射しに目がくらみ、疲労した体が思うように動かない。
よろめきながら路地を駆け抜けて、ようやく広場に逃げ出した。中央までたどりつくと、ヘイランは円型の噴水を背にして身を隠した。
助かった。とにかく助かった。心身ともに疲れ果て、石畳に座り込む。浅葱色のスカートが砂埃にまみれた。
ふと、ヘイランの目の前に長い影ができた。見上げると、メフィストの赤い瞳がヘイランを見つめていた。左手には先ほど弾いていたバイオリンを握っている。
「とんだ災難でしたな。ちょうど吾輩が集金に参って何よりでしたなあ」
「どうして助けてくれたの。七夕祭りでのことを、恨んでたんじゃないの?」
目を細めたメフィストはニタリと笑った。
「インチキをばらされたときは確かに腹が立ちましたな。でもですな、タオ・スー様に叱られて商売の本道を教えていただき、吾輩は生まれ変わったんですな。商売の極意は売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし。おかげで今では町一番の商売人になって、ほれ、この通り」
メフィストは右手を裏返して、ヘイランの目の前で広げてみせた。ルビー、エメラルド、サファイヤ、ダイヤモンド。メフィストの指の上で、高価な宝石がギラギラと輝いている。
「それならよかった。ところであの女はいったい何者なの?」
ヴィルニーの長い髪と血走った目を思い出して、ヘイランは身震いした。
「彼女は吾輩と同郷で、弦楽器作りに命をかけている女でしてな。しばしば他人の命までかけてしまう困り者です。彼女のバイオリンの音色を聞いた者は、自分の業に苦しんだ上に、踊り狂って死ぬこともあるのですな」
メフィストの左手のバイオリンをヘイランはじっと見つめた。艶やかな木目が美しいこの楽器が、演奏者によって凶器に変わるとは。
「もう一つ教えてほしいの。彼女のバイオリンの音色を聞いて、私は体の自由を奪われた。でもあなたがバイオリンを弾きだすと、音が消えて、自分で体を動かせるようになったの。彼女の音色もあなたの音色も、どちらも消えたのよ」
メフィストは得意気な表情で、フフンと鼻を鳴らした。
「音は空気の振動ですからな。彼女の音色の波長に合わせて吾輩が逆の波長をぶつけたのです。空気の振動が打ち消し合って、音が消えたというわけですな」
「そう、ありがとう」
ヘイランは地面に手をついて立ち上がろうとしたが、よろけてまたペタリと座り込んでしまった。
「おやおや、お疲れのようですな。しばしお休みになるのがよろしいでしょう」
左手のバイオリンを顎の下に構えると、メフィストは右手の弓を滑らかに動かした。ヴィルニーの絃楽器店で奏でた地鳴りのような音ではない、優しくも切ない旋律が、絃から泉のように湧き出てくる。
バイオリンの音色に耳を傾けて、ヘイランはそっと目を閉じた。
「シューベルトのセレナーデですな。今のあなたにピッタリの曲ですな」
晴れた日の午後の広場で噴水にもたれて座り込むヘイランと、その足元でバイオリンを奏でるメフィスト。
優しい音色に包まれて、ヘイランは小さな寝息をたて始めた。




