第4話 奈落の10年
地下牢の扉が、閉じられた。
鉄錆の匂いと、重苦しい暗闇が私を包みこむ。
「ノエルマ……」
私は、彼女の名を呼んだ。
だが、もう誰も答えない。
私は冷たい石床に倒れ込んだ。
「なぜだ……なぜ、私はこんな……」
神に祈っても、応えはない。
親友に頼っても、裏切られる。
頬を伝う涙は、やがて枯れ果てた。
残ったのは、ただ一つ。
ドロドロと煮え立つ、憎しみだけだった。
◇
三日後。
大司教が、地下牢を視察に訪れた。
私の牢の前で、彼は汚物を見るかのように顔をしかめた。
「この男は、絶禍の相を持っている。己だけが不幸に沈む呪いだ。触れてはならぬ。ただ、ここに封じておけ。永久にな」
大司教が放ったその言葉は、看守たちの間で、本来の意図とは異なる、歪んだ言葉で広まっていった。
「おい、聞いたか? 大司教様が言ってた絶禍ってのは、周りに幸運を配り歩く呪いらしいぞ」
「ああ。試しにあの野郎の飯を半分抜いてみたら、その日の博打で大勝ちした奴がいるんだ」
大司教は、不運を撒き散らすから関わるなと命じた。
だが強欲な看守たちは、実体験を通して残酷な真実を理解してしまったのだ。
――この男を痛めつけ、不幸のどん底へ叩き落とせば落とすほど。
――溢れ出した「幸運」が、自分たちに降り注ぐという因果を。
いつしか地下牢には、一つの暗黙の了解が成立していた。あの地下の異端者は、俺たちの人生を豊かにするための生贄だと。
◇
一ヶ月後、隣の牢の囚人が無罪放免となり。
三ヶ月後、私を拷問した看守が賭けに勝ち、さらに花形部署へと異動していった。
周囲が幸運になるたび、私の環境はさらに劣悪になっていった。
◇
収容されて二年後。
地下牢で疫病が流行ったが、一人だけ治療を拒否された。
「絶禍の男を治療する必要はない。放置しておけ」
高熱に浮かされ意識が朦朧とする中、私を放置した医師は他の囚人を救った功績を認められ、王宮付きの侍医に任命された。
◇
収容されて三年後。
地下牢の改修工事が行われた。
「全ての囚人を、新しい牢へ移す」
清潔で明るい牢へと囚人たちが移されていくのを、ただ黙って見送ることしかできなかった。
「お前はここに残れ。絶禍の男を、他の囚人と一緒にするわけにはいかん」
独り取り残された牢には、湿り気と腐臭だけが漂っていた。
◇
収容されて五年後。
自ら志願してこの最下層へ赴任してきた男がいた。
名は、ザックス。
蛇のように細い目をしたその男は、牢の中に入ってくるなり、歓喜に顔を歪めた。
「へぇ、お前が噂の絶禍の男か。大司教様が直々に宣告したっていう、歩く幸運の貯金箱様だな。最高じゃないか、聞いてた通り……いや、それ以上の面構えだ!」
汚い男だ。欲に異常な執着を持つであろう彼にとって、この場所は迷信の溜まり場ではなく、資産の宝庫に見えてるらしい。
私はあえて気にしてないふりをし、食事に手を伸ばそうとした。
ーーーその瞬間、重い靴底が右足の上に振り下ろされた。
骨がメキリと音を立てて砕け、悲鳴すら上げられず悶絶する。
「ぐあああああ!?」
「あはは! 見ろよ、お前の骨が折れた瞬間に、俺の懐の金貨が増えた気がするぜ!」
その言葉は間違っていなかった。
ザックスには、すぐさま幸運が舞い込んだ。
私から溢れ出す運を使い、軍や聖堂への昇進をすべて蹴り、現場の責任者という地位に執着し続けた。
「出世なんて興味ねえよ。現場にいりゃあ、お前を絞り尽くして一生遊んで暮らせるんだ。……なあ、お前は最高の道具だよ」
◇
ノエルマが死んで八年後。
ザックスの強欲さは、もはや狂気となっていた。
「なあ、絶禍。お前を痛めつければつけるほど、俺の博打は当たる。なら、ここらでドカンと大きな幸運を呼ぼうぜ?」
ザックスは楽しそうに鼻歌を歌いながら、鋭く削り出した鉄の棒を私の顔に近づけた。
「や、やめろ。やめてくれ……」
「いい声だ! ほら、右目をもらうぜ。……これでお前は不幸になり、俺はさらなる高みへ行ける!」
ぐちゅり、と嫌な音がして、私の右目の視界は永遠に闇に染まった。
「ぎゃあああああっ」
焼けるような痛みにのたうち回る私を見下ろし、ザックスは恍惚とした表情で叫んだ。
「ひゃはは!楽しみだなぁ?今度はなにが起きるんだ」
ーーー数日後、ザックスは血走った目で牢に駆け込んできた。その手には一通の書簡が握られている。
