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第6話 至福の徴(しるし)


目が覚める。

いつもと同じように今日が始まった。

暗闇。冷気。悪臭。聖都の地下牢が私に用意した、唯一変わらぬ三位一体だ。

私は石床に座り込み、天井の染みを左目だけで数えていた。九百十三個。昨日は九百十二個だった気がする。あるいは、一昨日だったか。まるで私の不幸を律儀に記録する帳簿のように、染みは忘れた頃にひとつ、またひとつと増え続けている。

神とは実に几帳面な記録係だ。救いは与えぬくせに、苦痛の目録だけは完璧に管理なさる。

 

「食事だ」

 

牢番の声が、鉄格子の向こうから聞こえた。

若い男だ。名前は知らない。知る必要もない。

彼は格子の隙間から、いつもの虫入り粥を差し入れる。本日も豪華な献立だ。浮遊する虫が三匹。昨日より一匹多い。

 

「ありがとう」

 

私は力ない声で答えた。

牢番は何も言わず、足早に去っていった。

私は粥を見つめる。

食べる気力もない。だが、食べなければ死ねない。死ねば、ノエルマを汚した奴らに報いを受けさせられない。ゆえに、食べる。

私は残された右手で粥に手を伸ばした。

 

「……ん?」

 

右手の人差し指から、淡い金色の光が漏れ出ていた。

まるで夜明けの光のような、柔らかく、温かな輝き。

最初は幻覚かと思った。十年も暗闇にいれば、脳が勝手に希望の幻影を見せる。

ーーーだが、違う。

光は、確かにそこにある。

そして、私の内側で何かが動いた。

 

これまで十年間、私を蝕み続けてきた絶禍。

あのドロドロとした重圧が、音を立てて逆流を始めた。

不快な重みが消え、代わりに、脳が痺れるような甘美な感覚が全身を駆け巡る。

甘ったるく、気持ち悪い。まるで腐った蜜を直接脳に流し込まれたような感覚だ。

 

「……これは」

 

私は自分の体を見つめた。

腹部に巣食っていた末期の癌が、氷が溶けるように消えていく。私を内側から食い殺そうとしていた死の塊が、今、黄金の光に変換されて霧散していく。

祈っても届かなかった救いが、祈りを捨てた瞬間に、頼んでもいないのに向こうからやってきた。

神などいない。いるとすれば、これほど趣味の悪いタイミングで奇跡を与える、最悪のサディストだ。


「……なっ!?ぐおおお!?」

 

メキメキと音がした。

歪んだまま固まっていた右足の骨が、正常な形に戻っていく。

そして、数日前にザックスに切り落とされた左手首。断面から黄金の粒子が溢れ出し、骨を、血管を、筋肉を、そして真っさらな皮膚を編み上げていく。

失ったはずの手が、そこにあった。

 

「……見える」

 

潰されていた右目が、再び光を捉えた。

十年ぶりの、両目での視界。

牢の天井。染みだらけの壁。自分の両手。

ああ、なんと醜い。

十年ぶりに取り戻した光が映し出すのが、この汚物まみれの地下牢だとは。

 

「……ふん」

 

私は短く鼻で笑った。

十年前にこれがあれば、感謝の涙を流していただだろう。

だが、今は何も感じない。

遅すぎる。全てが、あまりにも遅すぎる。

おそらく、これは絶禍の反転。

十年分の不運が、十年分の幸運――いや、世界そのものが私に跪く至福へと変わったのだろう。

理屈ではない。ただ世界が、十年間の理不尽を詫びるかのように、私に許しを乞うかのように因果を書き換えている。

 

「……今更だな」

 

私は呟いた。

これがあれば、ノエルマを救えた。ローレンツォに裏切られることもなかった。

だが、彼女はもういない。

世界は、代償を支払ったつもりでいるのだろうか? 笑わせる。

 

「まあ、いい。支払ってもらおう。利子をつけて、すべてをな」

 

私は立ち上がった。右足はもう痛まない。

 

「これで、始められる」

 

神への祈りなど、とうに腐り果てた。

これからは、地獄の底で練り上げた呪いを、あの男たちに叩き込む。

 

「アーメン」

 

私は十字を切った。

神の不在を祝して。そして、惨劇の幕開けの合図として。


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