第五走 ガバ勢と二年B組の生徒たち
「どっか変なとこねえかな?」
出発前、ルーキは腕をTの字に広げながらサクラにそうたずねた。
「いつも通りすね」
約一秒で観察を終えた彼女からの承認を受け、よし、と腹に力を込める。
安アパートの自室。朝食はさっき終え、身支度も今、整った。
「別に社交界デビューしようってわけじゃないんだから、多少変でもいいっすよ」
「それはそうだけど、久しぶりの古巣でいきなりガバりたくないしさ。曲がりなりにも先生だろ? 俺が」
「勉強はともかく、面倒見がいいことだけは認めるっす。教室でいきなりクッキー☆上映会とか始めなければ、まあどうにでもなるっしょ」
この依頼を受けたことを呆れているのか、あるいは緊張をほぐしてくれているのか、サクラは皮肉っぽく笑ってこちらを見た。
と。
「ごめんください。ルーキ君、行けますか?」
戸口の方から声がした。本日からちょっとした同僚扱いになる少女。
「いいんちょ来た 廿_廿」
「よし、じゃあ行ってくるぜ!」
意気込んで扉を開けると、そこには普段通りの格好のリズがいる。
「おはようございます、ルーキ君」
「おはよう、委員長」
RTAに出るのとは違う空気をルーキが感じ取ると、彼女もまたそうなのか、少しはにかんだ様子で微笑んだ。
「それでは行きましょうか。ルーキ先生」
「おう、今日からよろしくな、委員長先生」
「その呼び方はどうかと思います」
今日から二人で、RTA訓練学校の臨時講師だ。
※
「なあ、今日来る新しい先生って、現役走者だって知ってるか?」
RTA訓練学校二年B組に属するユーゴは、窓際最後尾の特等席で読書に耽る同級生の少女にそう呼びかけた。
ユーゴはどこか鋭角的な眼差しの少年だった。赤いマフラーを口元が隠れるほど厚めに巻いている。背丈は同年齢としてはやや低い部類だったが、不愛想な口調に気弱さはなく、むしろ我の強さが滲み出ていた。少し伸ばした髪は黒で、前髪の一房だけ髪が塗り損じたかのように、青色。
「知っているわ。レイ一門の人なんでしょう? 注目に値するわ」
本のページに張りついていた目が動き、涼しげで淡泊な少女の声がそう言い返した。
ユーゴの同級生で、名前はクラムセル。
セーラーカラー付きの白のコートに身を包み、肌は色白、長い髪は薄いグレーと、かけている黒縁の眼鏡をのぞけば全体的に色素が霧のように薄い。それに加え表情も変化に乏しいとなれば、精神まで薄弱なのではないかと思わせるが、彼女が結構激情家で根に持つタイプであることを、去年から同じクラスのユーゴは知っている。
「おぉ、猛者集うルタに名を馳せしレイ一門! そこに入門した我らが先輩がこのクラスにやって来てくれるとは、なんたる僥倖!」
アホみたいに芝居がかった言動で割り込んできた男は、ヴァシリー・レゴントン。
訓練学校では珍しい貴族傍流の出身で、高そうなジャケットにズボンを愛用。きっちり整えられた頭髪は血筋だという薄紫だ。
比較的小柄なユーゴとクラムセルに比べると一人頭抜けて長身で、手足もすらっと長く優雅だが、こいつもこいつで辺境の貧乏貴族の末っ子というみそっかすであることをユーゴは熟知している。
入学初日に知り合い、何の因果か今まで一緒。三人はそういう集まりだ。
「レイ一門って、実態よく知らねえけどよ。なんかダメな走者の集まりなんだろ?」
RTA訓練学校は門限が厳しく、レイ一門が夜な夜な開いていると噂の完走した感想とかいう集会にもちょうど出られない規則形態になっている。昼間はもちろん訓練漬けなので、彼らはもちろん街の走者たちにだって会うことはまずない。
「あら、でもプロの走者よ。繋がっておいて損はないわ」
人を食ったような薄笑いに、早くも打算的な意図を滲ませるクラムセル。
「何にせよ、我らの糧としてこれからのRTA人生に生かせばいいのだ。そうだろう? マイフレンズ」
大袈裟な言葉選びで彼女に同調するヴァシリーに、ユーゴは「RTA人生ね……」と外面は冷淡な口調で繰り返す。
そうだ。まだ本番は始まってすらいない。評価だって何も定まっちゃいない。なのに何だBクラスって、なめやがって。
俺だって本気になれば。現場に出れさえすれば、大掲示板に名前くらい簡単に載せられるんだ。
いつまでこんな狭苦しいところに閉じ込められてなきゃいけない。さっさとスタートさせろっ……。
「おーい、ユーゴ」
クラスメイトに手招きされ、ユーゴはこの何の集まりか常々わからないでいる三人の輪からあっさり抜けた。
