第1話:プロローグ
聖都アルセナの春は、花の香りで満ちている。
大聖堂の中庭に咲き誇る白百合が、柔らかな風に揺れていた。
「……また寝ているのか」
私は呆れた声で、中庭のベンチに寝そべっている男に声をかけた。
「んん? ああ、君か」
ローレンツォが、面倒臭そうに片目を開けた。
黒髪に、鋭い灰色の瞳。神学院でも指折りの秀才だが、その怠惰な性格は誰もが知っている。
「午後の講義が始まるぞ。また遅刻する気か」
「構わないさ。どうせ、あの老教授の講義は死んだ文字を追うだけの退屈な儀式だ」
ローレンツォは欠伸をしながら身を起こした。
「君みたいに真面目に聞く方が時間の無駄だと思うがね。実利的な法を学んだほうが、街も『女』も潤うだろう?」
「……不謹慎なことを言うな、ローレンツォ。正しく祈り、魂を清めることこそが人々を救う道だ。知識は、そのための杖に過ぎない」
「杖、か。……殴るのにも使えそうだな」
彼は肩をすくめ、底の知れない笑みを浮かべた。
ローレンツォは、何事も効率を重視する。神への祈りすら、結果を出すための手段としか考えていない。
だがそれでも、彼は私の唯一無二の親友だった。……そう信じていた。
「あら、二人とも。また喧嘩?」
柔らかな声が、背後から聞こえた。
振り返ると、そこには彼女がいた。
名はノエルマ。
亜麻色の髪を後ろで結い、清楚な修道女見習いの服を纏った少女。
彼女の微笑みは、いつも私の荒んだ心を穏やかにしてくれる。
「喧嘩ではない。ただ、こいつが説教臭いだけだよ」
ローレンツォが、私の肩に腕を回した。
親しげな、あまりにも親しげな仕草。
「相変わらず、融通が利かない」
「ローレンツォこそ、相変わらず不真面目だ」
言い返す私を見て、ノエルマはくすくすと笑った。
「二人とも、本当に仲が良いのね。まるでお互いが欠けた半身みたい」
「……半身、か」
私は少し照れくさくなった。
確かに意見は合わない。だが、孤児院で共に育ち、泥を啜りながら聖職を志した彼を、私は心から信頼していた。
「それより、ノエルマ。今日の奉仕活動の準備は終わったのか?」
「ええ。孤児院への寄付品も、全部揃えたわ。今日は、子供たちと一緒に祈りを捧げる予定なの」
ノエルマは、嬉しそうに頷いた。
私はその笑顔を見るだけで、胸が温かくなる。彼女は私の光だった。
雨の日、教会の軒下で震えていた彼女に、私が唯一のパンを半分分け与えた、あの日から――。
彼女はいつも私の隣にいてくれた。
「……ねえ」
ノエルマが、少し恥ずかしそうに私の袖を引いた。
「今度の休日、一緒に市場に行かない? 新しい聖書が入荷したって聞いたの」
「……あ、ああ、構わないよ。二人で行こう」
私が頷くと、彼女の瞳がぱっと輝いた。
だが、その光を遮るようにローレンツォが顔を出す。
「なら、私も行こうか。市場なら、美味い酒も手に入るしな」
「……聖職者が、酒の話をするな」
「やれやれ、堅いなあ君は。ノエルマだって、たまには羽目を外したいだろう?」
ローレンツォは笑いながら、ノエルマの肩に、私の時よりも少しだけ長く手を置いた。
「さあ、行きましょう。講義に遅れるわ」
ノエルマが、私たちを促した。
「ああ、そうだな」
私たちは、三人で講堂へと向かった。
白百合の香りが、春風に乗って流れていく。
あの時、私はまだ何も知らなかった。
この幸せな日常が、どれほど脆い砂の城だったのか。
――まさか私から全てを強奪せんとする餓狼が、すぐ傍に潜んでいるなど、知る由もなかった。




