可愛げがないと言われた女騎士団長は、無自覚わんこ副団長に溺愛される。
俺が王国騎士団の門を初めてくぐったのは、十八歳の春だった。
王都の中心部に建つ王城。
その西側に広がる広大な敷地が、俺たち王国騎士団の拠点だ。
白い石造りの建物に、王国の紋章を掲げた旗。
朝になれば訓練場から剣戟の音が響き、夕方になれば任務を終えた騎士たちが疲れた顔で戻ってくる。
俺にとっては、ずっと憧れていた場所だった。
「おい、レオン! ぼさっとしてると置いてくぞ!」
「待てって!」
同期の声に、俺は慌てて走り出す。
当時の俺は、まだ正式な騎士ですらなかった。
身につけているのは、見習い騎士用の簡素な制服。
正騎士が着るものよりも装飾は少なく、胸元にあるのも王国騎士団の正式な徽章ではなく、見習いであることを示す小さな紋章だけ。
支給されたばかりの革靴はまだ硬く、走るたびに踵が痛かった。
腰に下げている剣だって、正騎士が使うものより一回り軽い訓練用だ。
それでも。
剣を腰に下げているだけで、俺は少しだけ誇らしかった。
「今日の午前は雑用、その後は基礎鍛錬だってよ」
「雑用って何?」
「知らねえよ。倉庫整理じゃないか?」
「またかよ……」
同期たちが口々に愚痴をこぼす。
俺は笑った。
「いいじゃん。騎士になるためなら、皿洗いだってやるぞ」
「お前は前向きだなあ」
「だって、騎士団だぜ?」
それだけで十分だった。
俺は田舎の小さな町で育った。
父親は鍛冶屋。
母親は仕立屋。
貴族のような家柄でもなければ、剣の名門でもない。
子供の頃から剣術を習っていたわけでもない。
ただ、幼い頃に見た騎士の姿が忘れられなかった。
街道を荒らしていた盗賊から村人を守った、たった数人の騎士。
血と泥にまみれながらも、最後まで村人の前に立っていた。
あの日、俺は決めた。
俺もあんな騎士になりたい。
だから王都に来た。
そして――。
「レオン! 手が止まっているぞ!」
「はいっ!」
倉庫の奥から飛んできた怒声に、俺は慌てて木箱を持ち上げた。
騎士への道は、思っていたよりずっと地味だった。
剣を振るより先に、倉庫の掃除。
魔物と戦うより先に、備品の整理。
格好いい騎士になる前に、泥だらけの床を磨く。
それでも俺は楽しかった。
自分が憧れた場所にいる。
それだけで十分だった。
◇
俺がナターシャ団長の存在を初めて知ったのは、騎士団に入って三か月ほど経った頃だった。
「おい、今日の午後、団長が訓練場に来るらしいぞ」
「本当か?」
「第三騎士団のナターシャ団長だってよ」
「見たことないんだよな」
「俺は一度だけある。めちゃくちゃ綺麗だった」
「でも怖いんだろ?」
「そりゃそうだろ。あの人、訓練で手を抜いた奴を一度も見逃したことがないらしい」
食堂で昼飯を食べながら、同期たちがそんな話をしていた。
俺はスプーンを止めた。
「そんなに凄い人なのか?」
「おいおい、知らないのか?」
「俺、まだ見習いだぞ?」
「いや、見習いでも名前くらい聞くだろ」
そう言われても仕方ない。
俺は入団してから、毎日訓練と雑用で精一杯だった。
それに、正騎士の名前なんてほとんど覚えていない。
「でも、団長って女の人なんだろ?」
「ああ」
「珍しいな」
「しかも若いらしい」
「へえ」
その程度だった。
このときの俺にとって、ナターシャという女性は、まだ『噂の騎士団長』でしかなかった。
――その日の午後までは。
◇
訓練場には、いつもより多くの騎士が集まっていた。
夏の始まりを感じさせる強い日差し。
乾いた土の匂い。
遠くでは木剣を打ち合わせる音が響いている。
俺たち見習い騎士は訓練場の端に並び、正騎士たちの模擬戦を見学していた。
「来たぞ」
誰かが呟いた。
訓練場の入口へ視線が集まる。
俺も何気なくそちらを見る。
そして。
一瞬、息をするのを忘れた。
長身の女性が歩いてくる。
白銀の髪を後ろで束ね、黒に近い濃紺の騎士服を身にまとっている。
肩には王国騎士団の紋章が刻まれた外套。
腰には細身のレイピア。
歩き方に無駄がない。
背筋は真っ直ぐ。
