【3-7】廃墟の幽霊
0.25と案内人は廃墟となった孤児院へ向かう。
とりあえず、そこで雨宿りすることにした。
玄関から入ると、広いリビングのような場所が広がっている。室内は意外と綺麗だった。まるで、今も誰かが住んでいるかのようだ。床には空の酒瓶が転がっている。
外の雨は次第に強くなり、孤児院の屋根に当たる音が聞こえる。
マカローニでの雨は珍しいらしい。傾斜があったり、近くに川が流れているせいかもしれない。ここまで走ってくるときに、体が濡れてしまった。
「やみそうにないですねぇ……」
「……ここで、寝るしかない……」
案内人はつぶやいた。
日は沈み、風も強くなっている。本格的に降り出す前に、ここまでたどり着けたのが幸いだ。彼女の言う通り、ここで一泊させてもらうしかなさそうだ。
ただ、一つ妙なことがある。暖炉に火が灯されているのだ。
「誰かいるみたいですぜ。幽霊だったりして」
くだらない冗談を言ってみた。
「……お化けなんて……いない」
「どうですかねぇ?」
近くに墓地があるせいか、余計に不気味さを感じる。部屋は暖炉の明かりだけで暗い。古い建物のせいか、汚れた木材の床の、ギシギシといった不気味な音が室内に響く。
「……怖がってるの?」
目を細めながら、案内人が聞いてくる。
「そう見えます?」
「……ううん」
案内人は首を横に振った。
どちらかと言えば、0.25は楽しんでいた。たまには、こういう場所で一夜を明かすのも悪くない。住んでいるのが人間だろうが、幽霊だろうが、今夜はここに泊めてもらいたいものだ。
「案内人さんは勇敢だ。まるで、怖がっている様子がない」
「いないものはいない……。いるとしたら……それは自分」
「あんたが幽霊?」
「……自分は……よく幽霊みたいだって……言われてた」
彼女は無表情な顔で言った。孤児院の人たちのことだろう。0.25はそう思わなかったが、怖がりな子どもたちなら、そう思ってしまうのかもしれない。
「そりゃ、ずいぶんと可愛らしい幽霊だ」
「……からかってるの?」
「いえいえ、あっしの感想ですよ。あんたが幽霊だとしても、きっと悪い霊じゃないでしょう」
親切にもこの村まで、案内してくれたのだから。
「自分は……悪霊。旅人さんも、呪われないように……気をつけた方がいい」
彼女はほっと頬をつり上げた。彼女が笑うのを初めて見た気がする。珍しいものを見た気分だ。
そのとき、奥の部屋から叫び声が聞こえた。悲鳴のような声だった。
「……幽霊?」
案内人は首をかしげる。
「そうだったら、おもしろいんですがねぇ」
悲鳴は、足音と共にこちらへ近づいてくる。二人の男の姿がリビングに現れた。片方が追いかけていて、もう片方が逃げていた。逃げていた方の男は、落ちていた空の酒瓶に躓き、床にしりもちをついた。
「何、逃げてるんじゃガキぃ! 痛い目に遭わんと分からんようじゃのぅ!?」
追いかけてきた方の男は、逃げていた男を押し倒して馬乗りになる。そして、殴り始めた。
「すみません、すみません。許してください……!」
怒声と悲鳴で、室内は妙に騒がしくなった。
0.25は彼らに近づき、話しかける。
「なかなか、興味深いことをされているようで。それは、この村伝統の遊びですかい?」
二人の男は0.25を見つめる。殴っていた初老の男は、不機嫌そうな顔で。一方的に殴られていた傷だらけの青年は、助けを求めるような顔で。
先に口を開いたのは、殴っていた方の男だった。白髪で、革ジャンを着ている男だ。
「なんじゃ、われぇ? よそ者か?」
「ええ、旅の途中で嵐に遭いましてねぇ。この廃墟で、雨宿りの最中ってわけです」
「この建物はワシのもんじゃ。とっとと出て行け!」
初老の男は手でシッシと0.25を追い払う。
「……この場所は、もう誰のものでもない……」
案内人も彼らに近づいてきて言った。
「よそ者の分際で、勝手に決めんなや。ワシに逆らってもいいことないでぇ?」
鋭い眼光で、0.25と案内人を睥睨する。床に倒れたボロ服の青年を、長いブーツでぐりぐりと踏みつけている。
「相変わらず……元気だね。院長……」
案内人は冷たい声で言った。
「あぁん? ……おのれ、あんときの幽霊娘か?」
初老の男は案内人の姿を見て、眉間にしわを寄せた。
「そう……」
