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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

黒の森

失ったものと得たものと ~ 萱野 文代 ~

作者: 千東風子

ユイの家庭の話です。


あらすじの(お読みになる前に)やキーワードをご確認ください。

よろしくお願いします。


誤字を訂正しました。

誤字報告、ありがとうございましたm(_ _)m。


 

 衣食住には困らなかった。

 でも、ただそれだけ。


 物心がついた時には施設にいた。

 父も母も兄弟も親戚もいない。

 孤独。それが私。


 私の名前も誰かがつけてくれた適当なもの。


 生かされていることに全方位で感謝しなさいと言われ続けた子どもは、どんな大人になればいいんだろうね。


 施設を出て、そこそこの大学に特待生で通った。返さなくてもいい奨学金をもらい、少しのアルバイトで独立した生活が出来るようになった。

 狭くてそんなに綺麗なアパートじゃなかったけど、帰る家があって食べる物があって、それで十分で。


 就職は大手と呼ばれる会社に入った。男性と変わらない待遇で、安定した収入を手に入れ、財布の中の一円を数える習慣がなくなった。


 ふと思った。


 お金がないからやりたくもない勉強して特待生になった。今は仕事を覚えるために必死に勉強して、毎日朝から深夜まで働いて。いつまでこんな生活をしなくてはならないの?


 あ、死ぬまでか。


 施設では、他人に迷惑をかけずに自立した人間になることを求められた。生きてることに感謝しながら、生かされていることに、頭を下げながら。


 目標は、達成されました。

 じゃあ、もういっか。


 そう思った。今日の午後は久々の休みなので、会社を出て、しばらくあてもなく歩き、ふらりと入った高層ビルの解放された屋上庭園の金網をよじ登って、空を飛んでみようと思った。


 側にいた男が、私の腰をワシ掴んで引っ張ったので、私の飛行記録はよじ登った約七十センチ位だった。男を下敷きにしたけど、尻から落ちたから、もの凄く痛かった。


 私の記録を阻止した男は、このビルのオフィスフロアに勤める男で、屋上庭園で休憩していたら、いきなり女が金網をよじ登ったから慌てて抱きついて降ろしたと。


 すぐに警備員が来て、事情を聞かれたから、飛ぼうと思ったと正直に答えようとしたら、男が口を挟んだ。


「ハンカチが風で飛ばされて、取ろうとしただけみたいですよ。」


 いかにも善良そうなリーマン顔して、しれっと嘘を吐く男の言うことをあっさり信じた警備員は、金網には触らないでくださいね、警報が鳴りますからと言って去って行った。


 なるほど。次は止められる前に飛べということか。


 一人納得していると、男がニコニコ話しかけてきた。


「君死ぬの?」


 ニコニコ聞くことではないと呆れたが、素直に頷いた。


「じゃあ、僕とエッチしてくれない?」


 ぬ?


 なんと、今?


 私が固まっていると、男は聞き取れなかったと勝手に思って、さらに続けた。


「僕とセック「わああああああああああ!」」


 なんだ? 変質者か!? 誰か助けて! って、いつの間にか誰もいない! け、警備員さん! 金網! 金網に登ればまた来るはず!


 慌てて金網に登ろうとする私の前に男は立ち塞がって、震えだした。


 こ、こいつ! 笑ってやがる! からかわれた……!


 もう、ここから飛ぶのはヤメた。


 私は男を無視してエレベーターに向かった。


 男は私にくっついて来て、笑いながら一緒にエレベーターに乗り込んで、名刺を渡してきた。


 萱野 茂一。

 かやのもー? しげー? ……あ、数字の一か。字体が分かりにくいわ。


 大爆笑した男は顔の下半分を右手で押さえて痙攣しながら自分のフロアで降りて行った。


「このあと七時に、正面玄関出たところで待ってて? まだ死にたいんなら?」


 と、言い残して。


 だ、れ、が、行くか!!


 気を取り直して違うショッピングビルの屋上に行ってみたけど、柵が高くて足をかけるところがない。むう。

 マンション、歩道橋、踏切、なんか、いまいち。どうせなら私は飛びたいのに。


 今日は、やめた。

 家に帰ってお風呂だお風呂。最期のお風呂だ! そうだ、何食べよう? 最期に何食べよう! 肉だ!