その姿だけで、周囲の空気が変わった。
「……あれが、ナターシャ団長」
誰かが呟く。
俺も無意識に頷いていた。
綺麗だった。
もちろん、それだけじゃない。
何というか――。
格好いい。
男の俺がそう思うほどに。
やがて模擬戦が始まった。
相手は大柄な正騎士。
対するナターシャ団長は、細身の身体に一本のレイピア。
普通なら力負けする。
誰もがそう思ったはずだ。
ところが。
「始め!」
合図と同時に、団長の姿が消えたように見えた。
一歩。
二歩。
踏み込んだと思った瞬間には、もう相手の側面にいる。
大剣が振り下ろされる。
団長はそれを紙一重でかわした。
白銀の髪が大きく舞う。
レイピアが閃く。
甲高い金属音が響いた。
次の瞬間。
大柄な騎士の手から、大剣が弾き飛ばされていた。
「…………」
訓練場が静まり返る。
あまりにも鮮やかだった。
まるで剣術というより、舞を見ているようだった。
「すげえ……」
思わず声が漏れた。
隣にいた同期が笑う。
「どうだ? 噂通りだろ?」
「ああ」
俺は頷いた。
視線が団長から離れない。
そのとき。
ナターシャ団長がこちらを見た。
一瞬、目が合った。
「……っ」
なぜだろう。
胸が妙に騒いだ。
慌てて目を逸らす。
ただ目が合っただけなのに。
顔が熱い。
「レオン?」
「な、なんでもない!」
同期に肩を叩かれ、俺は誤魔化すように笑った。
このときの俺は、まだ何も分かっていなかった。
ただ――。
格好いい人だと思った。
強くて、綺麗で。
俺が目指す『騎士』そのものみたいな人。
それだけだった。
少なくとも、その頃の俺はそう思っていた。
◇
半年が経った。
俺は相変わらず失敗していた。
「レオン! そこは剣を振り切るな!」
「はい!」
「返事だけはいいな!」
「ありがとうございます!」
「褒めていない!」
「……はい!」
同期たちは腹を抱えて笑った。
俺は悔しくて唇を尖らせる。
でも。
翌朝には、また訓練場にいた。
誰より早く。
まだ朝霧が残っている時間から、木剣を握った。
手には豆。
足には擦り傷。
何度やっても上手くいかない。
それでも、やめなかった。
ある日の朝。
俺が一人で木剣を振っていると、背後から声がした。
「……お前は、本当に要領が悪いな」
「うわっ!」
驚いて振り返る。
そこにいたのは、ナターシャ団長だった。
「だ、団長!?」
「朝から何を騒いでいる」
「すみません!」
「声が大きい」
「はい!」
「返事も大きい」
「……はい」
団長はため息をついた。
そして俺の木剣を見る。
「もう一度」
「え?」
「今の振り方をもう一度やれ」
「はい!」
俺が剣を振る。
「遅い」
もう一度。
「肩に力が入りすぎだ」
もう一度。
「足が止まっている」
さらにもう一度。
腕が痛い。
汗が滴る。
それでも団長は離れなかった。
最後に。
「……お前は、諦めるのも遅いな」
ぽつりと、そう言った。
「それって……褒めてます?」
「好きに解釈しろ」
団長は背を向けた。
俺はその背中を見つめる。
胸の奥が、じんわり熱くなった。
あの日からだった。
俺が、ただ『強くなりたい』と思うようになったのは。
団長に追いつきたい。
いつか、あの人の隣に立ちたい。
そう思うようになった。
◇
一年後。
俺は初めて、団長との模擬戦で一撃を受け止めた。
もちろん。
「ぐあっ!」
次の瞬間には地面に転がっていた。
「痛ってぇ……!」
「大げさだ」
団長は涼しい顔でレイピアを収める。
「ですが、今のは……!」
「一度だけだ」
「ですよね!」
「浮かれるな」
けれど。
団長は少しだけ目を細めた。
「……今のは悪くなかった」
「…………」
「どうした?」
「今、褒めました?」
「聞こえなかったのか?」
「聞きました!」
俺は勢いよく立ち上がった。
「もう一回お願いします!」
「断る」
「なんでですか!?」
「調子に乗っているからだ」
「そんな!」
団長は小さく息を吐いた。
けれど、その口元は――。
ほんのわずかに緩んでいた。
俺は、それを見逃さなかった。
そのとき初めて思った。
あれ?
