0.そんな日の朝
小さい頃から、歌うことが好きだった。
家ではもちろん、近所の公園、学校、帰り道、母親と行くスーパーや休日の遊園地、幼い頃の記憶にはどれも歌とともにあった。
その頃から自分にとって、歌うことは呼吸することと同じくらい当たり前のことだったのだと思う。
テレビに出ていた歌手になりたいとか、ステージに立つアイドルになりたいとか、そんな大きな夢があったわけじゃない。ただ歌うことが楽しかったのだ。
学校で習った合唱曲とか、童謡とか、なんでもよかった。当時はインターネットがそんなに普及していたわけじゃなかったし、幼ない子供に携帯を買い与えるのが当たり前なほど都会ではなかったから、流行りの曲を知らなかったっていうのもあるけど。
とにかく、なんで歌うのが好きになったとか、別に理由があったわけじゃない。いまだに歌うことをやめていない理由も、未練的なものじゃなくて、習慣とか、癖とか、そういう類の理由なんだと思う。
でも、8年前のことがなかったら、もう少し違う場所で、今とは違う理由で歌い続けていた未来もあったんだろうか。
もっと大きな場所で、たくさんの人の前で歌ってみたいと、年頃の子供がもつような夢を抱くこともあったんだろうか。
でももうそんな大層な夢を見るような歳でもない。そんな綺麗な感情で歌い続けているわけじゃない。
もう何年も開けていないせいで埃が被った部屋の隅の段ボールを端目に、懐かしい曲を口ずさむ。確か10年ほど前に流行った曲だ。
鼻歌もそこそこに服を着替え、カーテンを開ける。昔の嫌な記憶を思い出し曇った気持ちとは裏腹に、目が痛くなるほど眩しく晴れた空だった。
今日からまた学校が始まる。進級一日目としてはいい朝じゃないか。沈んだ気持ちを切り替えて今日のことを考える。
去年は新入生歓迎会の後、先輩たちによる親睦会と言う名の強制カラオケ会があったから、今年はそんなことがないように見張っておかなきゃな。新入生がかわいそうだ。
それに何より、自分が歌わされるなんてことがあったら最悪だから。
「いってきまーす」
朝食を取る家族に向けて声をかけ、先に家を出る。
歩きながら無意識に流行りの曲を口ずさんでいたことに気付き、フレーズの途中で歌うのをやめる。
無意識に歌い出してしまうこの癖は、いつになっても治らないな。
ああ、歌うことなんて大嫌いなのに。