「お二人はお知り合いで?」
「この人は……この孤児院の院長」
ということは、案内人や少年兵士団を育てた人間か。
「そうじゃ、幽霊娘。せやから、この孤児院は永久にワシのもんなんじゃ。分かったら、はよう出て行け」
彼は再び青年を殴りだした。怒りを発散させるかのように。
「そこのお兄さんは出て行かなくていいんですかい?」
「は? もしかして、こいつのことか? これは人やなくて、単なるワシのペットなんじゃ」
初老の男は、青年の髪の毛を乱暴につかむ。辛そうに歪んでいる彼の顔には複数の痣があった。
「なら、あっしもペットになりましょうかねぇ。外は悪天候で、他に泊まれる場所もありませんから。ワンワン」
野宿だけは勘弁だ。雨に打たれて体が凍えてしまう。
「おのれ、バカにしとるんか? さっさと出て行くんじゃ! さっきから、ニヤニヤ笑いおって気持ち悪い」
初老の男は立ち上がり、0.25に近づいて拳を振るう。
「ニヤニヤ笑うのは性分なもんで」
0.25はその大きな腕をつかんだ。
「ほぅ、なかなか肝がすわっとる。だが、これはどうじゃ!?」
図太い右足を回転させ、0.25を蹴り飛ばす。
0.25の体は石ころのように軽くふっとんだ。床にゴロゴロと転がり、リビングの壁に強打して止まった。拍子に、帽子が脱げてしまった。
体に激しい痛みが生じる。全身が砕けてしまいそうな、鋭い痛みだ。
「た、旅人さん……」
案内人は慌ててこちらに駆けてくる。
「はっ、骨のない男やのぅ。今の蹴りで、全部折れてしまったんやないんけ?」
初老の男は鼻で笑った。
「……うひっひ、いい蹴りですねぇ。子どもたちも、その足で蹴り飛ばして育てていたんでしょう?」
0.25はゆっくりと立ち上がり、脱げた山高帽を被り直した。
「そうじゃ。ワシの教育を受けたにもかかわらず、あいつらは戦争に負けてきやがった……。おかげで、ワシは十七年間も豚箱入り」
侵略戦争が終結した後、旧政府の関係者は全員が極刑に処された。他にも軍事活動に深く関与したマカローニ人は、懲役刑になったと聞いている。彼もその一人なのだろう。
「行き場のない怒りを、他人で憂さ晴らしってわけで。いやぁ、おもしろい人だ。うっひっひ」
「その顔、ぐちゃぐちゃにした方がええようじゃなぁ! その癪に障る笑い顔ができんように!」
彼は吹き飛ばされた0.25にじりじりと歩み寄る。
「院長、やめて……じゃないと……」
案内人は濡れたマントからナイフを取り出す。
「どけや、幽霊娘。この院長先生に逆らう気か? 誰がお前を育ててやったと思ってるんじゃ!?」
「……それは、感謝してる。でも、ダメ」
依然として、彼女は0.25をかばうように立ち塞がっている。
「しばらく見とらん間に、ずいぶんと聞き分けが悪くなったようじゃなぁ。まさか、そんなつまらん男に惚れたんか?」
「そんなんじゃ……ない。ただ、この人にも……恩があるから……」
「うひっひ。あっしは何も感謝されることはしてませんぜ。だから、あっしを置いて逃げてもいい」
蹴られた腹を押さえながら言った。
正直なところ、案内人がここまでしてくれるとは思わなかった。
「自分は……自分のしたいように、するだけ……」
案内人はナイフを構えて、院長をにらみつける。
「もう、ええわ。お前ら二人とも、仲良う死んでくれ」
革ジャンの内ポケットから、院長は銃を取り出した。そして、引き金を引こうとする。
0.25も急いで、腰の銃へと手を伸ばす。また殺すことになるのかと、心の中で嘆息していると、ガラスの割れるような音がした。
そして、初老の男は前のめりに倒れていく。彼の後ろに立っていたのは、先ほどまで殴られていた青年。右手には酒瓶を持っている。
「はは、あははは……! ざまあみろ、クソ爺! よくも、オイラを殴ってくれたなぁ、おい!」
彼は笑いながら、床に倒れている男の腹を何度も蹴る。男の頭からは血が流れ、床に広がっていった。
「……死んだ?」
案内人はゆっくりと瞬きをしながら、床に倒れる院長を見つめる。
「みてぇですね」
うちどころが悪かったのだろう。銃器以外でも、人は案外簡単に死んでしまうものだ。
「よかったね! お二人さん。危ないところだったじゃないか」
青年は腫れ痕だらけの顔とは対照的に、爽やかな笑顔で言った。