団長って。
もしかして――。
「……笑った?」
「何か言ったか?」
「いえ! 何でもありません!」
その日から俺は、団長の表情をよく見るようになった。
厳しい顔。
呆れた顔。
怒った顔。
そして、ごくたまに見せる、小さな笑顔。
その笑顔を見つけるたびに、なぜか嬉しくなった。
◇
さらに一年。
俺は正式な騎士になった。
昇格試験の日。
最後の模擬戦で、俺は完全に焦っていた。
相手の剣が迫る。
足が動かない。
――負ける。
そう思った瞬間。
頭の中に、あの日の団長の声が蘇った。
『剣だけを見るな』
『相手の足を見ろ』
視線を落とす。
相手の踏み込み。
重心。
次の一撃。
見えた。
俺は身体を捻り、紙一重でかわした。
そして――。
木剣を相手の喉元へ突きつける。
「勝者、レオン!」
歓声が上がった。
俺はその場に膝をつき、荒い息を吐く。
嬉しかった。
何より。
観覧席にいたナターシャ団長が、こちらを見ていた。
目が合う。
団長は、ほんの少しだけ頷いた。
それだけだった。
でも。
俺には、それで十分だった。
正式な騎士になった日。
俺はようやく、憧れの人の背中に一歩近づけた気がした。
◇
そこから先は、毎日が嵐のようだった。
商隊護衛。
盗賊討伐。
魔物の群れの討伐。
王族の護衛。
国境付近での調査。
危険な任務も増えた。
初めて実戦で人を斬った夜は、手が震えた。
初めて仲間が怪我をしたときは、何もできなかった自分が悔しかった。
魔物の群れに囲まれたときには、死ぬかと思った。
それでも。
ナターシャ団長は、いつも前にいた。
「レオン、右!」
「了解!」
俺が右へ飛ぶ。
団長のレイピアが魔物の喉元を貫く。
「下がれ!」
「団長こそ!」
背後から迫る敵を、俺が斬り伏せる。
「……助かった」
「どういたしまして!」
「調子に乗るな」
「はい!」
いつの間にか。
俺たちは、言葉より先に動けるようになっていた。
背中を預ける。
互いに死角を補う。
敵の動きを見れば、相手が次に何をするのか分かる。
それは、長い年月をかけて積み重ねた信頼だった。
ある討伐任務で、俺は魔物の攻撃から団長を庇った。
爪が肩を掠める。
「レオン!」
「大丈夫です!」
「大丈夫なわけがない!」
「でも団長、無事ですよね?」
「……」
団長が黙った。
そして、珍しく怒った顔をした。
「お前は、自分の命を何だと思っている」
「え?」
「私を庇うために死ぬつもりだったのか」
「そんなつもりは――」
「なら、二度とするな」
強い声だった。
俺は少し驚いた。
「……はい」
その夜。
焚き火の前で、団長が俺の肩の傷を確認してくれた。
「痛むか」
「ちょっとだけ」
「嘘だな」
「……かなり痛いです」
「最初からそう言え」
団長は包帯を巻く。
その指先は驚くほど優しかった。
「団長」
「何だ」
「俺、強くなりましたよね」
「……ああ」
少しの沈黙。
「以前のお前とは比べものにならない」
「へへ」
「ただし」
「はい?」
「強さとは、傷つかないことではない」
団長は俺を見る。
「守りたいものがあるとき、恐怖を抱えたままでも前へ出られることだ」
その言葉は、ずっと俺の胸に残った。
強さとは、力じゃない。
誰かを守りたいと思う心。
怖くても逃げない覚悟。
そして――。
自分だけではなく、仲間を信じること。
俺は少しずつ、それを知っていった。
◇
さらに年月が流れた。
俺はいつしか、騎士団内でも名前を知られるようになっていた。
昔のように訓練で転ぶことも減った。
倉庫整理で怒られることも、さすがに少なくなった。
ただ。
「レオン。書類を逆さに持つな」
「え?」
「……お前は本当に変わらないな」
「いや、昔より成長してますよ!?」
「そこではない」
同期たちは笑った。
俺も笑った。
ナターシャ団長も――ほんの少しだけ笑っていた。
そんな日々の中で。
ある日、団長に呼び出された。
「レオン」
「はい!」
「お前を副団長に推薦する」
「…………え?」
俺は固まった。
「俺が?」
「ああ」
「副団長?」
「ああ」
「俺?」
「他に誰がいる」
「いやいやいや!」
思わず椅子から立ち上がる。
