【急募】一昨日の俺を殴る方法
恋愛(異世界)とコメディとヒューマンドラマでジャンルを迷いました
そんな感じのお話です
「賢木」
「僕は、きちんと警告致しましたよ。それも再三」
普段は物腰柔らかな副官が、今日はひどく冷たい。
「わかっている。だから」
「なんです?」
「一昨日の俺を殴る方法を知っていたら、ぜひ教えてくれ……」
頭を抱えた俺に、優秀な副官は哀れみのこもった目で、残念ながらと首を振った。
ё ё ё ё ё ё
ことの始まりは、一週間前。
この国の若き皇帝である俺は、視察先の辺境で、膝に矢を受けて負傷した、らしい。
らしいと言うのは直後気絶した俺の、そのときの記憶がかなり曖昧だからだ。次に目覚めたのは一日経ってからで、すでに矢傷は跡形もなく治癒されていた。
治癒してくれたのは、愛しの婚約者である鬼燈。後遺症も傷痕も残さぬ完璧な治癒は、さすが我が国きっての法術士一族、紅家の寵児だ。
ゆえに、命に別状はなかった。なかったの、だが。
矢には呪いが込められており、目覚めた俺は一部の記憶をすり替えられていた。
不運にも鬼燈は急務の途中。急ぎ呼び出されて俺の応急手当だけをして、またすぐ発ったため、そのときはまだ発動前であった呪いに気付かず、鬼燈の手当に絶大の信頼を置いている侍医たちは、経過観察に手を抜いた。
結果、呪いは誰にも気付かれずに発動し、意識のない俺を蝕んで、歪めた。
すべて忘れてでもいればまだ良かったものの、一部のみ歪められた記憶はぱっと見には異常を感じられず、おかしいと周囲が察するまでに、二日を要した。
ё ё ё ё ё ё
「聡明な陛下であれば重々承知の上かと思いますが」
状況をやっと把握した賢木が、俺へ警告を述べたのは、一昨々日のこと。
急務を果たした鬼燈が、帰還する前日だった。
「敢えて言わせて頂きますね」
賢木があそこまで真剣な表情を浮かべた理由を、今ならよく理解出来る。
そのときの俺は、ちっとも理解出来ていなかったが。
「信頼、と言うものは、築くには途方もない時間が掛かりますが、崩れるには一瞬で、そして得てして、二度は得られぬものですよ」
「なにが言いたい」
「言動には、くれぐれもお気を付けなさいませ、と言いたいのです。自覚はないかもしれませんが、今の陛下は正常でいらっしゃらない。本来であればするはずのない失言を、口になさる可能性がございます」
言動に気を付けろ、などと。
幼いときから散々言い含められて来たことを、今さらまた言うのかと、そのときの俺は愚かにも思ったのを覚えている。
「俺を誰だと思っている」
「ええ。理解しているとは思っていますが、それでも言わせて頂きました。もしあの方の信頼を裏切ったとき」
優秀な副官の予想は、よく当たる。
「後悔されるのは、間違いなく陛下ですから」
ё ё ё ё ё ё
俺の愛しの婚約者たる紅鬼燈、その生家である紅家は、この国で最も優秀かつ歴史ある法術士の一族の宗家で、その能力と長年の献身によって、皇家に匹敵する権力を手にしている家だ。
だが、紅家は表舞台に立つことを、極端に嫌う質だった。
国民からもほかの名家からも絶大な信頼と支持を得ていながら、宰相はおろか大臣にも、六部の尚書や侍郎にも、各州府の長官にすらなったことがない。
献身に対する褒美代わりに、皇族の姫が降嫁することはあったが、紅家の娘が皇家に嫁いだことは、一切ない。
一族とその信奉者が暮らすに足るだけの小さな領地を持ち、軍も領民も持たず、己が一族の力だけで民に尽くし皇帝に貢献する、そんな一族の宗家が紅家なのだ。
当然ながら、皇后の地位など望まない。
そんな紅家の寵児たる紅鬼燈が、皇帝である俺の婚約者に納まってくれているのは。