 有り金はたいて良い肉買って帰ろう。いや、むしろ、食べて帰っちゃう? そうしちゃう?


 私がほくほくと最寄りの駅に向かって歩き出したら、ガシッと腕を捕まれた。


 振り返ると、さっきの男だった。


 え、何? 追いかけてきたの? この人、真性の変質者だ! 犯罪者だ! 犯されて、こ、殺される!


 ん? 別に、いいのか?

 私、死ぬんだったか。

 いや、まて、変質者に良いようにされて殺されるのは、イヤだ!


 混乱している私と対照的に、落ち着いている男は自分の腕時計を指して笑った。


「時間ぴったりだね?」


 ここ、さっきのビルの前!? し、七時、ぴったりだぁ?


「じゃあ、行こうか?」


 男は私の腕を掴んだまま歩き出した。


 ちょ、待てよ! って、某キムラさんかよ。

 なんで待ち合わせに来たことになってんの? 私帰り道なだけだから! 手を離して!


「ねえ、何食べたい? 肉派? 魚派?」


 え?


「君、死ぬんでしょ? じゃあ僕と美味しいもの食べてからでも良いでしょ?」


 な、な、なんで?


「その後運動するから肉かな?」


 運動?


「Se「わあああああああああ!」」


 アルファベットで言ったって同じだし! 何なんだこの変質者は!? 助けてお巡りさーん!


 慌てふためく私に笑いながら、男は手を繋いできた。「恋人繋ぎ」された手はがっちりと繋がれ、ぶんぶん振っても離れてくれなかった。


 怖い怖い……でもイヤじゃない。なんだコレ?


 ごはんはとても美味しかった。肉が。ホロホロでジュウスィで。

 男は終始ニコニコしていた。


 なんだ? なんだ?

 なんで、見ず知らずの男と結構洒落乙なレストランで二人きりでご飯食べてるんだろうか。状況が理解出来んぞ。

 落ち着け、落ち着いて考えろ。可能性としては、そうだ。

 其の一、私に一目惚れしたナンパ変質者野郎。

 其の二、命を粗末にするヤツに説教タレたい偽善者ナンパ変質者野郎。

 其の三、どうせ死ぬヤツなら、あんなこんなプレイしてみたいエロ魔神ナンパ変質者野郎。

 其の四、どれにも当てはまらないユーマ的なナンパ変質者野郎。


 Oh……ナンパ変質者野郎以外の可能性が見当たらない。


「なに百面相しているの? ちなみに正解は其の三だな」


 心の声漏れてたー!? そしてガチな身体目的だった。隠しもしねえの!?


 レストランを出て、私の部屋と同じ市内という男の部屋に連れ込まれ、あれよあれよと服をひんむかれて。


「ねえ、名前教えて?」


 それ今聞くやつ? ちょ、どこ舐め、言う、言うから!


「ふみよ? 文化に時代の? 良い名前。ねえ、僕の名前、言って?」


 いったーああああああいっ!!

 痛い痛いこれはガチ無理なヤツ!!

 下手か! 下手なんだな? 下手くそなんだな!? そうか、クソか!!!


「傷つくなぁ僕童貞だもん。頑張るからちょっと我慢してよ」


 な、ん、だと?


 私はニコニコ童貞ナンパ変質者野郎に簡単にお持ち帰りされたというのか。それはなんか、私の中の何かが崩れたってヤツだ。


「ほら、僕の名前、ん?」


 ……もー君?


 え、え、何それ人間の動きじゃないよ、変な動物、動物の動き!

 人間の腰は普通そんな動きしないよ!?

 ねえ! 人間ですらないの!? ねえってば!!


 私の訴えも虚しく、自分勝手に満足した男はニコニコして私を抱き締めた。


「はあ、すげー気持ちよかった。よかったぁ、僕、結構な潔癖で、一生童貞かと思ってた」


 ……どういうことで?


「他の男が舐めた身体だと思うと萎えるし。屋上で文代の腰に抱きついても嫌じゃなかったし、素手で手を繋いでも蕁麻疹でてこないし、自分でもビックリした。文代は見るからに処女だし。しかも死のうとしてて。僕、自分が使ったものを後から知らない人に使われるのもなんか嫌で……自分とシた女が、あとで他の人とスるのも無理だと思ってたから、文代、死ぬなら僕が最初で最後だし」


 男は私を抱きしめながら、おでこに頬ずりした。


「文代、かわいいし。文代なら体中舐めれる。死ぬまででいいから僕とシて? 文代が死んだら、きっと僕はもう誰ともシない」


 こ、これ、キターーーーーッ!!