「俺、昔は倉庫で怒られてましたよ!?」
「今も時々怒られている」
「そこは否定してください!」
団長は呆れたように目を細めた。
けれど。
その瞳は、とても穏やかだった。
「お前はこの数年間、何度も私の背中を守った」
「……」
「部下からの信頼も厚い」
「……はい」
「任務での判断力もある」
「……」
「そして何より」
団長は一度だけ言葉を止めた。
「お前は、仲間を見捨てない」
胸の奥が熱くなる。
「それが、お前の一番の強さだ」
俺は拳を握った。
昔。
俺は団長の背中を追いかけていた。
いつか追いつきたい。
いつか認めてもらいたい。
そう思っていた。
そして今。
俺はようやく。
彼女の隣に立つことを許された。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
「え?」
「副団長になれば、今まで以上に忙しくなる」
団長は淡々と言った。
「覚悟しておけ」
「はい!」
俺は笑った。
「団長の隣なら、どこまででも走ります!」
「……お前は本当に騒がしいな」
そう言いながら。
団長の頬は、ほんの少しだけ赤かった。
◇
そして。
俺が副団長になってから、さらに時間が経った。
俺たちの関係は変わらない。
団長は厳しい。
俺は騒がしい。
団員たちは、そんな俺たちを見て笑う。
いつしか俺は。
ナターシャ団長の一番近くで働く男になっていた。
けれど。
俺自身は、それが当たり前だと思っていた。
だから。
あの日。
団長が泣いている姿を見るまで。
自分の気持ちに気づくことはなかった。
◇
その日、俺は団長を探していた。
夕方の王都。
任務から戻った俺は、報告書を渡すために団長室へ向かった。
だが。
部屋に団長はいなかった。
「珍しいな」
いつもなら仕事をしている時間だ。
探しているうちに、城の裏手にある庭園へ出た。
そして。
見つけた。
ベンチに座る団長。
白銀の髪が風に揺れている。
いつもなら真っ直ぐ伸びている背中が、今日は小さく丸まっていた。
「団長?」
呼びかける。
返事がない。
近づく。
「……ナターシャ?」
肩が震えた。
俺は息を呑んだ。
泣いていた。
あのナターシャ団長が。
誰よりも強く。
誰よりも冷静で。
誰にも弱みを見せなかった人が。
静かに涙を流していた。
「……レオン」
「どうしたんですか」
「何でもない」
「何でもない人は、そんな顔しません」
「……」
団長はしばらく黙っていた。
そして。
「婚約者に……別れを告げられた」
「……」
「他に好きな女性がいるそうだ」
胸が締め付けられた。
けれど。
俺が何も言えずにいると。
団長は、震える声で呟いた。
「私は……可愛げがないそうだ」
「……は?」
「強すぎるから」
ナターシャは俯いた。
「一緒にいても疲れる。もっと愛想がよくて、男を立てられる女性がいいと」
俺は拳を握った。
腹の底から、怒りが湧いた。
「……誰ですか」
「何?」
「誰がそんなこと言ったんですか」
「レオン」
「今すぐ連れてきてください」
「何をするつもりだ」
「説教します」
「やめろ」
「でも!」
「……もういい」
団長が小さく笑った。
悲しい笑いだった。
「私には、可愛げがないんだ」
その瞬間。
俺の中で何かが切れた。
「……そんなわけないでしょう」
「レオン?」
「団長は可愛いです」
「…………」
沈黙。
俺も固まった。
何を言っているんだ、俺は。
でも。
一度口にしてしまったら、止まらなかった。
「可愛いですよ」
「……やめろ」
「嫌です」
「レオン」
「だって本当だから」
団長が顔を上げる。
涙で濡れた青い瞳。
その顔を見た瞬間。
胸が大きく鳴った。
――あ。
俺。
この人のこと。
「……好きなんだ」
口から、無意識にこぼれていた。
「何?」
「…………」
俺は自分で言った言葉に驚いた。
今まで。
ずっと。
憧れだと思っていた。
尊敬だと思っていた。
信頼だと思っていた。
でも。
違った。
もっとずっと前から。
俺は。
ナターシャ・ヴァレンティアという一人の女性に恋をしていた。
◇
それから俺は、少しだけ変になった。
いや。
