第十二走 ガバ勢と落ちこぼれクラス
〈ユグドラシルダンジョン〉のTOE――!?
その単語が二年B組の生徒たちに完全に浸透することはなかった。かの地の脅威は彼らの教本にもしっかり書かれており、中でもTOEの危険性は『どれだけ人事を尽くしても無理な時は無理』とあるにも関わらず、現実を理解するには程遠かった。
受け止められない。こんなにもあっさりと、日常に死が紛れ込んでくるなんて。
「冗談だろ?」
だからこそユーゴが吐き出せたそんな軽薄な第一声は、
「冗談じゃないわ」
誰よりも現実を直視するクラムセルの声にあっさりと蹴散らされる。
「どうして〈ユグドラシルダンジョン〉のTOEがこんなとこにいんだよ!? 大鉄道で何日もいったところにあるんだぜ!」
「さっきの遠吠えを聞いたでしょう。いるもんはいるのよ。森から迷い出てここまでたどり着いたのか……それとも列車のどこかに乗り込んでやって来た知らないけれど……」
そんなユーゴとクラムセルの言い合いに「そんなこと話してる場合じゃないだろ!」と割り込んだのはB組のクラスメイト。
「どうすんだよこの状況!?」
「先生!? どうすりゃいいんです!?」
生徒たちから一斉に集まった視線に対し、ルーキ先生は迷わず指示を飛ばしてきた。
「即時撤退。急いで引き返すぞ。全員、パーティメンバーがちゃんと揃ってるか確認しろ」
この場の誰よりも落ち着いた、それでいて今一番誰もが聞きたかった言葉だった。
ユーゴたちはすぐさま仲間を確認。誰一人欠けていないことを確かめると、ルーキに従い直ちに元来た道を戻り出そうとした。
一刻も早く、ヤツの“テリトリー”から逃げなければ――。
が。
剣閃にすら似た鋭い眼光が茂みの奥から放たれるのを、ユーゴだけでなく全員が感じた。
咄嗟に振り返る。
前方の、灌木が幾重にも折り重なった茂み。
何か……いる!
ウソだろ。ウサギか何かだろ。
ユーゴが祈るようにその言葉を思い浮かべた次の瞬間、爆風に弾き飛ばされるよう灌木が消し飛んだ。
虚空を切り裂く数条の軌跡。まるで世界を傷つけた太刀筋のような――。
ゴガアアアアアアアアアアアアアア!!!
肌を裂くような咆哮が来た。筋肉が軋み、骨の髄まで怖気に浸らせるその声の主は、今やユーゴたちの視界の正面に完全に存在していた。
その姿は青灰色毛の熊に似ている。
だが、岩石のように膨れ上がった筋肉質な上半身に、手のサイズを倍にまで見せる長い爪、野生の熊とは明らかにシルエットが異なっている。より狂暴でより殺意に満ちた、ユグドラシルの生物形態……!
『…………!』
その悪魔を見た瞬間、ユーゴたちは一切動けなくなっていた。
指先一本の動でも見咎められれば、死ぬ。そう本能が理解しているかのようだった。
違う。今まで訓練で見てきたどんな相手とも。今ならわかる。訓練で戦うモンスターは、こっちが勝つために用意された相手だった。でもこいつは……こいつの前では、こっちが殺される役だ……!
(ふざけんな……ふざけんな……ふざけんなッ……!)
すでに最期の時を刻み始めている心音に、ユーゴは懸命に抗った。
(認められるか……! こんないきなり……こんな何でもないところで……!)
何か。何か手はないのか。あるだろ。絶対、何もできないってことないだろ。こっちは一クラスフルメンバーいるんだ。
しかし、そんな希望など軽く消し飛ばすほど目の前の怪物は絶対的で圧倒的だった。荒い息遣い、樹木にも似た臭い、ただそこにいるだけで、こちらの何もかもを縛ってくる。手も、足も、頭も、まるで動かないっ……!
