【1-1】旅人と奏者
旅人は街を歩いていた。古びたダスターコートを着ていて、底がすり減った革靴を履いている。
頭には黒い山高帽を被っていて、顔に深く刻まれた皺が目立つ。腰のベルトにかけているホルスターには、一丁のリボルバー銃が入っていた。
やっとの思いでたどり着いたここは、帝国に支配された小さな国だ。街全体は薄暗く、人通りも少ない。家屋や工場のえんとつから煙が、モクモクと出ているのが見える。
見上げれば、灰色の雲が街を覆っていた。雲の上にうっすらと日光が見える。
閑散とした街の中、聞こえてきたのは弦楽器の演奏だ。黙示録のラッパのように、不吉な音色だった。
旅人はその音を頼りに、奏者の元へと歩いて行く。不気味な音だというのに、不思議と耳をふさぐ気にはなれない。
きっと、旅人は静かすぎる環境が嫌いなのだろう。静寂の中に一つだけ鳴り響く音というのは、儚げな美しさを感じる。
弦楽器を抱えながら弾いていたのは、ボロボロのシルクハットを目元まで被っている紳士だった。いくつもの穴が開いている薄汚れたタキシードを着ており、顔は死人のように真っ白だ。
帝国からやってきた人かもしれない。大通りの道脇で、彼は木箱に座って演奏していた。
演奏が終わると、旅人は手をたたいた。
「そいつはひょっとして、チェロですかい?」
弦楽器の奏者の前に立って、旅人は尋ねた。
すると、しゃがれた男の声が返ってくる。
「そうだ。だが、拙い演奏しかできない。誠に遺憾だ」
「うひっひ。最初は誰でも、そんなもんです。ずっと弾いてれば、そのうち上達しますぜ」
「熟練者の演奏を聞いたことがない。そもそも、この街にそんな人はいないのだ」
街の様子を見る限り、納得がいく。全家庭で葬式が開かれているように、辺りは物静かだ。
「なら、あんたが最初のプロになればいい。プロの演奏者に」
「プロの演奏者?」
「ええ。ここは僭越ながら、あっしが手本を……」
旅人はコートの中から、竹笛を取り出して奏でる。閑散とした世界に、場違いの明るい音色が響く。まるで、モノクロの世界が色づいていくようだ。
旅人が演奏している間は、この街の寂しい雰囲気は消えていた。
「素晴らしい。本当に素晴らしい」
色白の紳士は大げさに手をたたいた。
「うひっひ、そう褒めなさんな。あっしもまだまだ修行中の身ですぜ」
「その笛はなんと言う?」
彼は旅人の持つ笛を指さした。
「こいつは竹笛と言ってねぇ。アヅマの産物なんです。おもしろいでしょう?」
アヅマはここから北東に位置する国で、旅人の出身国でもあった。もう何十年も帰っていない故郷だ。
「なるほど、知らなかった。世界は広いな」
「違いねぇ。広すぎて、この国にたどり着くまでも、何度も道に迷ってしまいました」
「コンパスの携帯を推奨する。それで道に迷わないだろう」
「いえいえ、何事も慣れればどうってことありません。方向音痴も、あっしにとっては、大して不便にも感じねぇですから」
行きたい場所も、行きたくない場所も特にない。旅人は風のようにただ気の赴くままに、旅をするのが好きだった。迷うことなんて日常茶飯事だ。
ただし、今回は例外だ。この国に用事があったため、迷いながらもようやくの思いでたどり着いたのだ。
「あなたはとても前向きな人だ。前向きで立派な人だ」
「あっしはそんな大層な人間じゃありません。とにかく、あっしが伝えたかったのは、諦めずに頑張れってことです。いやぁ、すみません。年を取ると説教くさくなっていけねぇ」
この国に到着して早々にすることが、説教なんて情けない。
「いや、とても勉強になった。感謝する。ときに、旅人殿。あなたのお名前を聞かせてほしい」
「これは困ったなぁ。あっしには百を超えるほど、いろんな名前がありましてね。はてさて、どれをお教えするべきか……」
旅人は考え込む。あるときは、リボルバーおじさん。あるときは、彷徨える旅人。他にもいろんな名前で呼ばれていた。
「本名を教えてくれ」
「どれが本名か忘れちまいましたねぇ。物覚えが悪くなったみたいだ。でも、多くの人はあっしをこう呼びます。0.25と」
「おかしな名前だ。身長の値か?」
「うひっひ。身長が0.25メートルだとしたら、あっしは小人だ」
「そうだな。0.25キロメートルだと、逆に背が高すぎてしまう。まるで巨人だ」
しゃがれた声で言って、色白の紳士は口元をそっと吊り上げる。
今度は旅人が名を尋ねた。
「あんたの名は?」
「セロだ」
シルクハットの男はそう答えた。
「そいつはいい。楽器とお揃いでイカしている」
国によっては、チェロのことをセロと発音することがある。チェロ弾きのセロさん。名付け親は、彼のことを一流の奏者にしたかったに違いない。
「まったくだ。この名はマザーがくれた」
「ほぉ、いい母上だ。たっぷり親孝行してやるといいですぜ」
「もちろんだ。マザーにはとても感謝している」
母か。十年以上も、一人で生きてきた0.25には、無縁の話だ。
だから、セロが少しだけ羨ましかった。
「そろそろ行きます。演奏の邪魔をして申し訳なかった」
0.25は背を向けるが、呼び止められた。
「セロの思考によれば、この国は治安が悪い。用心すべきだ」
「気になさんな。そのときは臨機応変に対処しますぜ」
笑顔を浮かべ、山高帽のツバを上げる。
歩き出そうとすると、遠くに柄の悪そうな男たちが見えた。
「あの者たちには、気を付けた方がいい。レスシタール警備団体の荒くれ者たちだ。バックには総督府がついている」
「本国の方々で?」
「彼らはマカローニ人だ。だが、総督府に媚を売っているんだ」
総督府と言えば、大西方帝国が植民地を統治するために建てたものだ。どうやら、この国・マカローニにも存在するらしい。遠くにいる柄の悪そうな男たちは、その総督府の言いなりというわけだ。
「ほぉ」
「罪人たちを捕まえたり、街の死体を回収する代わりに、多少の横暴な振る舞いを認められているんだ」
「つまり、総督府の忠犬ってわけですかい。ワンちゃんみたいに可愛い顔してたら、頭でも撫でてやったんですがねぇ」
噂には聞いていたが、この街はずいぶんと治安が悪いらしい。治安維持組織がまともに機能していないようだ。セロの言う通り、用心に越したことはない。
「ご忠告、感謝します。死なないように、努力してみますぜ」
「ああ、それともう一つ」
セロの声色が急に硬くなり、0.25もつい身構えてしまう。
「まだ、何かあるんですかい?」
「何があっても、決して人を殺してはいけない。覚えていてほしい」
「……」
確かに大事な忠告だ。経験がある者にとっては、特に。
「あっしは……人殺しに見えますかい?」
「分からない。しかし、セロの思考によれば、この国には人殺しが多い。とても悲しいことだ」
セロはうつむく。
「ご忠告、痛み入ります」
頭を下げ、0.25は立ち去った。
しばらくすると、後ろから音の外れたチェロの音色が聞こえてくる。その音に、0.25は口元を緩めた。