正確には。
自分でも隠せなくなった。
「団長」
「何だ」
「今日も綺麗ですね」
「……急に何を言っている」
「本当のことです」
「仕事をしろ」
「はい!」
翌日。
「団長」
「何だ」
「その髪型、似合ってます」
「……そうか」
さらに翌日。
「団長」
「何だ」
「今日も可愛いです」
「…………」
団長の耳が赤くなる。
俺は思わず笑った。
「やっぱり照れてる!」
「黙れ!」
「すみません!」
けれど。
怒っているように見えて。
団長は、どこか嬉しそうだった。
それが分かるようになった。
長い時間、一緒にいたから。
眉の動き。
目線。
声の僅かな変化。
ほんの少しの表情。
俺には分かる。
団長は。
ずっと一人で頑張っていた。
強くなければならない。
団長なのだから。
弱音を吐いてはいけない。
泣いてはいけない。
誰かに甘えてはいけない。
そうやって。
自分の心を氷で覆っていた。
だから俺は。
その氷を無理やり壊すのではなく。
毎日少しずつ温めることにした。
「団長、お昼食べました?」
「まだだ」
「じゃあ一緒に食べましょう!」
「仕事がある」
「俺も手伝います!」
「……お前は本当に」
「はい!」
「……仕方ないな」
ある日は。
「団長、疲れてません?」
「問題ない」
「顔に出てます」
「出ていない」
「出てます」
「出ていない」
「出てます!」
「……うるさい」
そう言いながら。
団長は俺の隣に座った。
また別の日には。
「団長」
「何だ」
「今日は俺が書類を全部やります」
「無理だろう」
「できます!」
三時間後。
「……レオン」
「はい」
「字が汚い」
「すみません!」
団長は呆れながらも笑っていた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
団長の氷は溶けていった。
◇
そして。
決定的な事件が起きた。
国境近くで、大規模な魔物の群れが確認された。
俺たちは討伐隊として出撃した。
戦場は激しかった。
地面が揺れる。
魔物の咆哮。
剣戟。
怒号。
土煙。
俺は仲間を守りながら前へ進んだ。
「レオン!」
団長の声。
振り向く。
巨大な魔物が、団長へ襲いかかっていた。
「団長!」
俺は走った。
考えるより先に身体が動いた。
剣を構える。
衝撃。
腕が痺れる。
それでも踏ん張る。
「レオン、下がれ!」
「嫌です!」
「命令だ!」
「嫌です!」
俺は笑った。
「俺、団長の副団長ですよ!」
「……!」
「団長の背中を守るのが、俺の仕事です!」
魔物が咆哮する。
俺は一歩踏み込む。
剣を振る。
団長も同時に動いた。
左右から挟み込む。
呼吸は完全に一致していた。
「今だ!」
「はい!」
二人の剣が同時に閃いた。
魔物が崩れ落ちる。
静寂。
俺は荒い息を吐きながら笑った。
「……勝ちましたね」
「ああ」
団長が俺を見る。
その目には。
いつもの冷静さがなかった。
代わりに。
明らかな恐怖と安堵が浮かんでいた。
「……無事でよかった」
「え?」
次の瞬間。
団長が俺の胸元を掴んだ。
「もう二度と、私の前で無茶をするな」
「団長……?」
「お前まで失ったら……私は……」
声が震えている。
俺は何も言えなかった。
団長が俺の胸に額を押しつける。
白銀の髪が肩に触れる。
「……怖かった」
その言葉を聞いた瞬間。
俺はそっと彼女の背中に腕を回した。
「大丈夫です」
「……」
「俺はここにいます」
「……馬鹿」
「はい」
「本当に……馬鹿だ」
「知ってます」
団長の身体が、ほんの少し震えた。
そして。
俺の胸元に顔を埋めたまま。
「……もう少しだけ」
「え?」
「このままでいさせてくれ」
「もちろんです」
俺は笑った。
ああ。
この人を守りたい。
剣だけじゃない。
この人の心も。
笑顔も。
幸せも。
全部。
◇
王都に戻った夜。
俺は団長を呼び出した。
「ナターシャ団長」
「何だ」
「俺、話したいことがあります」
「……分かった」
静かな夜だった。
月明かりが白銀の髪を照らしている。
俺は深呼吸した。
「俺は、団長が好きです」
団長の瞳が揺れる。
「ずっと尊敬していました」
