第5話 地下牢の告白
地下牢の暗闇は、全てを奪う。
光も、音も、希望も。
私は石床に座り込み、ただ虚空を見つめていた。どれだけの時間が経ったのか、もう分からない。十年かか、それとも二十年か。もはや、どうでもよかった。
「ノエルマ」
私は彼女の名を呼んだ。
だが、答えは返ってこない。彼女はもういない。そして私だけがここにいる。全てが、終わった。
その時、扉が開いた。
松明の光が暗闇を切り裂く。
「やあ、友よ」
懐かしい声がした。
……ローレンツォだ。
「貴様」
私は彼を見上げた。
「何の用だ。私を嘲笑いに来たのか」
「嘲笑? いやぁ、そんなつもりはない」
ローレンツォは鉄格子の前に立った。
「ただ、話がしたくてな」
「話?」
私は冷たく笑った。それすらも、もはや力ない笑いにしかならなかった。
「裏切り者と、話すことなど何もない」
「酷い言われようだな」
ローレンツォは肩をすくめた。
「確かに、君からすればそう見えるだろう」
「違うのか」
「違う」
彼は私の目を見た。
「私は、君を救おうとしたんだぞ?」
「何を言ってる」
私は信じられないという表情を浮かべた。いや、表情を作る気力すらない。ただ、呆然と彼を見つめるだけだ。
「私を地下牢に落としておいて、救うだと?」
「ああ」
ローレンツォは頷いた。
「君は正気を失っていた。このままでは、自らを滅ぼすだけだった」
「それが、何だというのだ」
「だから、止めた」
彼は淡々と言った。
「君を、破滅から救うために」
私は何も言えなかった。怒りが込み上げてくる。だが、それを言葉にする気力すら、もう残っていない。
「それに」
ローレンツォが続けた。
「君はもう、彼女のことを忘れるべきだ」
「……誰のことを言ってる」
「ノエルマのことだ」
彼は静かに言った。
「彼女はもう死んだ。いつまでも、死者に縋っていても仕方ない」
「黙れ」
私は低く唸った。
「何が分かる」
「分かるさ」
ローレンツォは冷たく笑った。
「君以上に、な」
その言葉に、何か違和感を覚えた。
「どういう、意味だ」
「ノエルマは、美しかった」
ローレンツォは遠くを見るような目をした。
「清らかで、優しくて、誰からも愛されていた」
「それが、何だ」
「私も、彼女を愛していた」
彼は静かに告げた。
私は息を呑んだ。
「何を、言っている?」
「事実を言っているだけだ」
ローレンツォは私を見下ろした。
「彼女を愛していた。だが、彼女は君を選んだ」
「ローレンツォ……」
「君のような、世間知らずの理想主義者を」
彼の声には僅かな苦みが混じっていた。
「だから、決めたんだ。君が彼女を手に入れられないなら、私も諦めよう、と」
彼は一瞬、視線を逸らした。
「だが」
「だが?」
「彼女が病に倒れた夜、私は彼女の部屋を訪れた」
私の背筋が凍った。
「貴様が?なんで」
「看病をするふりをして、な」
ローレンツォは淡々と語った。
「彼女は意識が朦朧としていた。私が誰かも、分からなかっただろう」
「まさか」
「君のものになる前に、せめて一度だけでも」
「貴様」
「彼女は美しかった。あの夜も」
「やめろ」
私は叫んだ。
だが、ローレンツォは止まらなかった。
「そして、彼女は死んだ」
ローレンツォは無表情のまま続けた。
「私の子を宿したまま、な」
世界が止まった。
「嘘だ」
私は呆然と呟いた。
「嘘だ。嘘だ」
「信じられないか?」
ローレンツォは肩をすくめた。
「だが、事実だ。彼女の亡骸を調べれば分かるだろう」
ーーーああ、神よ。あなたは本当に存在しないのだな。存在しないからこそ、このような言葉が平然と語られる。
「貴様」
私は彼を睨んだ。
「殺してやる。必ず、殺してやる」
「構わん。できるものならな」
ローレンツォは踵を返した。
「では、さらばだ。友よ」
彼は数歩歩いてから、振り返った。
「ああ、そうだ。言い忘れていた」
「まだ、何か」
「君の財産だが」
ローレンツォは微笑んだ。
「教団が没収した後、私が『管理』を任されてな。君がノエルマに贈るはずだった指輪も、今は私の手元にある」
私は何も言えなかった。ここまでくると、もはや素晴らしい。実に素晴らしい知恵だ、ローレンツォ。全てを奪い尽くすとは。
「悪いが全て、私の妻に贈らせてもらった」
ローレンツォは続けた。
「彼女は、とても喜んでいたよ。では、本当にさらばだ」
ローレンツォは扉へと向かった。
「待て。待て」
私は叫んだ。
だが、無情に扉は閉じられた。
再び、暗闇だけが残った。
私は膝から石床に崩れ落ちた。
「ノエルマ……?」
彼女の名を呼んだ。
だが、もう何も感じない。悲しみも、怒りも、全てが遠い。ただ、空虚だけがある。
いや、違う。
空虚ではない。
何かが、満ちている。
黒く、ドロドロとした、憎悪が。
「神よ」
私は天を仰いだ。
「なぜ貴方は私を見てくれないんだ?」
神は答えない。神など、最初からいなかったのだ。
ならば。
「私が、自らの手で」
私は誓った。
「必ず、彼女を取り戻す」
私は拳を握りしめた。骨と皮だけの、痩せ細った拳だ。
「彼女を救うための祈りは、もう捨てた」
声が、低く変わっていく。
「これからは、地獄の底で練り上げた『呪い』を、あの男に、いやこの世界に叩き込む」
私は天を仰いだ。
「神よ、見ていてください。いつか私がこの手で、最高の地獄を執行して差し上げますから」




