入道雲
俺は、小林のことが嫌いだ。
越境入学した中学校は、友達がいない。勉強はもとから好きじゃない。小学校みたいに、面倒見のいい担任がいるわけじゃない。教科ごとに目まぐるしく大人は変わり、俺はまんまと置いていかれた。
友達はいないまま、俺は自分に似た奴らとつるみ始めた。午後になると、俺たちは陽だまりの猫よろしく、机に突っ伏して寝たふりを始める。
そんな時に、「おい」と言ってくるのが小林だった。
小林は絵に描いたような優等生だった。あいつと同じグループになったのが運の尽き。話し合いも、実験も、あいつは俺に指図した。あいつの意見は正しく、まっすぐで、俺のささくれだった神経を逆撫でにした。
肩をゆすった手を思いきりはたき落とす。振り向いた顔に『キモイ』と言い放つ。怒ったあいつに、思いきり馬鹿にした顔を向ける。
『は? お前、うぜぇんだよ、死ねば』
小林の傷ついた顔は、冷えたコーラくらい俺を潤した。甘ったるくて、喉をちくちく刺して、呑み込み切れない空気が俺の口からあふれ出る。
すぐに先生の(こんな時ばかりあいつらは先生面をする)知るところとなって、親に連絡が入った。SNSのログは、俺にとって致命的な証拠となった。親は俺から魔法の箱を取り上げ、そんなことやってる暇があるなら勉強しろと言った。
そして、梅雨がやってきた。
小林は俺に関わらなくなった。俺も、小林のことを無視することに成功した。小林はテストでいい点を取り、ガリ勉たちとキャッキャして、俺は回答用紙を丸めてカバンに突っ込み、仲間と昨日のお笑い番組のことでゲラゲラ笑う。
給食も、掃除も、俺達は関わらぬまま、日々は過ぎる。
そんなある日、俺と小林だけが、先生の手伝いに残された。俺は不運を呪ったが、小林は淡々とホチキスを紙の束に当てていく。パチンパチンと規則正しくステープラーの音が鳴り、俺は居心地悪く窓の向こうを見た。
入道雲がむくむくと盛り上がっていた空も、夕暮れに染まり始めている。
「おい」
俺の手元に、ステープラーとプリントが突き出される。
「早くやれよ」
小林が俺に話しかけたのだ。小林は俺を見もせず、いつもの、他の奴らに向ける誠実さのかけらもない態度で、俺に接した。小林は、俺にそんな風にしてもいいと思っているのだ。
そう理解して、なぜだか、瞼の裏がカッと赤くなった。
「うっせぇな、ほんとお前うぜえ。あれしろこれしろってよ、ほっとけよ、お前もう俺の前から消えて。学校くんなよ。迷惑なんだよ」
数か月前と同じように、いやそれよりも勢いよく言葉があふれ出た。
小林は黙ったままステープラーの手を止めた。その手が小さく震え、次の瞬間、俺に向かってステープラーを思いっきり投げつけた。
ステープラーは、俺の顔のすぐ脇を飛んで、黒板にぶち当たって、派手な音を立てて床に転がった。
「迷惑なのはこっちだよ! お前みたいなやつがいる学校、俺だって来たくないよ!」
小林の声は俺の数倍大きかった。誰か駆けつけてくるんじゃないかと思うくらいだったが、放課後の校舎に、小林の叫びを聞く誰かはいない。肩を上下に揺らし、真っ赤な顔をした小林の、見開いた目がみるみる潤む。
俺の仲間は、クラスの男子の大半。小林の仲間は、クラスの成績がいい一部の女子。結果、小林はクラスの多くに、無視されていた。嫌がらせさえ受けていた。
でも俺は、いいザマだと思っていた。お前はいっぱい、いろんなもの持ってるじゃないか。当たり前みたいに、いい子ちゃんヅラしていられるじゃないか。思っていた。お前だって、苦しめばいいと。
「お前も、他の奴らも、うるさいんだ! 授業中はうるさいし、掃除だってしないし、やらなきゃいけないことサボって、迷惑かけて! こんな学校、俺だって来たくないよ、でも休んで、休んだら」
小林の足元に弾を打たれたばかりの紙たちが落ちていく。少しばかりの重たさで、埃を巻き上げながら、小林の足元に降り積もった。
「……親に心配させたくない」
お前が学校に来る理由。俺が、学校に来る理由。
小林はぐいと目をこすると、床に落ちたプリントを拾い始めた。夕焼けの日差しが、俺たち二人をオレンジ色に染め上げる。
「子供かよ」
頬の熱さをごまかして、俺も床にしゃがみ込んだ。
「お前もだろ」
俺は返事をせず、小林と一緒にプリントを拾う。
大人たちは知らないのだ。子供にとって、大人がどれだけ大きい存在なのか。自分たちが、どれだけ簡単に子供を傷つけることができるのか。じっと見つめる目を、大人は無視し続ける。ひたむきな子供の目を、やわらかな魂を。ふりむいて、こっちを見て、少しでいいから、わたしを見て。
俺は小林が嫌いだ、と言うと、小林は俺もお前が嫌いだよ、と言って、俺たちは少し笑った。
季節は夏だ。
明日もきっと、バカみたいに晴れるだろう。