ほかでもない、紅鬼燈に惚れ込んだ俺が頼みに頼んで、権力にものを言わせて、粘り勝ちして、ようよう誠意を評価して貰えて、うん、と言わせたからである。
ё ё ё ё ё ё
そして一昨日。
殴りたくてたまらない俺のほざいた言葉と言えば。
「陛下、鬼燈さまがご帰還なさいましたよ」
「鬼燈」
「怪我などはされず、いつも通り無事のご帰還だそうですが、出迎えなくてよろしいのですか」
この国の平穏の守り人が役目を果たして戻ったと言うのに俺は、あろうことか忌々しく顔をしかめた。
「……なぜ、吉野を差し置いて婚約者の座に居座っている女の出迎えなどせねばならん」
「居座っている、などと。鬼燈さまは皇家たっての希望で、婚約を結んで下さっておられるのですよ。その物言いは、無礼にもほどがあります。後悔されたくなければ、ゆめゆめ口になされぬことです」
賢木がここまで強く忠告してくれたと言うのに、なぜ俺はその意味を考えなかったのか。愚かにも程がある。
「権力にものを言わせただけだろう」
「権力にものを言わせたのは」
優しい副官は、珍しくも殺気立っていた。
「果たしてどちらでしたでしょうね」
低く吐き捨てた副官が、ため息を吐いて首を振る。
「ですがお会いにならないと言うのは、僕も賛成致します。顔を合わせなければ、失言の心配もありません。今の陛下は、鬼燈さまに会わない方がよろしいでしょう」
いずれ解呪も叶いましょう。それまでは。
「普段であればお務め後の報告は陛下が聞いていらっしゃいましたが、今日は僕が聞いて参りましょう」
「わざわざお前が」
「鬼燈さまのお仕事は」
冷たい声で、副官は言った。
「この国の安寧を守るためのもの。お若い身空で、危険で責任の重いお役目を、文句ひとつ言わずにこなされて」
あなたがこの国の皇帝であらせられる以上は。
喉元に剣を突き付けるがごとき気迫で、副官は俺を見据える。
「たとえ愛情を忘れたとしても、紅家への感謝と敬意を忘れてはなりません。かの家在ればこそ、この国の民の幸福が守られているのです。豊かな実りも安全も、紅家の尽力あってこそのもの。最上級の敬意を、示すべき方々です」
「その考えが、紅家を助長させ、傲慢にしたのではないか?」
「助長?傲慢?紅家が?」
あり得ない言葉を聞いたと言いたげな表情のあと、副官は足音荒く壁際の本棚に歩み寄り、書物を数冊抜き取ると、俺の執務机にどすりと乗せた。
「それを本気でおっしゃっているなら、歴史を頭からさらい直しなさい。紅家が政治の表舞台に立ったことなどいちどもない。皇族の降嫁は過去に幾度かありましたが、皇家に嫁いだ紅家の姫はいらっしゃいません。婚姻が成されれば鬼燈さまが史上初の、紅家出身の皇后です」
あの家は富も権力も欲しない。
もはや睨むほどの目付きで、副官は俺を見下ろす。
「たとえ誰にも感謝されず、敬われることもないとしても、かの家の方々は民のために奮闘し、粉骨砕身の尽力をされるでしょう。ゆえに敬われ、愛され、多くのものがかの家のためであれば動くのです」
「……お前が」
信頼する副官に裏切られた心地で、俺は副官を見返した。
あとになって思えば俺こそが、彼と民を裏切っていたのだが。
「仕えるのは誰だ。国か、紅家か。いつの間に、公僕から紅家の狗に成り代わった」
「国と陛下の為を思えばこその諫言で、」
コンコン
決して大きくはないノックの音に、副官の言葉は遮られる。
「失礼致します。紅鬼燈、皇帝陛下よりお与え頂いた命を果たし、ただいま帰還致しました」
最上級の木炭を打ち鳴らしたかのような、硬質で澄んだ通る声。
はっと息を飲んだ副官がなにか言う前に、俺は口を開いた。
