ルージュの羽衣(はごろも)
よろしくお願いします。
港区にあるリゾートホテルの24階に着くと、私はドアを静かにノックした。
カチャリ、と控えめに鍵を開ける音が聞こえた。続いてふわっとドアの動きに合わせて起こった風が、私の黒いフードコートを柔らかく揺らす。
フードをすっぽりとかぶった私の姿は、どこからどう見ても、むかし話に出てきそうな年寄りの魔女みたいだった。
奈穂人「……翠さん?」
低い声の持ち主は、青と白のマーブル模様のTシャツに紺のジーンズを履いた男性だった。服の下でも分かるほど厚い胸板が、私の前に立ちはだかる。
翠「そうです。奈穂人さんですね? 私がお相手でもよろしいですか?」
そう言いながら私は、フードを後ろにずらして相手の顔へと視線を上げる。部屋の照明が抑えられているせいか、その表情はよく見えない。
奈穂人「とりあえず、入ってから決めてもいいかな?」
その声に導かれるように、私はドアの間から中へと、体を滑りこませた。
浴室やクローゼットに挟まれた細長い廊下は薄暗く、飛行機のボーディングブリッジを渡っているような心地がした。
ベッドルームのカーテンは全開で、東京の夜景が一望できた。日本庭園の森林が闇の中でさんざめく向こう遠くに、赤とオレンジと白で鮮やかに輝く、東京タワーがそびえ立っている。さすが「エグゼクティブ・ビュールーム」だ。
翠「良い部屋ですね」
窓際で立ちすくんでいると、奈穂人さんが私の隣に並んだ。
奈穂人「良い夢を見るには、良い部屋が必要だから」
翠「フフ、なんだかキャッチコピーみたい」
奈穂人「どうしても、叶えたい願いがあるんだ」
翠「……そうでしたね」
そのとき初めて、私は彼の全身を窓越しに見ることができた。声の低さに合う柔和さと爽やかさをあわせ持つ、好青年の姿をしていた。その横顔から突き出た喉仏にかけてのラインが、特に男らしくて美しいと思った。
星河に金粉を撒いたような輝きを映す窓の中、彼と私の並ぶ姿が、薄い輪郭で浮かび上がっている。二人とも無表情で、私のフードが顔周りに影を作っているのもあって、目を開けたたまま眠る魚たちのようだと思った。
私より頭一つ分は大きな彼の右肩あたりに、東京タワーが鸚鵡のように乗っかっている。月は私たちを別つように、ちょうど二人の真上で鎮座していた。満月がパンチを食らって少し凹んだ形に似ていた。
翠「カーテン、閉めますか?」
私の問いに、彼は首を横に振った。
奈穂人「このままでいいよ。別に、やましいことするわけじゃないし」
翠「外から見えることを嫌がるお客様はいますから。たとえ、添い寝『だけ』のサービスだとしても」
私は敢えて「だけ」を強調して言った。
奈穂人「フードとマスク、外してもらってもいいかな?」
翠「あ、はい」
言われた通りにして、フードの静電気でボワボワした髪を手櫛で整えると、私は奈穂人さんの顔を真正面から見た。彼の目が大きく開かれたかと思うと、夜景を反射したように瞳が光った。
翠「お相手、変えますか?」
奈穂人「……君でいい。いや、君がいい」
彼の喉仏が、ゴキュッと鳴った。
** ** **
社会人としての給料だけでは足りなかった私が、源氏名「翠」として、添い寝を提供する「添い寝フレンド」、略して「ソフレ」の仕事を始めてからもう一年になる。性的なサービスは一切行わないことを条件に、依頼主の希望する場所におもむき、相手が眠るまでそばで見守る。シンプルで労働力の少ない内容に見えるけど、それは「良い客」の場合だけ。雰囲気で勘違いした男性が豹変しかけたとき、上手く馴らしてサービスを続けるか即座に撤退するかなど、気の抜けない局面もたくさん経験して慣れてきたところだった。
『僕が本当に見たい夢を、叶えてくれるソフレを探しています』
先週、「翠」のSNSのアカウント宛に一通のDMが届いた。その差出人の名前には、「奈穂人」とあった。
物語に夢中になるように、私はその文章を最後まで一息に読んだ。
奈穂人さんは、半年前に恋人を不慮の事故で失ったばかりだった。「彼女に頼まれた物」を手作りしていて、それがようやく出来上がり、渡しに行こうとしていた矢先に起こった不幸だった。
『眠りに落ちる直前まで、彼女に似た人がそばにいてくれたら、よりリアルな夢が見られると思います』
