第7話 呪い
翌日。
牢番がいつものように、私の前に立った。
「食事だ」
彼は鉄格子の隙間から、虫入り粥を差し入れる。
相変わらず、虫が浮いている。本日は二匹だ。昨日より一匹減った。
だが、彼は気づいていない。私の身体が、昨日までとは全く異なる状態になっていることに。
格子の影に身を隠しているし、この薄暗さでは分かるまい。それに、彼らは私を「見て」などいない。ただ「絶禍の男」という概念を恐れているだけだ。
ーーー私は微笑んだ。
「ありがとう」
慈愛に満ちた、聖職者らしい笑顔で。
ああ、久しぶりだな、この顔。
十年。ずっと、この表情を作る機会がなかった。
鏡もないこの牢で、今の私がどんな顔をしているのか分からないが、おそらく聖者のように見えるだろう。皮肉なものだ。心が最も神から遠い今、きっと私は最も神父らしい顔をしているのだから。
牢番は一瞬、私の顔を見て息を呑んだ。
不気味なほど穏やかな私の表情に、毒気を抜かれたようだった。
「……っ。おい、お前」
彼は去ろうとした足を止め、苛立ちを紛らわせるように吐き捨てた。
「今朝から妙なことばかり続く。さっきも服のボタンが全部弾け飛びやがった。……階段でも三回躓いた。お前のせいじゃないだろうな?」
「それはそれは、お気をつけて。主の御加護がありますように」
私は穏やかに言った。
主の御加護?
笑わせる。
主など、最初からこの男を見てなどいない。
見ているのは、私だ。
いや、違うか。私すら見ていない。
ただ、私が存在しているだけで、この男の運命は狂い始めているのだ。
牢番はチッ、と舌打ちし、首を傾げながら去っていった。廊下を歩く彼の足音が、少しおぼつかない。
私は、彼の背中を見送った。
そして静かに呟いた。
「……始まったか」
至福。絶禍の反転。
今まで、私の周りにいた者たちは幸運に満ちていた。私を虐げた者ほど、より大きな幸福を掴んだ。
ならば、今度はどうだ?
私の周りにいる者たちは、不幸に沈むのみ。
それが、おそらく至福という体質だ。
呪いをかけたわけでもない。祈ったわけでもない。
私の周りで、世界が勝手に動き出す。
まるで、溜め込んだ不幸を、今度は周囲にばら撒くかのように。
「……さて」
私は虫入り粥を見つめた。食べる気にもならない。
「腹が減ったな」
私はふと呟いた。
まともな食事が食べたい。
焼きたてのパン。燻製肉。チーズ。果物。
そんなものが、この地下牢で食べられるはずもないが、望んでしまう。
ーーーその瞬間。
ガラガラという音がフロア一帯に響いた。
「うわっ」
「おい、止めろ!」
廊下の奥で、誰かが叫んでいる。
「なんで車輪が外れるんだ!?」
「紐が、紐が切れて」
「畜生、食料が全部散らばった」
看守たちが慌てふためいている。私は静かに待った。さあ、どうなる?
ドガァン!!!
地下牢への階段の入り口で、何かが崩れ落ちる音がした。食料運搬用の荷車が、階段を転げ落ちてきたのだ。
「誰だああ!車輪を整備しなかった奴は!」
看守たちの罵り合う声が、廊下に響く。
すると、コロコロと音を立てて、私の牢の前まで一つの木箱が転がってきた。
衝撃で蓋が外れ、中身が零れ出る。
焼きたてのパン。燻製肉。チーズ。果物。
数々の食料が溢れるように出てきた。
おそらく、聖都の上級聖職者たちへの配給品だ。
私は呆然とそれを見つめた。
「これはこれは。想像以上だ……」
側から見れば、起こり得る偶然。
ただの事故以外に考えられないだろう。
釘の老朽化、紐の摩耗。
全て物理的に可能な出来事だ。
だがそのタイミングが、あまりに都合良すぎる。
これが、至福の力か?
世界が勝手に、私の望む結果を用意する。
まるで、今までの不義理を詫びるかのように。
「だがこの程度では……償いにならないな」
私は手を伸ばし、鉄格子の隙間からパンを一つ掴んだ。まだ温かい。
私は喧騒の中、何も気にせずに齧りついた。
「……美味い」
以前の私なら、涙を流して神に感謝を捧げただろう。だが、今は。
「……こんなものか」
喜びも感動もない。
この行為も所詮は、腹を満たすための作業に過ぎない。
彼女がいない世界で味わう美食など、この程度のものだ。
私はパンを食べ続けた。機械的に。淡々と。
廊下では、看守たちが散らばった食料を必死に拾い集めている。
実に間抜けな姿だ。
そうやって、いつまでも上の奴らに媚びへつらい続ければいい。
「しかし、気になる。どこまで可能なのか見ものだな」
至福。それは、運命そのものを味方につける力。
神が定めた因果を、私の都合良く書き換える冒涜。
まあ、神が私を冒涜したのだ。お返しくらい、させてもらおう。
◇
三日後。
また騒がしい。
どうやら、先日少し会話した牢番の若造が、事故で死んだらしい。
「……前任は、馬車に轢かれて死にました。酔って飛び出したそうです」
新しい看守が、私と目を合わせないように震えながら告げた。
「そうか」
私は、それだけ答えた。
可哀想だとも思わない。彼も他の奴らと同罪だ。
私をどうせ死ぬ男だと陰で笑っていた。
だから死という罰が当たっただけ。
私は十字を切った。
「お気の毒に。アーメン」
世界は、私の周りで勝手に動く。
私は何もしていない。
新しい看守は、私の顔をじっと見た。
「……あれ?気のせいかな。随分血色がいいですね?何年も閉じ込められてるのに」
「……そうですか?」
私は穏やかに答えた。
彼は気味悪そうに首を傾げ、逃げるように去っていった。
私は、彼の背中を見送った。
「……次は、お前らの番だ」