「入れ」
そこまで言うなら、実際に会って見極めてやろうと。
「はい」
法術とは、ヒトの理を外れた術。使えばその身に業を負うことになる。
扉を開けて現れた女は、夜空を抱いた月の瞳に、星空の髪をしていた。
ひと目で見て取れる異常な外見に、ぎょっとする。
「宵待州の夜叉の討伐と、弟切州の暴れ龍の鎮圧、無事に終えて参りました。すでに事後処理部隊を派遣し、傷病人の手当と被害状況の把握に充てております。宵待州の被害状況については、こちらに仔細をまとめたものが、弟切州に関しては、二、三日中には報告が上がりますので、追って被害状況の報告を致します」
そんな俺の反応など気にせず、ツカツカとこちらへ歩み寄った女は、断りもなく俺の机へ書類を置いた。
異形な瞳や髪色に意識を奪われがちだが、造型は整った、小柄な娘だった。溶けそうなほどに白い肌と、手折れそうなほどに華奢な身体をしている。
「今回の夜叉出現に関してですが、国境沿いの結界に、わずかながら瑕疵が伺えました。応急処置は致しましたが、早急に修復が必要かと。陛下に矢を射掛けられた件も含めて、国境結界全域の経年劣化調査と、修復改良を行おうと思います。許可を頂けますか?」
「なるほど。鬼燈さまは、先日の件も国境の結界がゆるんで外部からの攻撃を受けた可能性があるとお考えですか」
挨拶もない事務的な会話に驚きも苦言もせず、副官は瞬時に対応する。
まるで、それが当たり前のごとく。
「いえ、先日の件に関しては内部犯の可能性が高いと思っていますが、内部が荒れている隙を狙って、外からも攻撃を受ける可能性は十分考えられますから。とくに今年は、南が不作の予想が出ているので」
「南、ですか。わかりました。いざとなればすぐにでも食料と燃料、それから衣類の支援が行えるよう、備えておきましょう。結界調査は、南から?」
「ええ。殺気立つ前に終わらせて、不必要に刺激することのないように。それから三手に別れて、東西北は同時に進めようかと」
俺が口を挟まぬうちに、話し合いは進んで行く。
「三手に……それぞれどなたが?」
「北はわたしと明日葉が。西は一位兄上と千振、東は柘榴兄上と石蕗を、それぞれ指揮に当たらせようと」
「期間はどれほどを予定して?」
「概算ですが、南は調査に一週間、修復改良に四週間ほどを予定しています。残りは調査に二週間、対処に一週間程度かと」
「約二ヶ月、ですか」
「ええ」
頷いて、女は続ける。
「修復だけであればもっと短縮も出来ますが、どうせ触るなら改良もしてしまいたいですから、それくらいの期間は見て頂きたいです」
「ああいえ、期間が長いと言いたいわけでは。むしろ短くて驚いたくらいです」
「結界は、治癒と並んで紅家の得意とする分野ですから」
国境を守る結界の話が、目の前にいる、人外めいた女の一存で決められようとしている。
なにが、紅家は富も権力も欲しない、だ。
この国の生命線を、牛耳ろうとしているではないか。
「すでに兄上たちが準備を進めておりますので、許可を頂ければ明日朝出立致します」
「待て」
なぜこの女は、許可が下りると考えている?
国防に関わることだぞ?議会で協議して決めるべきことではないのか。
「国境の結界についての判断を、お前だけの意見で決めろと?なんの権限があって、そんなことを言っている」
「はい?」
入室してから初めて、夜空を抱いた月の瞳と視線が交わった。
「なんの権限もなにも、国境の結界修復に関しては、軍部、議会、各州府、そして陛下からの信任を頂いて、紅家にてお引き受けしておりますが」
「な……」
つまり紅家の一存で、この国は丸裸にもなると言うことか?