DMに添付された画像を見て、私は強い既視感を覚えた。毎朝、鏡の中で見る自分の顔と瓜二つだったから。
『どうしても彼女に渡したい物がありました。彼女の望むままに、僕が試行錯誤して作った物です。
現実で会えないのなら、せめて夢の中で会って渡したい。それが僕の願いです』
読み終わった私は、迷うことなく承諾の返事をした。
** ** **
ライトアップされた東京タワーが、冬の空気をも暖めるように優しく光っている。メインデッキとトップデッキの中間の白さは、月のように煌々と輝いて見えた。
奈穂人さんは私に飲み物が欲しいか確認したあと、窓際のテーブルチェアを勧めた。
翠「東京タワー、お好きなんですか?」
ミネラルウォーターのペットボトルを片手に私が聞くと、向かいのチェアに腰を下ろした彼が、窓を見遣って口を開いた。
奈穂人「彼女が……リホが生きていた頃に、二人でよく行った場所だったから」
翠「リホさん?」
奈穂人「うん、里の『里』に、稲穂の『穂』で里穂。僕と同じ『穂』の字が入ってる」
翠「それって運命みたいですね」
彼の頬が自然と緩んだ。外の夜景に広がる思い出を、眺めているようだった。
奈穂人「里穂は高いところが大好きで、ジェットコースターにもよく付き合わされた。僕が気持ち悪くなってもお構いなしで。我がままで、いつも自分を優先させる彼女に、僕はいつも振り回されていた」
翠「それでも、好きだったんですね」
私が言うと、彼はフッと小さく笑った。
奈穂人「それでも、というより、だからこそ好きだったのかもしれない。なにか不思議な光を内側から放っているような、惹きつける魅力のある人だった」
彼が足を組むと、ジーンズの裾から緑色の靴下がのぞいた。足元の照明を受けて、青竹のように真っ直ぐ伸びている。
翠「お洒落な靴下ですね」
奈穂人「こう見えて、化粧品会社の開発部にいるからね。それに、これは彼女が選んでくれたから」
翠「化粧品の開発部って、ファンデとか作ってるんですか?」
奈穂人「僕はルージュ専門だな。里穂は唇の形が良かったから、テスターをよく塗ってもらった」
そこまで言うと、奈穂人さんはジーンズの後ろポケットから、何かを取り出して丸テーブルの上に置いた。
それは漆塗りを思わせる、滑らかな表面をした丸い筒型の容器だった。上品な黒を背景に、側面には朱色の薄布がたなびくようなデザインが刷られている。空を舞う天女の羽衣みたいだった。
翠「口紅、ですよね」
奈穂人「『ルージュの羽衣』という商品名で売り出されてるよ。僕が今までに一番心血を注いで作ったコスメだった。このご時世もあって、売れ行きは良くないけどね」
私たちの間で、ルージュは小さな骨董品のように静謐にたたずんでいる。
翠「どうしても渡したい物って……」
奈穂人「そう。これ、だったんだ」
奈穂人さんが円筒のキャップを外し、長い人差し指と親指でくるくると根元をひねった。
その動きに合わせて、円筒の先端から少しずつ中のスティックが姿を現した。
翠「わあ、綺麗な色……」
赤と橙の鮮やかな中間色のルージュは、闇夜に浮かぶ東京タワーみたいだった。
スティックをしまい、キャップをかぶせると、奈穂人さんは大きな手でそっとルージュを握りしめた。
奈穂人「里穂に言われたんだ。『私にこの世で最も似合うルージュを作ってくれたら、あなたのプロポーズを受けてあげる』って」
翠「難題ですね。かぐや姫が求婚者に出した条件みたい」
奈穂人「ハハッ、確かに」
私の言葉を受けて奈穂人さんは笑った。
奈穂人「でも彼女はそんな台詞が似合うくらい、美しかったんだ。おとぎ話に出てきそうなぐらいに」
まるで目の前に里穂さんがいるかのように、彼はうっとりと目を細めた。
奈穂人「作ってはダメ出しを繰り返して、何度も作り直しさせられたよ。『もっと赤味を出して』とか、『うるおい感が足りない』とか。筒の羽衣のデザインに至るまで、事細かい注文を山のようにね」
彼の懐かしそうな顔に憂いが宿った。
奈穂人「寝食を削って、ついに彼女のリクエスト通りの試作品が出来た。これでやっとプロポーズできるって、僕が職場を出ようとしたときだった」
翠「……事故にあったんですね」
奈穂人「里穂がぶつかったのは車じゃなくて、走って来た通行人とだった。駅の階段から転げ落ちて頭部を強打した……僕が病院に着いたときには、すでに霊安室に運ばれていた」