「何だ?」
「今日、臨時講師が来るだろ? 歓迎に何かしてやらないかって、クラス長が」
説明を受け、すぐ近くにいた真面目さが取り柄の少年――Bクラスでは優等生とすら呼ばれない――クラス長が、そうだ、とばかりにうなずく。
「今から? ぎりぎりすぎるだろ」
「だよなー。そう思ってよ」
悪戯好きのそのクラスメイトは、黒板の粉受けから黒板消しを手に取り、教室の引き戸の上にセットした。
「こんなのどうだ?」
「おまえなぁ……ガキか」
古典的な悪戯だ。こんなの、相当視野が狭いマヌケでないと引っかからない。
が、クラス長をのぞいたその場の男子たちは、このアイデアがすっかり気に入ってしまったようだった。ゲラゲラ笑いながら、これでいいこれでいこうと声を上げている。
「アホくせえ……」
ため息をつきつつ席に戻ったユーゴは、しかし、講師の力量を推し量るいい機会かもしれないと密かに思った。
これに素直に引っかかるようなアホなら、教わることも皆無だ。
クラスの女子たちは「また男子がアホなことやってる」という眼差しを向け、クラムセルは興味すら抱いていないだろう。ヴァシリーはわからない。きっと何か劇の台本でも諳んじて過ごしている。
そんなクラスだ。この落ちこぼれの教室は。
朝のホームルームまで、後わずか。これで来たヤツが大したことなかったら、この後の授業が全部ダルくなるな。そう考えつつ、ユーゴは廊下から教師陣の足音が近づいてくるのを待った。
※
「いやホント、二人が来てくれて助かったよ。ルーキ、リズ」
教室までの廊下を歩きながら、男性教師のボルトルソンはさっき教員室でしたばかりの話をもう一度しみじみと繰り返した。
人一倍ある大きな体に、いがぐり頭。加えて強面となれば新入生からは恐怖の対象でしかないだろうが、面倒見がよく、実はよく笑うという性質を踏まえると、教師としては当たりだったと卒業後に感謝する生徒は少なくない。
ルーキも追試験やら何やらで大変世話になった、間違いなく恩師と呼べる相手。
「まあ、先生からのご指名ってこともあったしな」
「他人に教えることで自分への勉強にもなりますから」
その後ろを大人しくついていくルーキとリズだが、教室から教員室までのこの経路は案内されるまでもなく熟知していた。
かたや教師から絶大な信頼を寄せられる元クラス委員長。かたや教員室に呼び出し常連の落ちこぼれ。だが、そうでなくともここは古巣RTA訓練学校。少なくとも、今いる生徒の誰よりも二人はここで長く過ごしていた。
「他にも頼んだヤツはいるんだが、忙しいと断られてなあ。まあわかるんだが、今でしか伝えられないこともあるんだ」
「訓練生時代とプロの走者との感覚の違い、ですね」
「さすがはリズ。そういうのは時間がたつとどんどん忘れていっちまうもんだからな。まだ記憶が鮮明な今の時期が一番いい」
ボルトルソンは彼女の優秀さを思い出したかのようにウンウンうなずくと、不意にこちらに話を振ってきた。
「にしても驚いたぞルーキ」
「へ? 俺ですか?」
「実力的には並より下くらいだったおまえが、まさかレイ一門に行ってからこんなに化けるとはな。リズの戦績は一年目から圧倒的になると前からわかっていたが、おまえの躍進は教師の間では語り草だよ」
「へへへ……そいつはどうも……」
照れくさくて頭をかく。教師から手放しで褒められた記憶というのはほとんどない。
「知ってるかもしれないが、卒業生の中にはもうRTAから離れた者もいる。成績下位者の三割、上位だった者でも一割くらいは音を上げて別の道へと進んだ。おまえは根性は人一倍あったが、それが逆に心配でな。無理して大きなケガでもするんじゃないかと不安だったんだよ」
「あはは! 大丈夫だって安心しろよ!」
「笑ってる場合ですか?」
「痛いッシュ! センセンシャウ……」
リズに尻をつねられたルーキが悲鳴を上げるのを見て、ボルトルソンは笑った。
「だからこそ、おまえにはBクラスを担当してもらいたい。今年から二年生の教室は実力分けになってな。追試の常連から這い上がったおまえの経験は、きっと彼らを大きく成長させてくれる。おれはそう信じている」
これもまた、ルーキが臨時講師を引き受けた理由の一つ。
頼まれたのが“できない”方のクラスだった。かつての自分と同じ。だから、力になれることがきっとあると思ったのだ。
「おっ、委員長。あれ見ろよ」