「もしや、結界の瑕疵にお怒りですか?申し訳ありません、近々修復改良が必要であろうと言う見解で準備は進めておりましたが、間に合わず被害を出す結果になり……ただ、結界と言うものは生物であり、経年の劣化が避けられないものであることはご理解頂きたく」
「国民を危険にさらしておきながら、言い訳をしようと言うのか」
「陛下」
言い訳をして自己を正当化し、権力に固執しようと言うのか。
「結界に関して紅家が請け負っているのは修復と改良であり、管理は国境に接した州の州府の役目です。瑕疵報告が上がらず修復が遅れたのは、紅家の責ではありません」
「お前は誰の味方だ賢木」
「私は公僕でございます、陛下。この国のためを思えばこそ、このように申しているのです」
俺と副官の言い合いに、女は目を丸め、きょとん、と首を傾げたあとで、
「おやおやおや?」
と呟いた。
副官が、しまった、と言う顔で女を見る。
「陛下は紅家の立場に、ご不満をお持ちのご様子で?」
「臣下で在りながら皇家に匹敵する権力を手にしているなど、異常だろう」
「そうですね。国として健全ではない」
「鬼燈さま、」
「わたくしは、陛下と話しております、常磐さま」
口を挟もうとした副官へ、女はピシャリと言い放つ。
それがまた、愚かな俺には癇に障った。
なぜこんな可愛げのない自己中心的な女が、吉野を差し置いて皇后候補なのか。
「そのように権力を笠に着て」
「わたくしにも思うところがおありと」
「陛下!」
「そうだ、と言ったらどうするつもりだ」
「いえ、まずはきちんと、陛下のご意志を確認しませんと」
夜空を抱いた月の瞳を上弦の三日月にして、女は問うて来る。
「陛下はわたくし、紅鬼燈がご自身の婚約者であることに不満をお持ちで、婚約解消をお望みである、と。それで、間違いはございませんか?」
この問いに、答えた瞬間の俺を、俺は全力でぶん殴りたい。
「ああ。その通りだ。わかっているじゃないか」
「なるほど。二言も撤回もありませんね?しっかり、宣言して頂いても?陛下は紅鬼燈との婚約解消を?」
「俺は紅鬼燈との婚約解消を望む。二言も撤回もあり得ない」
「かしこまりました」
頷いた女の傍らで、副官が、なんてことをしたんだとでも言いたげな顔をしていた。
「陛下のご意志は尊重すべきですね。ですが、ただ解消と言うのも外聞が悪いでしょう。いかがです?今回の結界瑕疵の件の責任を取っての婚約解消。紅鬼燈の懇願で、名誉挽回の機会として結界の調査と修復改良を許す。その条件でしたら、今日中にも家の了承を得て参ります」
ここに来てまだ、既得権益にすがり付こうと言うのか。
「悪い話ではないはずですよ。なにせ結界に関して、紅家が持つのは修復と改良の権利のみです。もし、なにか結界を傷付けるようなことがあれば、州府からすぐ陛下へ報告が上がり、紅家を追い込む大義名分が出来ましょう。国境の結界は国の生命線。もしそれに悪意を持って手を出すならば、お家取り潰しすら生温い罪です」
つらつらと立て板に水で語られる内容を、疑わなかったとすれば愚かが過ぎる。
「良いだろう。少しでも不審な動きがあれば、直ちにお前の持つ不相応な権利を没収してやる」
「わかりました。寛大な沙汰に感謝致します。では、早速、結界の調査と修復改良の許可証発行を。わたくしと兄上二人の分で三枚お願いしますね。それから、こちらに署名と印鑑を」
「これは……婚約解消の書類か。なぜこんなものを持っている」
なにか罠があるのではとよくよく目を通してみたが、なんの変哲もない、二枚組の婚約解消書類だった。紅鬼燈の名はすでに書き込まれており、あとは俺が名を書き込んで、玉璽と紅家の当主印が捺されれば、婚約解消成立だ。