「……」
「強くて、綺麗で、格好よくて。俺の憧れでした」
一歩近づく。
「でも、それだけじゃなくなりました」
もう一歩。
「笑ってほしいと思うようになった」
さらに一歩。
「泣いてほしくないと思うようになった」
目を逸らさずに言う。
「誰よりも近くにいたいと思うようになった」
団長の唇が震える。
「……私は」
「はい」
「可愛くないぞ」
「知ってます」
「融通も利かない」
「知ってます」
「仕事ばかりしている」
「知ってます」
「料理も苦手だ」
「それは知らなかったです」
「……レオン」
「はい」
「そこで笑うな」
「すみません」
団長が俯く。
しばらく沈黙したあと。
「……それでも?」
「それでもです」
「こんな私でも?」
「こんな団長だから好きなんです」
「……」
長い沈黙。
やがて。
ナターシャが小さく息を吐いた。
「……ずるいな」
「え?」
「そんなことを言われたら……」
彼女は顔を上げた。
青い瞳から、一粒だけ涙が落ちた。
「私だって……お前を好きだと言いたくなる」
俺の心臓が跳ねる。
「……本当ですか?」
「嘘をついてどうする」
「じゃあ!」
「ただし」
「はい!」
「今までのように、誰にでもあんなふうに笑いかけるのは……少し嫌だ」
「え?」
「……何でもない」
耳が赤い。
俺は思わず笑った。
「団長」
「何だ」
「可愛いです」
「……本当に、お前は」
団長は呆れたように笑った。
けれど。
その顔には、もう昔のような冷たさはなかった。
俺はそっと手を差し出した。
「これからも、隣にいていいですか?」
団長はその手を見つめる。
そして。
白い手袋を外した。
素肌の指が、俺の手に重なる。
「……私のほうから、頼みたい」
ぎゅっと。
その手が握られる。
「これからも、私の隣にいてくれ」
「はい!」
俺は笑った。
「喜んで!」
◇
それからしばらくして。
王国騎士団では、妙な噂が流れるようになった。
「最近、団長が柔らかくなったよな」
「副団長が原因だろ」
「確かに」
「この前なんて、団長が副団長の肩に寄りかかってたぞ」
「嘘だろ!?」
「本当だ」
「誰か見たのか?」
「俺が見た」
そんな噂が飛び交う中。
団長室では。
「ナターシャさん」
「……何だ」
「今日も可愛いですね」
「……もう慣れた」
「じゃあ、もう一回言います」
「必要ない」
「大好きです」
「……」
ナターシャは顔を赤くして、書類で俺の顔を隠した。
「仕事をしろ」
「はい!」
けれど。
机の下では。
彼女の指が、俺の手をそっと握っていた。
俺は笑う。
握り返す。
昔。
俺は彼女の背中を追いかけていた。
強くなりたかった。
認められたかった。
いつか、あの人の隣に立ちたかった。
そして。
今。
俺はその隣にいる。
けれど、きっと。
これが終着点じゃない。
これからも俺は強くなる。
彼女を守るために。
彼女が安心して笑える場所を作るために。
そして。
彼女がもう二度と、自分のことを「可愛げがない」なんて言わないように。
「ナターシャさん」
「何だ?」
「俺、これからも毎日言いますからね」
「……何をだ」
「可愛いって」
「……ほどほどにしろ」
「嫌です」
「レオン」
「はい!」
「……好きだ」
「…………」
今度は俺が固まった。
ナターシャは少しだけ悪戯っぽく笑う。
「どうした?」
「いや……」
顔が熱い。
心臓がうるさい。
俺は思わず頭を掻いた。
「団長のほうが、ずるいじゃないですか……」
「ふふ」
小さな笑い声。
それは。
かつて氷のようだった彼女からは想像もできないほど、柔らかかった。
俺は思う。
きっと強さというのは。
剣の腕だけじゃない。
誰かを信じること。
誰かに支えられること。
そして――。
誰かを心の底から愛すること。
俺はナターシャと出会って。
そのことを知った。
そして彼女もまた。
一人で強くあろうとすることだけが、強さではないと知ったのだと思う。
「レオン」
「はい?」
「……これからも、よろしく頼む」
「もちろんです!」
俺は満面の笑みで答える。
「ずっと、俺が隣にいます!」
「……ああ」
ナターシャは微笑んだ。