彼がうつむいて、口元に手を当てた。
小さく震える大きな肩に、触れたくなっている私がいる。
奈穂人「エンバーミングでルージュを塗ってもらったけど、僕が見たいのは、冷たくなった彼女じゃなかった。ただ、彼女の無理難題を叶えてあげて喜ぶ顔が、見たかった」
ルージュを置くと、奈穂人さんは組んでいた足を降ろした。肘をついて、顎を東京タワーの方に向ける。
奈穂人「彼女を見送って3ヶ月が経った秋頃かな。あそこのトップデッキまで昇って、東京の街を見下ろしていたときだった。一羽のツバメが、眼下のすぐ近くまで飛んできたんだ。ガラス窓がなければ、手を伸ばして触れられそうなほど近くて、みんな驚いていた」
日本を飛び去る季節とはいえ、250メートルの高さまでツバメが飛んでくることは、確かに珍しいことに思えた。
奈穂人「でも僕が本当に驚いたのは、次の瞬間だった。ツバメの黒い艶々した羽根に太陽の光が当たって、白く輝いたんだ。ほんの一瞬だったけど、真っ白な鳩に見えるほどに、僕の目にはまぶしく映った」
そのときのことを思い出すかのように、彼が目を細めた。
翠「……真っ白な鳩」
奈穂人「そう、すごく白くて、清らかに輝いていた。そのとき思ったんだ。このヒトデみたいに入り組んだ高速道路や立ち並ぶ高層ビルには、数えても数えきれないほどの人がいる。だから、探せば見つかるんじゃないかって。里穂と見分けのつかないくらい似た人が、内側から輝くような女の子が、きっと、この街のどこかにいるんじゃないかって」
ツバメの頭のような黒々とした瞳が、私を真っ直ぐに見据えている。
なぜだろう。その視線が私をとらえて、動かなくさせた。
肺がみるみる重くなって、息苦しさが胸を詰まらせる。
翠「私、そんなに似てますか?」
それ以上、涙目になってほしくなくて、優しく問いかけたつもりだった。
奈穂人「正直、生き写しかと思った……でも、外見だけ。中身は全然違う。彼女はもっと、良い意味で『高飛車』だったから」
彼の目に少し冷静さが戻った。私と彼女の区別化を図ろうとしている。
死んだ恋人に忠誠を誓う目に、戻ってほしくないと思った。
翠「このルージュ、塗ってみてもいいですか?」
奈穂人「え?」
翠「塗った方が、里穂さんのこと、もっとイメージしやすくなるかと思って」
上目遣いに奈穂人さんを見つめる私は、これから何に変わろうとしているのだろう。
自分の心臓の鼓動が、普段より下がって、下腹部の方からジンジンと聞こえてくる気がする。
その高鳴りが響く頭の中は、鮮明に澄んでいた。今夜の月のように。
翠「ちょっとお借りしますね」
ルージュを持っていた奈穂人さんの手に軽く触れると、彼の肩が、嗚咽していたときとは違う様子でピクッと動いた。
私はくるりと後ろを振り向いて、牡丹の透かし彫りで縁どられた鏡台に近づいた。
鏡の中に映る自分の頬が、薄暗い照明で見ても分かるほど上気している。
失敗しないように、はやる気持ちを抑え込むように、慎重に紅をさした。
翠「……これが、私」
鏡の中にいるのは、今まで見たことのない、強い自信にあふれた女の顔だった。
ただ唇に鮮やかな色を乗せただけで、どうしてこうも女性の表情は一変させられるのだろう。
「添い寝しかできない、受け身の私」しか知らなかった自分の内側から、誰にも見せたことのない淫靡な輪郭が透けて見えた。
内側から輝くと言われた、里穂さんの面影が羽衣のように全身を包み込んでいる気がした。
翠「……この色、似合ってますか?」
振り向いた私を見て、奈穂人さんが浮かべた表情は、言葉で確かめるまでもなかった。
ゴキュッ
彼の喉仏がひときわ大きく動くのを見て、両手の中のルージュが燃えるように熱く感じた。
ゆっくりと近づき、テーブルの上にルージュを立てて置いた私は、座っていた彼の顎を持ち上げた。
奈穂人「翠さん?」
戸惑いながらも、彼は抵抗せずにいる。
翠「奈穂人さんの夢のイメージ、もっとクリアに、させてあげる」
薄目を開けて、自分の顔が彼の顔に近づいていく様子が視界いっぱいに広がった。
軽く唇が触れるやいなや、彼が私から顔を離して、かぶりを振った。
奈穂人「でも、これって」
翠「嫌なら、止めますけど?」
