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第8話 解放の時



一週間後。

私の牢の前に、懐かしい顔が現れた。

 

「やあ、久しぶりだな」

 

酷く不快で耳障りな声。

久方ぶりに見るローレンツォの顔は、随分と脂ぎっていた。痩せすぎだった神学生の面影はなく、今の彼は分不相応に豪華な法衣に、無理やり身体を押し込んでいる。

腰に差した儀礼剣。

そして、指に嵌まった銀の指輪。

ーーーああ、あの指輪。

私がノエルマに贈るために、不器用ながらに金貨を貯めて作らせたあの指輪だ。

それを自分の太い指に無理やり嵌めて見せに来るとは、実に涙ぐましい努力だ。

 

「定期視察だ。異端審問官補佐の職務としてな」

 

異端審問官補佐。

十年も経って、まだ補佐止まりか。

私を売り、友を踏み台にして手に入れた幸運の貯金を使っても、彼はその程度の椅子しか手に入れられなかったらしい。

 

「それは、おめでとう。十年もかけて、ようやく補佐の椅子にしがみつけたようだな」

 

私が静かに皮肉を投げかけると、ローレンツォの顔が僅かに引きつった。

図星だったのだろう。

かつてのライバルたちが次々と本職の審問官や司教へと出世していく中で、実力のない彼は、私の不幸を糧にした棚ぼたの幸運だけで、辛うじて今の地位を維持しているに過ぎないのだ。

 

「……君、何か……変わったか?」

 

ローレンツォが眉をひそめて私を凝視した。

 

「何がだ?」

 

「いや、雰囲気が……これほど長く地下牢にいれば、もっと死にかけているはずだが。まるで……脱皮でもしたかのように瑞々しく見える」

 

彼は戸惑っている。当然だ。

彼は知らない。私の癌が消え、右目が再び光を捉え、折られた足が既に完治していることを。

世界が私に媚び、因果が逆転し始めていることを。

 

「主の御加護のお陰かもしれないな。……君の出世が遅れているのも、主の思し召しだろう?」

 

「黙れ!……伝えたいことがある。ノエルマのことだ」

 

その名を聞いた瞬間、凍りついたはずの心臓が僅かに跳ねた。

 

「彼女の亡骸だが、聖遺物の棺ごと教団で回収した。近日中に棺を開け、正式に埋葬する予定だ。……言っておくが、魂を繋ぎ止めておけるのは、あと数ヶ月だ。それを過ぎれば、彼女はただの『肉の塊』になる」

 

ローレンツォは、私の絶望を期待するように醜く微笑んだ。埋葬。それは彼女を二度殺すということだ。

 

「待て……それだけは、やめてくれ」

 

私が鉄格子に縋り、懇願すると、ローレンツォは陶酔したような顔で私を見下ろした。

これだ。彼はこの顔が見たかったのだ。

自分の無能さを忘れ、唯一勝っていると感じられるこの瞬間を。

 

「……ああ、そうだ。お近づきの印に、これをあげよう。欲しいだろう?」

 

ローレンツォが、嘲笑いながら腰の鍵束をジャラつかせた。

彼が私を馬鹿にするために、その鍵束をわざと顔に近づけようとした、その時だった。

ガサリ。壁の隙間から、一匹の鼠が這い出した。

その鼠が、ローレンツォの足元に偶然駆け寄った。

 

「うわっ!?」

 

小心者の彼は、鼠一匹に怯えて無様に飛び退いた。

だが、その不様なステップこそが、脱獄への舞踏だった。

飛び退いた拍子に、豪華な法衣の腰元が、壁に突き出ていた古い釘に偶然引っかかった。

 

バリッ!

 

「くそっ、この安物が!」

 

ローレンツォは苛立ち、強引に布を引っ張った。

その拍子に、釘に引っかかっていたのは法衣だけではなく、鍵束の環も同様だった。

 

パチンッ!

 

金属が弾ける音が響き、鍵束が石床を転がった。

チャリン、チャリン、と。

それはまるで意志を持っているかのように、私の格子の前でピタリと止まった。

 

「……な、なっ」

 

ローレンツォが呆然とそれを見つめる。

私は静かに手を伸ばし、それを拾い上げた。

 

「おやおや。神は、私にここから出ろと仰っているようですね。……君の無能さこそが、最大の奇跡だ」

 

「待て!返せ!それは……!」

 

慌てて私に掴みかかろうとしたローレンツォだったが、彼の足は偶然そこにあった湿った苔の上を捉えた。

 

「うがあああああっ!?」

 

激しい音を立てて、彼は後頭部から石床に叩きつけられた。私は、十年間眺め続けてきた鍵を、迷うことなく錠前に差し込んだ。

 

ガチャリ。

 

十年の絶望を閉じ込めていた鉄格子が、今、嘘のように軽やかに開いた。

檻の外に出た私の姿は、もはや廃人のそれではない。

 

「おめでとう、ローレンツォ」

 

私は、床に這いつくばる彼の肩を優しく、慈愛を込めて叩いた。

 

「あなたは今日、世界で一番の不幸を手に入れましたよ。……なに、心配はいりません。これからあなたには、山のような幸運が訪れますから」

 

「待て……待ってくれ……!」

 

逃げようとした彼の手が、石床に落ちていた鋭利な石片を偶然力いっぱい握りしめた。

 

「ぎ、ああああああああっ!!」

 

指の間から鮮血が噴き出す。

私はそれを気に留めることなく、地上へと続く階段を登り始めた。

 

「数ヶ月、ですか。十分だ」

 

背後で、ローレンツォが立ち上がろうとして、再び自分の法衣に足を取られて階段から転げ落ちる音が聞こえた。

 

「アーメン」

 

世界を書き換える、長き執行が。

今、始まった。


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