第13話「雪解けの泥と春を告げる使者」
分厚い雪に閉ざされていた辺境の村に、ようやく暖かな風が吹き込み始めていた。
屋根に積もっていた雪が溶け出し、軒先から絶え間なく水滴が滴り落ちて地面を叩く。
その規則的な水音が、長く厳しい冬の終わりと新しい季節の始まりを告げる心地よい音楽のように響いていた。
雪の下で眠っていた土が顔を出し、湿った黒い土の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。
あの嵐のような発情期を越え、互いの魂を深いところで結び合わせた二人の生活は、春の陽光のように穏やかで満ち足りたものになっていた。
レオは背負い籠を手に持ち、雪解けが進む裏山の森へと足を踏み入れた。
革靴の底が柔らかくなった泥に沈み込み、歩くたびにぬかるむ感触が伝わってくる。
木の根元や日当たりの良い斜面を注意深く探ると、落ち葉の下から薄緑色の小さな芽がいくつも顔を出しているのが見えた。
春の訪れを最も早く知らせてくれる、特有の苦味を持った山菜だ。
レオは指先を泥で汚しながら、柔らかな芽を根本から丁寧に摘み取っていく。
切り口から立ち上る青く鮮烈な香りが、冬の間に縮こまっていた五感を鋭く目覚めさせてくれた。
籠の半分ほどが緑色で埋まったところで、レオは満足して立ち上がり、食堂へと足を引き返した。
家の前に到着すると、見慣れない光景が広がっていた。
泥を跳ね上げた一台の質素な馬車が停まり、その傍らに二人の近衛兵と、深い青色の外套を身にまとった若い男が立っている。
あのシリウスのような傲慢な装飾はなく、実務を重んじる文官特有の洗練された身なりだ。
レオが戸惑いながら近づくと、土間からアレクが姿を現した。
彼は薄手のシャツの袖を捲り上げ、手には薪の束を抱えている。
皇帝らしからぬその出で立ちに、若い文官は目を丸くして固まっていた。
だが、文官はすぐに姿勢を正し、泥の地面に片膝をついて深く頭を下げる。
「陛下。帝都より参りました、ルキウスと申します。シリウスの後任として、辺境離宮との連絡調整を拝命いたしました」
誠実さを感じさせる真っ直ぐな声だった。
アレクは薪を土間の隅に下ろし、手についた木屑を払い落としてからルキウスを見下ろした。
以前の彼なら、帝都からの使者というだけで刃のような警戒心を露わにしていただろう。
だが今の彼から放たれるのは、雨上がりの森のような深く穏やかな気配だけだ。
「遠路ご苦労だった。面を上げろ」
アレクの言葉にルキウスが顔を上げると、その瞳には明らかな安堵の色が浮かんでいた。
血で血を洗う権力闘争の中で、常に張り詰めた殺気を漂わせていた冷酷な皇帝の姿はそこにはない。
ルキウスの視線が、籠を持ったまま立ち尽くすレオへと向けられる。
彼は立ち上がり、レオに対しても礼儀正しく一礼をした。
「あなたが、陛下のお心を癒やし、この離宮を支えておられる方ですね。お初にお目にかかります」
その真摯な態度に、レオは胸をなでおろした。
アレクが自らの番として宣言した言葉が、帝都の良識ある若手官僚たちに正しく伝わっている証拠だった。
レオは微笑んで会釈を返し、二人を温かい食堂の中へと案内した。
ルキウスが持参した書類の確認をアレクが行っている間、レオは厨房に立ち、昼食の準備に取り掛かった。
帝都から長い旅をしてきた彼に、この辺境の豊かな春を味わってもらおうと考えたのだ。
摘んしてきたばかりの山菜を冷たい水で丁寧に洗い、泥を落として水気を拭き取る。
小麦粉を冷水で軽く溶き、山菜をくぐらせて薄い衣をまとわせた。
鉄鍋にたっぷりの油を注ぎ、薪ストーブの火で高温に熱していく。
油の表面に微かな波が立ち始めたところで、衣をつけた山菜を静かに落とし込んだ。
熱された油が細かく跳ねる軽快な音が厨房に響き渡る。
衣が瞬く間に黄金色に変わり、青々とした山菜の香りが熱気に乗って立ち上った。
焦げないうちに素早く引き上げ、余分な油を切ってから砕いた岩塩を振る。
隣の竈では、大きな鍋で湯を沸かし、小麦粉から練り上げて作っておいた平打ちの麺を茹で始める。
別のフライパンに、裏庭の洞窟で仕入れておいた小豚のひき肉を入れ、脂を引き出すようにじっくりと炒めた。
肉の表面が色づいたところに、洞窟の香草と塩を加え、さらにあの黄金の食材の欠片をたっぷりと削り入れる。
熱で溶け出した黄金の欠片が肉の脂と絡み合い、蜂蜜のような深いコクのある匂いが部屋を満たした。
茹で上がった麺をフライパンに移し、濃厚なソースを手早く絡めていく。
大きな陶器の皿にパスタを高く盛り付け、その傍らに黄金色に揚がった山菜を添えた。
三つの皿を盆に乗せ、アレクとルキウスが待つ食卓へと運ぶ。
ルキウスは書類から顔を上げ、目の前に置かれた料理の美しい色彩と香りに目を奪われていた。
「さあ、冷めないうちに食べて。辺境の春の味だよ」
レオが勧めるより早く、アレクはフォークを手に取ってパスタを口に運んでいた。
彼は満足げに目を細め、次々と麺を喉の奥へと送り込んでいく。
ルキウスも遠慮がちにフォークを取り、まずは揚げたての山菜を口に入れた。
衣が砕ける軽やかな音の後、ルキウスの目が驚きに大きく見開かれる。
山菜特有の心地よい苦味と、油のコク、そして岩塩の鋭い塩気が口の中で見事な調和を見せていた。
続けて濃厚なソースの絡んだパスタを口にすると、今度は彼の手が止まり、深い感嘆の息が漏れた。
「これは素晴らしい。肉の力強い旨味を、この信じられないほど甘く深いソースが包み込んでいる。帝都のどの晩餐会でも、これほどの料理を口にしたことはありません」
ルキウスは感極まったような声で賞賛の言葉を紡ぎ、夢中で皿を空にしていった。
アレクは自分の皿を平らげると、ルキウスの様子を見て誇らしげに口の端を上げた。
「俺がこの場所を離れない理由が、これでわかっただろう。彼が作る料理と、彼が俺に向ける眼差しこそが、俺の命を繋ぐ唯一の糧だ」
その言葉を聞き、ルキウスはフォークを置いて深くうなずいた。
「はい。陛下の瞳に宿る温かな光が、すべてを物語っております。もはや帝都の者たちも、この離宮の存在に異を唱えることはないでしょう。私が責任を持って、この素晴らしい体制を支えてみせます」
若き文官の力強い誓約に、アレクは満足そうに短く息を吐いた。
レオは食後の茶をいれながら、二人のやり取りを静かに見守る。
帝都と辺境をつなぐ新しい架け橋が、この小さな食堂の食卓から生まれようとしていた。
アレクから漂う森の香りが、レオの果実の香りと混ざり合い、春の風に乗って部屋の隅々まで優しく広がっていく。
雪解けの泥の匂いとともに、彼らの未来を阻むものはもう何一つ残っていなかった。