ここでルーキはふと、窓から見える景色に心を引っ張られた。
「“ゲ・オー橋”だ。まだあるんだ」
ゲ・オー橋は、俗にいう平均台だった。天井の梁のように細く、素早く渡り切るには相応のバランス感覚が要る。ただ、あれくらいの高さならさして緊張もしないし、難しくはない。
かつて「これを渡れないヤツはゲ・オー直行な」と余裕綽々で挑み、即落ちした伝説の生徒にちなんで、その愛称で呼ばれている。
ちなみにゲ・オーとは、RTA装備全般の買い取りをしてくれている中古ショップだ。装備の精度と安全性を重視するプロ走者はあまり利用しないが、週末だけのウイークリーランナーには手に馴染みやすいと愛用されている。
「そりゃあるでしょう。あっちのショトカ岩も健在ですよ」
リズが懐かしそうに言及したのは、いかつくそびえるハリボテの岩。
一見して登れそうもない断崖だが、実はあちこちに取っ掛かりがあり、しつこく飛びついていればいずれ登れるようになる。
正解を知っていれば一発突破できてしまうため、訓練器具としてはイマイチなように思えるが、実はここで学ぶべきだったのは、いけそうな場所とそうでない場所の見極めだと、今になって実感できる。
こういうことも生徒に伝えていきたかった。
「それじゃあルーキ君、ホームルームの後にまた」
リズがAクラスの前で止まり、軽く手を振る。優等生が集う教室はしんと静まり返り、街で噂の若き勇者の登壇を今か今かと待ち構えているようだ。
「ああ、またな」
ルーキはBクラスへ。こちらは何だか賑やかだ。お行儀の良さなんてどこにもない。
少し――いやかなり懐かしい気持ちになりながら、ルーキは教室の扉を開けた。
※
「ヘアッ!?」
「やったッ! かかった――」
バギベギボギ……!!
「ンアーーーーーッ!!」
教室の悪ガキどもが上げかけた歓声は、それをはるかに上回るけたたましい破砕音によって綺麗に掻き消された。
「何だ……!?」
瞬時に凍りついた教室の中、ユーゴは素早く教室の前へと飛び出ると、扉のすぐ外を確認した。
そこに、見たこともないものが存在していた。
穴だ。
古くなった木造校舎の床板が抜け、人が一人落ちていきそうな大穴が開いていたのだ。
「どうなったのユーゴ……!?」
聞いてきたのは一瞬遅れて駆けつけたクラムセル。ヴァシリーもいる。
「床が抜けた。先生が落ちたぞ……!」
「はは……なんとファンタスティックな……」
しかしユーゴがのぞきこんだ穴――一階を映した丸枠の中には、倒れたレイ一門の姿はない。一体どこに――。
「こんなもんで俺が素直に落ちるわけないだろ! へっ、甘ちゃんが!」
ドガーン!
ガシャーン!
キャー!
誰だ教室でワイヤーなんか使ってるヤツは!
センセンシャル!
「何だよ……!?」
ユーゴは床に視線を走らせた。下の階で何かが騒ぎを起こし――そしてその騒音ごと移動している。
ワイヤー? そう言えば、RTAでワイヤーを使って高速移動する一派があるという。まさか、それの使い手か? 落下する前に天井を掴んでリカバーした?
「おいユーゴ!」
教室にいる悪友たちが窓の外を指さした。
階下の騒音はそちらの方へと向かっている。
直後、何かが下から跳ね上がってきた。
ユーゴは目を剥いた。それは人だった。間違いなく、今日来るはずの臨時講師。
鋭く激しく、しかし自信に満ちた安定感のある動き。彼は腕に繋がったワイヤーで大きくスイングすると、床が抜けるというトラブルを切り抜けて、軽やかにこの教室に――……!
――ではなく隣のAクラスに飛び込んでいった。
ドガシャーン!
キャー!
何だ、モンスターか!?
ルーキ君何やってんですかあなたの教室は隣ですよ!
すいません許してください!
ん? 今何でもするって――。
(言って)ないです!
怒号に悲鳴。教室内が激しく掻き回される音。女子の着替え中に突っ込んだバカみたいに。
「これ、大人しく落ちてた方が被害がなかったんじゃない?」
「だな……」
クラムセルのつぶやきにユーゴが同調する中、何かが廊下に転がり出る音がした。そこでようやく騒動は静寂へと回帰していき――。
改めて、教室の扉が開いて彼が現れる。
「いやー、遅れてすまねえ! 道に迷っちゃってさ……」
クッソすっとぼけた笑顔で。
こっ、こいつ……!
Bクラスの誰もがそう思った。
今の騒ぎをなかったことにしようとしてる……!
それが、ルーキとユーゴたちの出会いだった。
教訓:レイ一門を試すようなことをしてはいけない。