「先生、どうすればいいんですか、先生っ……」
生徒の一人が迂闊に声を上げ――だが今はそれが絶対必要――、ルーキ先生に助けを求めていた。
そうだ。数々の危機を乗り越えてきた彼なら何とかできるはず。それが、生徒たちが今抱ける唯一の希望だった。しかし、次に聞こえてきた生徒の声は絶望に上擦る。
「だ、ダメだ。先生なんかブツブツ言ってるだけで、返事してくれねえ……!」
まさか念仏でも唱えているのか。
もう諦めて、死出の旅路RTAを始めているのか。
(そんなわけ……ねえ!)
あの人はもっととんでもないルートを、運じゃなく実力で完走してきているんだ。ガチ勢でさえ落ちる〈ユグドラシルダンジョン〉の怪物とはいえ……何もしないで諦めるなんてことあるはずが……。
「……待てよ……」
ユーゴにははっと閃くものがあった。
フォレストバスターを刺激しないよう、低く抑えた声でクラスメイトにたずねる。
「おい、先生は何て言ってるんだ……?」
「え、わ、わっかんねえよ。寒い……火の酒……とか何とか。普通の言葉じゃねえって……」
「……! それはきっと詠唱だ……! 先生の大技の……!」
ユーゴの言葉は、凍りつきかけていた二年B組に、確かな温度を広げた。
「なんでも運命をブッ壊す大魔法らしい。そいつさえ発動すれば、俺たちは助かる。だけど詠唱にすごく時間がかかるって……!」
「時間稼ぎが要る……というわけだ……」
ヴァシリーがかろうじて次の課題を口にする。
今、まだフォレストバスターはこちらを見ているだけだった。距離は、十数メートルはある。明らかに興奮し、攻撃的な様子だが、一足で届くという間合いではない。どうしてだ……?
「そうか……警戒しているのだわ」
クラムセルがそこに気づいた。
「ユグドラシル生まれの彼は、このあたりのことをよく知らない。だから相手の強さを測るために、まずは様子見をしているのよ。ユグドラシルでは無知はすなわち死。それはモンスターにとっても同じなんだわ」
「……! だったらワンチャンあるぞ! 農場の時と同じだ。ビビるな、目をそらさず一歩も引くな! このまま警戒させられれば、先生の詠唱が終わるまでもたせられる!」
「それなら……! 皆、肩を組んで。お互いを支えながら……自分たちを大きく見せるのよ!」
機転を利かせたクラムセルの一声に従い、生徒たちはそろそろと相手を刺激しないよう次々に肩を組んだ。
そうして出来上がる二十余名の横列。相手からは恐るべき怪物に見えていて……ほしい!
ゴガアアアアアアアア!!!!
フォレストバスターが吠える。吹き上がるような敵意と攻撃性が、ユーゴたちの冷や汗を下から上へと逆走させる。
「う、うあ……」と怯えて後ずさりそうになった生徒に対し、クラムセルが懸命に声を上げた。
「ビビらないで! 大声でやり返すのよ! わーっ! わあーっ!」
大声を出し慣れていない、か細い楽器のような声だ。だがその意図と懸命さは十分に伝わった。
『うおらあああああああああ!』
『だあああああああああああ!』
ユーゴもヴァシリーも他の生徒たちも必死にがなり散らす。
ゴガッ!? とわずかに怯んだ様子を見せるフォレストバスター。あちらの大咆哮に比べたら蚊が鳴くような声量だが、幾重にも重なれば彼らには不気味に聞こえるのかもしれない。
一歩も引けない人と獣の吠え合いだ。特に人間は半歩でも下がったら最後。そんなやり取りが何度も続く。
不利なのは、一体だけの獣の方――そんなことはなかった。
「ゲホッ、ゲホッ、クソ、喉が枯れてきた……」
ユーゴはうめいた。他の生徒たちも同様に喉を傷めかけている。こちらの声が小さくなってきたのを察したのか、いつしかフォレストバスターはじわじわと距離を詰めてきていた。
これは命の間合いだった。
近くでこの怪物熊を見れば見るほど、ユーゴは自分たちの命がギリギリのところで風に揺られているのを痛感する。苦しい。恐ろしい。先生の詠唱はまだかッ……!