「わたくしも馬鹿ではありませんから、引き際は心得ております。ただ、これでも皇后に推す声がないわけではありません。邪魔が入る前に、早く」
「あ、ああ」
急かされるままに署名と押印をし、許可証も作ってやる。
「ありがとうございます」
女は許可証を受け取ると、婚約解消書類にさっさと印を捺した。一枚を俺に渡し、一枚を自分の懐に入れる。
「なぜお前が当主印を持っている」
「偶然に、必要で持っていただけです。それでは、出立の準備があるのでこれにて失礼致します」
ぺこりと一礼して扉へ向かった女が、把手に手を掛けて振り向く。
「あ、賢木さん、解呪薬は明後日にでも届くように手配致しますので」
にこっと言い放って、女は出て行った。
しばし絶句していた副官が、慌てたように扉へ駆け寄る。
「わかっていらしたならばなぜ……!もういない!!」
廊下を覗いて叫んだ副官が、振り向いて、僕は知りませんからね!と叫んだ意味を、俺は理解していなかった。
ё ё ё ё ё ё
そして、今日。
今日だ。
鬼燈の手配してくれた解呪薬で元の記憶を取り戻した俺は、自分のしでかしたとんでもない失態に頭を抱えている。
机上には、すでに成立した婚約解消の書類。
愛しの婚約者、否、元婚約者は、今は遠く南の国境だ。
「俺も、国境に、」
「駄目に決まっているでしょう一週間前に矢で射られたことをお忘れですか。まだ、裏も洗いきれていないのに」
「だが、」
「もう遅いんですよ。なにもかも」
ぱしんと、副官は机上の書類を叩く。
「鬼燈さまは陛下が呪いを受けていることを把握した上で、言質を取って署名と押印をさせました。しかもこの書類は、あらかじめ用意されていた。隙あらば婚約解消させる心積もりで常にいたと言う証左でしょう。成功した以上、撤回は認めませんよ」
「婚約に漕ぎ着けるまで、俺が、どれだけ……っ」
三顧の礼など目ではないほどの苦労と努力が、婚約締結までにあった。
それがようやく実り、婚姻の儀を指折り数えていたと言うのに。
「黒幕を、絶対に、引きずり出せ」
「探させております」
「生かして捕らえろよ?必ず俺の前に連れて来い」
殺気立った俺の言葉に副官が頷いたときだった。
こんこん、と扉が叩かれる。
「陛下、紅家のご当主がお見えです」
「!、応接室に、通してくれ」
弾かれたように立ち上がって、答える。
紅家は表舞台に立つことを嫌う。
当主が皇宮に足を運ぶなど、年単位でないことだった。
稀人の来訪がもたらすものは果たして、希望か、絶望か。
俺は婚約解消書類を手に取ると、副官を従えて応接室へと向かった。
ё ё ё ё ё ё
紅家当主は穏和そうな目を細めて、俺に会釈をした。
「急な来訪にもかかわらずお時間をお取り頂いたこと、感謝致します」
「いや」
慇懃な物言いをする小柄な男は、俺より三廻りは年嵩なはずだが、中年ほどの見た目にしか見えない。黒髪に真っ黒な瞳の、女性と見紛う華奢な男だ。
「国に対して類い稀なる尽力をして頂いているのですから、なにより優先するのは当然のこと。むしろ足を運んで頂いたことに、こちらから御礼と謝罪を申し上げたいほどです」
深々と頭を下げてから、顔を上げて問い掛ける。
「して、此度はどのような用件でしょう」
「その、お手元の書類について」
だろうな。
息を吐いて、卓に婚約解消書類を置く。
「鬼燈に、当主印を預けていたのはわたくしの落ち度です。申し訳ありません」
「手違いとして、撤回は」
「出来ることなら、して差し上げたいところではありますが」
残念ながら、と紅家当主は首を振った。
「鬼燈を皇后には、出せなくなってしまいました」
「それは、なにゆえに」
「あのこが」
紅家当主が困ったように笑う。
「ヒトを、辞めてしまいましたので」
思考が、止まる。
「え……?」
ヒトを、辞めた?