その手はもう、離れない。
かつて氷に閉ざされていた彼女の心は。
今では、俺の隣で。
春の日差しのように、穏やかに溶けていた。
――そして俺は。
これからもきっと。
世界で一番格好いい女騎士団長を。
世界で一番可愛い女性として、愛し続けるのだろう。
もちろん。
毎日、何度でも。
「ナターシャさん」
「何だ?」
「今日も可愛いです!」
「……もう、好きにしろ」
そう言った彼女の耳が。
今日も少しだけ、赤く染まっていた。
◇
それからしばらくして。
王国騎士団では、妙な噂が流れるようになった。
「最近、団長が柔らかくなったよな」
「副団長が原因だろ」
「やっぱりそう思う?」
「絶対そうだ」
食堂の片隅。
俺の同期たちが、ひそひそと話している。
……いや。
全然ひそひそになっていない。
「この前なんて、団長が副団長の肩に寄りかかってたぞ」
「嘘だろ!?」
「本当だ。俺はこの目で見た」
「お前、それ生きて帰ってこられたのか?」
「危なかった」
「おい!」
思わず俺は声を上げた。
「全部聞こえてるからな!」
同期たちが一斉にこちらを見る。
そして。
「おお、噂の本人が来たぞ」
「レオン!」
「お前、あの団長を射止めるなんてすごいな!」
「よくやった!」
「うるさい!」
俺は顔が熱くなるのを感じた。
「射止めるって何だよ!」
「だってそうだろ?」
同期の一人がニヤニヤ笑う。
「王国騎士団の中で、ナターシャ団長に近づこうなんて奴、昔は誰もいなかったんだからな」
「……」
「いや、正確には近づけなかった」
「そうそう」
「団長が怖すぎて」
「訓練中に目が合っただけで背筋が伸びるって有名だったし」
「お前だけだよ。あの人の隣で平然と飯食ってるの」
「いや、俺だって最初は怖かったぞ?」
「嘘つけ」
「本当だって!」
すると。
「……何の話をしている」
「…………」
背後から、聞き慣れた声がした。
食堂の空気が一瞬で凍る。
振り返る。
そこには、銀色の長い髪を優雅に揺らしたナターシャ団長が立っていた。
相変わらず美しい。
黒に近い濃紺の騎士服。
凛とした立ち姿。
冷静な碧眼。
かつてと何も変わらない。
――ように見える。
「い、いえ! 何でもありません!」
同期たちが一斉に姿勢を正す。
俺も慌てて立ち上がった。
「団長!」
「……レオン」
「はい!」
「お前もか」
「え?」
「さっきから聞こえていた」
「…………」
まずい。
ものすごくまずい。
団長は俺たちを見回した。
「食事中に騒ぐな」
「「「はい!」」」
さすが団長。
やっぱり怖い。
……と思った。
けれど。
団長は俺の隣に立つと。
ほんの少しだけ。
俺の袖を摘まんだ。
「……行くぞ、レオン」
「え?」
「一緒に昼食を取るのだろう?」
「……!」
俺は思わず笑った。
「はい!」
その瞬間。
背後から。
「おおおおお!」
「見たか!?」
「団長から誘ったぞ!」
「副団長、お前やっぱりすげえな!」
「うるさい!」
俺は振り返って叫んだ。
団長の耳が真っ赤になっている。
「……レオン」
「はい」
「あとで覚えておけ」
「俺ですか!?」
食堂中に笑い声が広がった。
◇
その日の午後。
訓練場では、いつものように騎士たちが鍛錬をしていた。
「そこ! 足が止まっている!」
ナターシャ団長の鋭い声が飛ぶ。
「はい!」
新人騎士たちが一斉に背筋を伸ばす。
昔と変わらない。
厳しくて。
妥協がなくて。
誰よりも強い。
けれど。
少し離れたところで、俺は団長を見ていた。
団長が新人騎士の剣を受け止める。
「力任せでは駄目だ。相手の動きを見ろ」
「はい!」
「焦るな。お前ならできる」
新人騎士が目を見開く。
「……ありがとうございます!」
団長は小さく頷いた。
そしてこちらを見る。
目が合う。
俺は笑った。
団長も。
ほんの少しだけ。
笑った。
その光景を見ていた同期が、俺の肩を叩く。
「なあ、レオン」
「何?」
「団長、本当に変わったよな」
「……そうかな?」
「ああ」
同期は訓練場を見つめる。
「昔はもっと、一人で全部背負ってる感じだった」
「……」
「近寄りがたいっていうか」
「うん」