「あんたも、あのまま殴られてたらまずかったんじゃ?」
「確かに! どうやら、お互いに助けられたみたいだ!」
青年は大げさに拍手をした。祝福するかのように。
そして、青年は床に落ちていた院長の銃を拾う。
「いや、お互いってのは違うか……。これじゃあ、僕だけが助かったことになっちゃうね!」
青年は案内人に銃を向けた。
「……どういう、こと……?」
「いやぁ、ちょっとお腹すいちゃってさ。一昨日からなにも食べていないんだよね。だから、持っている食べ物とかお金を全部、オイラにくれないかな?」
変わらぬ笑顔で彼は言った。
「うひっひ、それが人に頼み事をする態度ですかい?」
「ごめんね。ほら、飢えた動物って凶暴になっちゃうでしょ? 人間も同じだよ。これは自然なことなんだ」
口元には笑みが浮かんでいるが、青年の目は大きく見開かれ、血走っていた。
「食べ物……あんまり持っていない……」
0.25も、さっきの雨で湿気てしまったビスケットしかない。
「そっか、そっか。それなら、お金を全部ちょうだいな。そのあったかそうな服も。そうしたら、命まではとらないからさ」
彼はやせ細っていて、土で汚れたボロボロのシャツを着ていた。貧しい生活をしていることが想像できる。
「それは……無理。これで、満足して……」
案内人は少量のゴールドを青年の方へ投げた。
「少ないなぁ。もっと持ってるでしょう? これじゃあオイラだけじゃなく、家族までもが飢え死にしてしまうよ……」
険しい顔をしながらも、彼は腰を曲げ、汚れた床に投げられた硬貨に手を伸ばす。その隙を見計らって、案内人はナイフで襲いかかろうとした。
――しかし、0.25の動きの方が迅速だった。ナイフで飛びかかろうとする案内人を押しのけ、青年へ接近! 起き上がった彼がそれに気づいた頃には、0.25の拳が青年の顔に直撃した。青年は後ろに倒れ、持っていた銃は吹っ飛ぶ。
「また顔に新しい腫れができちまいましたか。こりゃあ申し訳ねぇ」
彼は叫びながら、頬を抑えて床で悶えている。
「お前、殺してや――」
院長の使っていた銃を拾い、青年に突きつけた。
「立場が逆になったみてぇですね、うひっひ」
0.25に殴りかかろうとしていた青年だったが、銃を見て委縮した。
「……いや、す、すみません。つい魔が差してしまって……」
「あっしはあんたの行動を否定しませんよ。しばらく空腹状態になると、おかしくなっちまうのはあたりまえだ」
0.25は持っていた硬貨を四分の三ほど取り出し、青年の足元にばらまく。
何日かの食料はこれで足りるだろう。
「こ、これは……?」
「それを持って、おとなしく消えなされ」
0.25は青年を見下ろしながら言った。
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
青年はばらまかれた硬貨を必死にかき集め、大事そうに抱え込みながら走り去っていく。
孤児院には、0.25と案内人。そして血だまりの上に倒れる男だけが残った。
「どうして……?」
「うひっひ、貧乏人の金が少なくなったところで、大して変わりませんよ」
そろそろ、資金が底をつきそうだ。ストームを捕まえれば、多額の賞金がもらえるようだが。
「……そうじゃない。どうして……銃を使わなかったの……?」
確かに、青年を殺すことは難しくなかった。あの距離なら外すこともなかっただろう。もしくは、案内人がナイフで襲い掛かっても、十分に間に合ったはずだ。
「弾丸は拳と違って無料じゃないんでねぇ。むやみやたらに消費するのは気が引けるってもんです」
他人の命も同じだ。むやみやたらに殺すと、体が重くなる。殺した人の分だけ、罪悪感は積み上がるのだ。そして、それらがあまりにも重すぎると、押しつぶされてしまう。
もし彼を殺したのなら、シシーニョのときのように、彼の家族が復讐にやってくる。逆に彼を助けてやったら、彼や彼の家族がお礼にやってくるかもしれない。
少なくとも、復讐にやってくると怯えるよりも、優しくして自分にもいいことが起こると期待した方が、遥かに生きやすい。
銃では人を救えないのだ。
「……ふーん。変なの」
案内人は納得したような、していないような様子だった。
割れた窓から、外を見ると、いつの間にか雨風は弱くなっていた。