 病ンデレラ、キターーーーーーッ!!

 私の手には負えぬ案件です!

 アウトソーシング、アウトソーシング!

 提携業者、どこぉ!?


「だめ、担当者は文代」


 またもや心の声が漏れてる!? いや、心を読まれてる!?


「かわいい。文代、舌出して?」


 べ。

 ってなんで素直に出しているんだよ、あたしは!?

 慌てて引っ込めようとしたけど遅かった。

 舌と舌が擦り合わさる生温かさにびっくりしたけど……イヤじゃない。

 必死に男にしがみついて応える。握りしめたワイシャツが皺になっても知るもんか。

 ん? コイツ、服全然脱いでない。上着脱いでネクタイはずして、ズボンゆるめただけ? 私全裸。コイツの萌えポイントなのか?

 分からん。所詮分かり合えない生き物なんだ。


「僕は人間です。服は、脱ぐとちょっと。身体がそんなに綺麗じゃないから」


 え、垢まみれなの?


「違います! んー、ちょっとだけ見る?」


 そう言って男はワイシャツを脱いで、アンダーシャツも捲り上げて脱いだ。


 その仕草にきゅんです。


 だめだ、私、色々崩壊してきた。

 脱いだ上半身は細身なのに引き締まってる。腹も出てない。テレビでよく見るすぐ裸になる芸人たちより乳首小さい。


「乳首て。なんか恥ずかしいな。……傷、汚いでしょ?」


 傷? ああ、コレ? よく見ると肌の色が違って皮膚がひきつれてる。

 ここにも? ここにも? え、結構傷だらけ? え?


 男の上半身は、やけどが治ったような痕や大小の線条の傷跡がたくさんあった。


 え、どういうこと? 鞭の人なの? 鞭とろうそくが好きな人なの?


「違います。プロは残る傷を付けたりしません」


 いらん情報だし違うのか?

 じゃあ世紀末の人だ! クレイジータイムを乗り越えたタフボーイだ。


「上着だけ破く特技はありません」


 ええ、じゃあタンクトップ一枚で弾帯をたすき掛けにしている人「違うから。銃も持ってないしイーストンボウ扱えないから」。


 私の思考を遮り、男は私の手を取って、自分の胸の傷に持って行った。


「これは、家でずっとやられ続けて出来た傷。見えないところに執拗につけるんだ。笑いながら。ずいぶん楽しかったみたいだよ。おかげで僕は女性不信と言うよりも人間不信。人に触られると蕁麻疹が出るんだ」


 虐待、ってこと?

 こんなに?

 家って自分の家?

 え、なんで?


「ん、触って? 文代は平気。何でだろうね? 嫌とも汚いとも思わない」


 震える手で、そっと傷をなぞった。触ると感触がデコボコしているからもっとよく分かる。


「名前呼んで?」


 私はもーもー言いながら傷を舐めた。動物は傷ついたら舐めて治すんだ。舐め合って、治すんだ。


 意味分かんない。

 自分の家でしょう?

 施設だってこんなことなかったよ!

 家族でしょう? 家族なんでしょう!?

 家族が居たら、幸せなんじゃないの!?


「泣き顔、クるね。今度は文代の良いところ探そうね? どこが良いのか教えて? いっぱい鳴いてね?」


 エロ変質者野郎にネチっこいオヤジ特性がバフられた!


 今日は金曜。明日会社が休みで良かったと、心の底から思った。





 さて、実は私は今日も生きている。


 幼少期の虐待の傷を抱えた男は、仕事の出来る男であった。

 出会ったその日にそういうことになって、翌日の土曜日は部屋から出してもらえず裸族、日曜日には男の部屋に私の荷物が運び込まれた。元々そんなに荷物ないけど、数時間単位で出来ることなのか?