「元々、人外に片足突っ込んだ家系ではありますし、鬼燈はその寵児で、これまでも幾度となく、彼方側から誘いは受けておりまして」
「そう、だったのですか」
「ええ。それでも陛下の婚約者である以上はヒトでいなくてはと、踏み留まっていた、のですがね」
頑是ない、しかし可愛い我が子を語る顔で、紅家当主は言う。
「朕が、婚約を破棄したから、ですか」
そう呻けば、紅家当主は手を伸ばし、そっと俺の肩をなでた。通常であれば皇帝の身体に触れるなど許されないことだが、紅家にその通常は課されていない。
「あのこは」
ぽん、ぽん、となだめるように俺の肩に触れながら、紅家当主は告げた。
「あれで、陛下のことを愛しているので」
「そのような素振り、見た記憶はないですが」
「彼方側に行った方が確実に利益があるとわかっていて、踏み留まっていたのですよ。あなたの、妻となるために」
「だが!」
それが愛だと言うならば。
「鬼燈は、婚約を破棄したではないか!」
皇帝が怒れば、大抵の人間は竦み上がる。けれど紅家当主は、少しの怯えもなく、俺の肩に触れ続けていた。伊達に、夜叉やら龍やら相手にしていない、と言うことだろう。
「あのこは、人外に片足突っ込んでしまっていて」
「それは先程も聞きました」
「愛し方も、人外寄りなのです」
人外寄りの、愛し方?
「彼方側のモノになれば、身体も能力も強くなります。死ににくく、寿命も長くなる」
「それが事実ならみな彼方側に行きたがるでしょうね」
「鬼燈ほどの力がなければそもそも渡れませんよ。運良く渡れたとしても、生き残れません」
紅家当主は肩をすくめ、鬼燈ですら五分の勝負だったでしょうと呟いた。
「そこまで俺と結婚したくなかったと」
「いいえ」
聞き分けのない愛子が我を通してしまった。そう語る親のように、紅家当主は眉を下げた。
「そうすれば、陛下の子々孫々まで、愛し守ることが出来ると」
わずかな呻き声すら出せず、絶句した。
それが事実であるなら、なるほど確かに、愛されているのかもしれない。
人外の、愛だ。
「添い遂げ子を授かることは自分でなくとも出来るが、護衛や兵でも守れない部分まで、陛下と陛下の愛する国を、慈しみ守れるのは自分だけだと」
誰が、そんな愛し方をして欲しいと言った。
「愚かな子で、申し訳ありません。婚約と言う形で鎖を掛け、婚姻を結べば、繋ぎ止められると思っていたのですが、止める間もなく」
鬼燈が、婚約破棄を申し出たのは、後にも先にも一昨日の一度きりだ。
平時であれば俺が婚約破棄などしないことは承知で、そして、婚約破棄の機会がなければ妻になる覚悟もあったのだろう。
俺は確かに、紅鬼燈に愛されていたのだ。そして今なお、愛されているのだ。
乾いた笑いが、口から漏れた。
「理由があってとは言え、当主印を鬼燈に預けていたわたくしの落ち度です。罰はいかようにも」
「いや。呪いを掛けられていたとは言え、了承した以上、責は朕にありましょう。皇帝として玉璽を持っていて、判断を誤るなどあってはならないことです。どんな理由があろうとも。今後はこのように操られることなど起こさぬよう、警戒を強めるため、勉強になりました」
高い、取り返しのつかぬほど高い、勉強代であったが。
「ゆえに、紅家に与える罰はありません。ただ、もし知っていればですが、知恵をお借りしても?」
「わたくしで授けられる知恵でしたら、なんなりと」
「ありがとうございます。では、」
心の底から真剣に、俺は問い掛けた。
「一昨日の自分を殴りたいのですが、なにか方法はありませんか」
「それは」
紅家当主は目を見開いたあとで、残念ながら、と首を振った。
拙いお話をお読み頂きありがとうございました
ヒューマンドラマさんの懐の深さを信じています