私の言葉で彼が呼吸を止める。一旦停止のように表情が固まった。
カチャッ
私たちの背後で、ルージュが横に倒れる音が小さく響いた。
奈穂人「……ううん、止めないで」
ヘッドフォンから流れ出る音声みたいに、その上ずった声が耳元をかすめて、うなじが粟立った。
自分から貪るようなキスをするのも。
相手の服を脱がせようと、乱闘のように揉みあうのも。
今までの男女関係でしたことなんて、一度もなかったのに。
吸いつけられるような二人の距離の密接さとは、対照的だった。
奈穂人さんの背中越しに広がる金銀をまとう夜景も、月も、東京タワーも、すべてがはるか遠くの惑星のように、私たちから物凄い勢いで遠ざかっていく。
** ** **
酒を一滴も飲んでいないのに、飲み過ぎたような酩酊感が、まだ頭をふわふわと支配している。
隣でうつ伏せになって眠る奈穂人さんを、ベッドサイドのランプが温かい光で照らしていた。その大きな背中には、独特の模様の蒙古斑が浮かんでいる。生まれたときからずっとあるもので、今これを見れるのは私だけだと思うと、優越感と愛おしさが混在した。
服を身に着けて部屋の窓にもたれかかる。ガラスの冷たさが額にひんやりと沁みたとき、近隣からのぞかれる心配のない高さとはいえ、カーテンを開けた状態で一線を越えたことに、羞恥心が遅れてやってきた。
夜の闇は、少しずつ剥がれつつあった。それでもまだ夜空と呼べる薄暗さの中で、月は私が来たときよりも、低い位置に沈下していた。
東京タワーを見下ろしていたときのような、あの威厳はもはや感じられない。
額を窓から離すと、そばのテーブルの上に横倒しになったルージュが目に入った。
私の唇に、輝く魅力を与えてくれた丸い筒。無意識に手に取り、側面を眺めた。
翠「ルージュの羽衣、ね」
嫣然とした笑みをわざと作り、筒をつまんで目の高さに持ち上げる。
眠っている奈穂人さんの白い背中を背景に、漆塗りのような黒が妖しく光った。
(奈穂人の過去の台詞)――作ってはダメ出しを繰り返して、何度も作り直されたよ……筒の羽衣のデザインに至るまで、事細かい注文を山のようにね。
彼の言葉がふいに記憶から浮かび上がった。
冷たい嫌な汗が、胸の谷間を流れ落ちていく。
「羽衣」の模様を彼の背中と並べて見た私は、激しく虚を突かれた。
翠「そっくりだ……」
奈穂人さんの蒙古斑と、ルージュの「羽衣」の模様は、双子のように瓜二つだった。里穂さんと私の組み合わせと同様に、パズルのように、カチッとはまる音が聞こえるほど。
このときになって初めて私は、里穂さんの「無理難題」の中に隠されていた、奈穂人さんへの根深い愛情を思い知らされた。
ファンデを落として割れたときのような、大きなひび割れが心に走った。
何か勝ち目のない大きな存在に、打ちのめされた気分だった。
呆然とした自分の顔がガラス窓に映る。
疲れ目の下に濃い隈を浮かべる、ボサついた髪の、ただの女が映っていた。
羽衣をまとっても、発光しそうにないのは明らかだった。
翠「月が消える前に、私も行かなくちゃ」
ルージュを置きかけた私は、思いついてキャップを外した。
くるくると回してスティックが3センチほど出てきたところで、バランスを崩さないようにテーブルの上に立てた。わずかにカタリと、底面の触れる音が指先に伝わる。
私のせめてもの試みを陰で笑うような、女性の含み笑いの声に聞こえた。
(翠の心の声)――それでも、このルージュで奈穂人さんと愛し合ったのは、私が最初なんだから。
喉元にせり上がってくるのは、嫉妬なのか、狂おしさなのか。
感情が渦巻けば渦巻くほど、今度は私と彼の距離が離れていきそうな気がした。
ベッドに横たわる奈穂人さんの足が突然、軽く宙を蹴った。
里穂さんに駆け寄る夢でも、見ているのかもしれない。
翠「邪魔はしないよ……おやすみなさい」
口の中でつぶやいて、私はコートを羽織ってマスクを着けた。
ボーディングブリッジのような細長い廊下を、静かに早足で駆け抜ける。
狭い廊下が両側から押し迫ってくるような心苦しさに、なぜか目の縁が痛くなった。
唇にまだ残っているルージュと、彼とのキスの感触。
家に戻って化粧を落とすまでは、さっきの夢の続きを漂っていたいと願った。
(了)
お読みくださり、誠にありがとうございました。