「でも今は違う」
同期は笑った。
「ちゃんと俺たちを見てくれてる」
俺は団長を見る。
新人騎士に剣を教える彼女。
失敗すれば厳しく叱る。
けれど。
できたときには、ちゃんと褒める。
怪我をすれば心配する。
無茶をすれば叱る。
昔から変わらない。
ただ。
その厳しさの奥にある優しさを。
今では、皆が知っている。
「……俺が変えたのかな」
俺が呟くと。
「調子に乗るな」
すぐ隣から声が飛んできた。
「うわっ!」
振り返る。
ナターシャが呆れた顔で立っていた。
「聞こえていたぞ」
「すみません!」
「お前一人のおかげではない」
「ですよね」
「……ただ」
団長は少しだけ目を伏せた。
「お前がいてくれてよかったとは思っている」
「…………」
今度は俺が固まった。
「団長……」
「何だ」
「今の、もう一回言ってください」
「断る」
「えー!」
「仕事をしろ」
「はい!」
俺が笑う。
団長も笑う。
その姿を見た同期たちが、また騒ぎ始めた。
「お前ら、本当に仲いいな!」
「もう完全に夫婦じゃん!」
「団長! 副団長が仕事中にデレデレしてます!」
「レオン!」
「俺!?」
訓練場に笑い声が響く。
かつては、誰もが恐れていた女騎士団長。
氷のような心を持つと噂されていた女性。
けれど今。
彼女の周りには、笑顔がある。
騎士たちの冗談がある。
仲間たちの信頼がある。
そして。
いつも隣には、俺がいる。
◇
夕暮れ。
仕事を終えた俺たちは、並んで王城の廊下を歩いていた。
「今日は疲れましたね」
「ああ」
「晩飯、何にします?」
「……そうだな」
「俺、肉が食べたいです」
「お前はいつも肉だろう」
「成長期なので!」
「もう成長期という年齢でもないだろう」
「心はいつでも成長期です!」
「意味が分からない」
団長が笑った。
俺も笑う。
ふと。
団長が立ち止まった。
「レオン」
「はい?」
「……手を」
「え?」
「その……」
団長が少しだけ視線を逸らす。
「繋いでもいいか」
「…………」
俺の心臓が跳ねた。
「もちろんです!」
差し出した手を。
団長がそっと握る。
白い手袋越しの小さな温もり。
昔なら。
こんな光景は想像もできなかった。
誰よりも強く。
誰よりも凛としていて。
誰にも弱さを見せなかった彼女が。
今では俺に甘えてくれる。
時々、隣に座りたがる。
時々、俺の袖を掴む。
そして。
たまに自分から「好きだ」と言ってくれる。
そのたびに。
俺は思う。
この人を好きになってよかった。
この人の隣に立てる男になれてよかった。
「レオン」
「はい?」
「……これからも、頼む」
「もちろんです!」
俺は満面の笑みで答えた。
「ずっと俺が隣にいます!」
「……ああ」
団長は微笑んだ。
その表情は。
昔の彼女を知る者が見れば、きっと驚くだろう。
けれど。
俺は知っている。
これが、本当のナターシャなのだ。
強くて。
不器用で。
優しくて。
少しだけ甘えん坊で。
そして――。
誰よりも可愛い女性。
俺がずっと守りたいと思った人。
俺が、心から愛する人。
◇
翌朝。
俺が訓練場へ向かうと、同期たちが待ち構えていた。
「おい、レオン!」
「何?」
「昨日、団長と手を繋いで帰っただろ!」
「見てたのかよ!」
「そりゃ見るだろ!」
「お前、あの団長を射止めるなんて本当にすごいな!」
「だから射止めるって言い方やめろって!」
笑い声が響く。
俺も笑う。
そして。
訓練場の入口を見る。
そこにはナターシャが立っていた。
白銀の長い髪。
澄んだ碧眼。
凛とした姿。
誰もが憧れる、最高に格好いい女騎士団長。
けれど。
俺と目が合うと。
彼女はほんの少しだけ頬を緩めた。
「レオン」
「はい!」
「今日も頑張ろう」
「はい!」
俺は走り出す。
彼女のもとへ。
昔は。
追いかけていた。
いつか追いつきたいと思っていた。
そして今は。
彼女と並んで走っている。
同じ景色を見て。
同じ未来を目指して。
笑い合って。
時には喧嘩して。
それでも手を取り合って。
これからも、ずっと。
俺は彼女の隣にいる。
――それが。
俺が見つけた、本当の強さだった。