「な、なあ……」
隣のクラムセルを挟んで、一人のクラスメイトが震える声で呼びかけてくる。
「今からでも……逃げらんねえかな……? 全員がバラバラに逃げたらさ……だ、誰かは、助かるんじゃないか……?」
「……!」
その作戦は破滅的ではあったが……あり得た。敵は一体。全員が別方向に逃げれば、多数は助かる可能性がある。しかし――。
「それだと、誰かが必ず死ぬぞ……!」
ユーゴはクラスメイトを一瞬だけ見た。お調子者でクラスのムードメーカーにもなる彼の顔は血の気が失せ、今にも泣き出しそうだった。
「そんなことわかってるけどよ……! でも、もう限界だろがよっ……!」
それもまた事実だ。フォレストバスターは明らかにこちらの脅威度を測り終えかけている。あと少し、わずかにでも弱さを見せれば確実に襲ってくる。その予感がある。生徒の中にはそれを悟ってしゃくり上げている者さえ出てきた。
級友の言うことはきっと賢い。間違ってはいない。だが……!
「いやだ……!」
「えっ……」
「いやだと言ったんだ!」
ユーゴはかすれかけた声で絶叫した。
「俺たちは確かにBクラスの落ちこぼれだ!! だが、人間として落ちこぼれるつもりはねえ!!」
「!!」
「ここで仲間を見捨てて逃げて……! どのツラ下げて卒業式を迎えるつもりだ!? その後は!? プロになってからもあんなヤツらと戦うんだぜ! その時もまた同じことをするつもりか!? 俺はやりたくねえ!」
「そっ、そんなのオレだって……!」
「生きんだよ!! 俺たちはまだ始まってすらいねえんだ! 全員生き残って……ちゃんとスタートしようぜ! 精一杯胸張って……背筋伸ばして、カッコつけてよ……!」
こんなに明け透けに胸の内をわめき散らしたことは一度もなかった。
多くを語れば底を見抜かれる。それなら寡黙な方がカッコイイし、侮られることもない。
しかし今、全部を吐き出さずにはいられなかった。こんな場面で。みっともねぇ。
けれども、肩を組んでいたクラムセルとヴァシリーの手が、確かな熱を持って自分の服を掴んでくるのをユーゴは感じた。不思議とそれは隣へ、さらに隣へと伝わっていくような気がした。
「ああ――なら、やってやらぁ……!」
弱音を吐いた生徒の声は、普段の明るさを取り戻していた。
「オレたちの美声を聞きやがれゴラアアアアアアアアアア!!!!」
「うわあああああああああああ!」
「どりゃああああああああああああ!」
全員で、叫んだ。
最後の力を振り絞って、吠えた。
――それらをまとめて、
ゴウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!
消し飛ばす。本気の、本当の殺意が込められた咆哮が。
来る。この獣の形をした死が。次に息する間もなく!
それでも止めない。吠え続けてやる。最後まで、最後まで――!
そこに鳴り響いた。
静かで、でも確信に満ちた詩のような一遍。
この先の橋は、メガトンコインを持っていると落っこちてしまいます
だから売りに戻る必要があったんですね
完 全 詠 唱 完 了 ! !
「よく保たせた全員伏せろォ! 来いッッ、ハーモニクス!!!!」
ルーキ先生の声に、わあっ、とユーゴたちは悲鳴を上げてその場に伏せていた。
簡単だった。膝はもう軟骨一本で立っているようなものだったから。
必殺の唸りを上げてフォレストバスターが突っ込んでくる。
その爪先を、ユーゴは頭のすぐ上で感じた。
空振り。こちらが急に伏せたので狙いを外したのだ。つまずいたのか、頭上をとてつもない質量が通り抜けていくのを感じた。盛大に前にすっ転んでいったらしい。だがすぐに起き上がり、改めてこちらに襲ってくる。
「……!?」
どうして? 敵は何も変わっていない。何も起こっていない。先生の必殺技は発動したんじゃないのか?