「お前の目を潰したあの翌日だ! 俺が二束三文で買った土地から、金鉱が見つかったって報告が届いたんだよ! お前は最高だ、ザックス様の専用金庫だな!」
ザックスは恍惚とした表情で、もはや見えない私の右目を愛おしそうに撫でた。
「お前が壊れれば壊れるほど、俺の人生は輝くんだ。次は何を壊してやろうか……。絶対に逃がさないからな?お前が死ぬまでに、世界の王にでもなっとくか?ひゃはははは!」
◇
収容されて九年後。
私の体は、度重なる虐待と劣悪な環境により、もはや生きた屍と化していた。
腹の奥には10年にわたる不遇が結晶化したような、得体の知れない死の塊が根を張り、私の内側を食い荒らしていた。
ザックスは、そんな私の限界を強欲な嗅覚で察知した。
「……ちっ、これ以上やったら、幸運を吐き出す前にくたばっちまうな。もしお前が死んだ瞬間に、これまで溜め込んだ不幸が爆発でもしてみろ。俺の幸運まで道連れにされたら堪らねえ」
彼は、私の命が尽きる瞬間に起こるかもしれない「呪いの逆流」を警戒していた。
最後の一滴まで絞り、かつ自分が巻き込まれない引き際を、彼はその鉈に託した。
「最後にその手首も頂くぜ。これで俺の人生は上がりだ」
笑いながら振り下ろされた刃。
左手首から先は無造作に切り捨てられ、止血すらされずに放置された。
すると仲間の看守が姿を現した。
「あ、いたいた。ザックス、上が呼んでるぜ?」
「きたきたきた!一体何の話だろうな?」
ザックスは、血に濡れた鉈を無造作に放り出すと、足早に牢を去っていった。
遠ざかる軽快な足音と、下卑た笑い声。
それとは対照的に、私の周囲には、滴り落ちる血の音と、重苦しい死の気配だけが残された。
ーーー数時間後。
地下牢の重い扉が開き、誰かが戻ってくる音がした。
革靴が石床を叩く響きは、以前よりもずっと高く、傲慢なものに変わっている気がした。
「いやあ、素晴らしい。実に素晴らしい!」
戻ってきたザックスは、見たこともないような豪奢な外套を羽織っていた。
その手には、この監獄の全権を象徴する、金細工の施された「副看守長」の階級章が握られている。
「聞いたか? 絶禍。俺はたった今、副看守長に任命された。それも、ただの副看守長じゃねえ。前任者が急死して、さらに上の連中が不祥事で一掃されたお陰で、俺が実質的なトップだ」
ザックスは鼻歌を歌いながら、私の牢の前に椅子を持ってきて、ふんぞり返るように座った。
「お前の手首を落とした瞬間に、全てが完璧に噛み合った。これでもう、俺に指図する奴はこの監獄に一人もいない。誰にも邪魔されず、お前から搾り取った金で、ここで一生贅沢三昧だ」
彼は、息も絶え絶えな私を見下ろし、まるで長年連れ添った愛馬に暇を出すような、残酷なまでの優しさを浮かべた。
「出世も、金も、平穏な老後も。お前のおかげで、全部手に入った。……だからよ、もう無理して生きてなくていいぜ?」
ザックスは満足げに、持ち込んだ最高級のワインの栓を抜いた。
芳醇な香りが、血生臭い牢獄に不釣り合いに広がる。
「お前がこのまま惨めに、誰にも看取られず死んでいく。……それが、俺の人生という名のパズルを完成させる、最後の一片だ」
ザックスは、好き放題言った後に去っていった。
手に入れたばかりの豪華な自室で、祝杯を挙げるのだろう。
残されたのは、右目を失い、右足を折られ、左手首を無くし、癌に蝕まれた生贄の抜け殻だけ。
意識は薄れ、視界は真っ暗に染まっていく。
ーーーあ、あぁ……。
声にならない呻きが、喉の奥で泡となって消える。
痛い。苦しい。寒い。
もう、嫌だ。
神なんて、いなくていい。
救いなんて、もう望まない。
そんな高尚なものは、とっくにこの暗闇で腐り落ちた。
お願いだ。誰でもいい。
お願いだから、殺してくれ。
今すぐ、この苦しみから私を終わらせてくれ。
私の幸運を吸って、誰かが幸せになるのはもういい。
ザックスが、ローレンツォが、この世界がどれほど輝こうと知ったことか。
ただ、私を死なせてくれ。
これ以上、私から何を奪えば気が済むんだ。
もう、何も残っていない。
身体も、心も、思い出の中の彼女の笑顔さえ、痛みで塗り潰されて思い出せない。
殺してくれ。
殺してくれ。
殺してくれ。
……死なせて、くれ……。
震える唇から漏れたのは、祈りですらない、ただの敗北の記録。
吐き出した言葉は血に混じり、虚しく石床に吸い込まれて消える。
私の人生は、ここで終わる。
惨めに、誰にも知られず、ただの使い古された道具として。