「い、いやあああああ!」
恐怖に耐えかねた女子が一人、立ち上がって走り出した。
目ざとくそれに反応し、フォレストバスターが追撃する。
生徒は足がもつれ、すぐに転んだ。フォレストバスターは腕を振り上げた。
「や、やめろぉ!」
ユーゴは叫んだ。それしかできなかった。
その時、機械音がした。前にも教室で聞いたワイヤーの唸る音。
ルーキ先生だった。
腕のワイヤーを使って一瞬で生徒に追いつくと、彼女の上に覆いかぶさった。
フォレストバスターは容赦ない一撃をその背中に振り下ろし――。
なかった。
ここでもまたフォレストバスターはつんのめり、勢いのまま前へと吹っ飛んだのだ。
木の根につまずいたのか、くぼみに足でも突っ込んだのか、それはわからない。だが二度目の転倒。そして今度はそれだけではすまなかった。
猛烈な勢いで転がりながら前方の木の幹に衝突し、別の方へと弾け飛ぶ。そしてその先でまた別の木へと激突、同じようにまた別の木へと、ピンボールのようにあちこちに跳ね回る。
ユーゴはぞっとした。まるで巨人の手に振り回されているみたいだ。
ようやく最後の一本に激突したところで、彼は勢いから解放された。
完全に目を回した様子で上体をフラつかせる彼の頭上に、不意に、何かが降ってくる。
ドガシャ! と盛大な音を立てて割れたのは、一抱えもある特大の木の実、ではなく。
「あっ。あれはヘヴィ・ビーの巣……」
本を頭に載せて突っ伏していたクラムセルがそんなことを言う。
砕けた巣から、おぞましいほどの羽音が広がった。
一匹一匹が、実に手のひらサイズの巨大蜂。木の高所に巣を作るため、地を這う人間とはまず交わらない種だが――その大きさはもちろん針にも適応される。
ゴギャー!!
熊の頭部を覆うように張り付いた蜂たちが、針による一斉攻撃を開始した。
いかに分厚い毛を持っていても、あのぶっとい針を大勢からしかも連続で刺されまくっては、TOEと言えどたまらなかったようだ。
フォレストバスターはもがきながら、蜂を追い払おうと腕を振り回す。
その爪が当たり、近くの木が切り倒される。
ドガシャ! ブーン……!
二つ目の巣が粉砕され、蜂が倍増した。
彼はさらに激しく暴れ、
ドガシャ! ブーン……! ドガシャ! ブーン……!
周囲にあるすべての蜂の巣の怒りを起動していった。
「そうはならないでしょ……。ヘヴィ・ビーの巣があんな近くに密集してるなんて、生物学的にあり得ないわ」
「なってるだろうが!」
クラムセルの言葉に、ユーゴはそう反論せずにはいられなかった。
とにかくもうムチャクチャだ。フォレストバスターは全身にびっしり蜂を張りつかせ、新たに誕生したモンスターとなってもがき苦しんでいた。
その時、見た気がした。
フォレストバスターから立ち上る蒼いオーラのようなもの。しかもそれは、何らかの呪いめいた模様――先生が飼っている犬のラカンと同じ模様を描いているように思えた。
それは次第に形を変え、最後に半笑いの白髪饅頭を形作ったように見えた、次の瞬間。
グワアアアアアア……!!
とうとうフォレストバスターは悲鳴を上げ、その場から逃げだした。
前が見えていないのか、途中で木にぶつかり――そこでまた新たな蜂の怒りを買いながら、森の遠い遠い奥へと。
「や……やった……」
後に残ったのは、それまでの騒乱がウソのような静寂。虫の羽音すらない。
ユグドラシルからの悪魔が去ったその場で、呆然と身を起こしながら、ユーゴはつぶやいていた。
訳がわからない。一体何が起きたというのか。後は刈り取るだけというところまで迫ってきていたTOEが突然、苛烈な不運に見舞われ、すべての予定を狂わされた。これは魔法なのか? それとも呪い? わからない。何も。
でもこれだけは言える。
「俺たちは生きてる……生き残ったぞぉぉぉ……!!」
拳を振り上げ、彼は叫んだ。
次の瞬間、クラスメイトたちが一斉にユーゴに抱きついてきた。
親父殿「ヘックショイ! ちっ、誰かが噂してやがんな……」
一門徒(あっ……どこかで誰かが不幸に)