 男の部屋と重複している家電の処分や私の部屋の解約もサックサクである。

 疲れているからイヤだって言ったのに、お互いの本籍が市内にあると分かると、荷物の片づけが終わった夜中も近い時間に婚姻届なる物に署名捺印させられ、役所へ連れて行かれて提出。24時間受け付けてくれるって、公務員は働き過ぎじゃないだろうか。

 それにしても、証人欄に名前のある藤崎さんて、夫婦かな? お二人は一体どなた。そしていつのまに。


 気がついたら「萱野文代」になっていた。


「これで文代がいつどこで死んでも、夫の僕に連絡が来るでしょ?」


 男は悪い顔して笑っていた。


 月曜日から、男の部屋から出勤し男の部屋に帰る生活になり、会社に転居と入籍を報告したら、事前に報告が欲しかったと指導されながらも祝福してもらい、少ししたら、入社2年目で出産休暇を頂く事態となり。


 私の妊娠に小躍りしながら世話を焼いてくれる男は、私が安定期に入ると、中古だけど今住んでいるアパートと同じ市内に一戸建てを買ってきた。

 そういうのって相談して悩んで検討してからハンコ押すもんじゃないの?


 隣のお宅の奥さんも妊娠中で、まもなく生まれるお子さんはうちと同じ学年になるみたい。お名前は藤崎さん。ん? 藤崎さんて。


「ん。結婚の証人になってくれた僕の兄夫婦。でも、コレは誰にも内緒ね。生まれてくる子どもたちは従兄弟になるけど、子どもたちにも内緒。僕たち兄弟は、虐待の家から児童相談所に保護されて、最終的には両親や親族が僕たちを探せないように別々の家の養子になったんだ。戸籍にも実子で載ってる。実の両親との親子関係は終了しているけど、見つかれば暴力を振るわれたり、お金を要求されたり、警察に頼るにしても、生活が壊れるから。僕たちのことを知っているのは、亡くなった育ての両親たちと兄の奥さんの小百合さん、あと文代だけ。あくまで仲の良いお隣さんとして接してね」


 こいつは、さらっと、またとんでもないことを。


 引っ越しをして、藤崎さん夫婦と秘密の会合を持った、秘密結社ってやつか。


 そこで決めた社則として、親戚であることは口外しないこと、お互い助け合うこと。

 そして最後に、私は出産後、いつ死んでも良いこと。私が死んだら、子どもは三人で育てるとのこと。


 日本美人で巨乳な小百合さんが私の頭を撫でながら言った。


「この兄弟は虐待の所為か元々の気質か、もの凄く歪んでいるのよ。なのに歪んでいるなりに、まっすぐで優しいの。文ちゃんが歯を食いしばって生きてきて、自分で人生をまとめようとしていることを否定しない。正しいとか正しくないとか、そんなのいらないでしょ? 「普通」ってよく言うけど、人の普通なんか欲しい? 自分で決めて、夫婦で決めて、私たち四人で決めていきましょう?

 いますぐ死んじゃうと、子どもを道連れにすることになって、それはナシだと思うのだけど、どう?」


 私は頷いた。血を分けた家族を持ってみて、気持ちが変わるかもしれないし、私の「孤独」は変わらないかもしれない。物心ついた時から私につきまとう影みたいな気持ちから逃げるためには、自分の存在を消すしかないと思っている。

 それを三人は許してくれるんだ。


「文代。小百合さんも兄さんと一緒になるくらいだから、大概歪んでるよ。でも、四人の中で唯一、日曜の夕方アニメみたいな家で育ったんだ。朝、おはようと声をかけてくれる人がいて、朝ごはんからきちんと皆で食べて、しかもお腹いっぱい食べて、清潔な服を着て、友達を家に呼べて、休みの日には皆で出かけて、たまに贅沢して、自分の布団で寝て、泣けば抱き締めてくれて、手を伸ばせば抱き締めてくれて、笑えば抱き締めてくれる。子どもにとっては理想郷ユートピアみたいな家だよね。その中にいる時は分からないけど、外から見るとよく分かる。正直、文代と僕の二人だけじゃ、生まれてくる子どもにどうしていいか分からないことたくさんあると思うし、文代がいなくなったら、僕一人じゃ無理だ」


 でも! でも、それって、私にばかり都合良い気がする。三人になんのメリットがあるの?


 男とあまり似ていないお兄さんの義治さんが、やっぱり私の頭を撫でながら言った。


「シゲの側にいられる存在なだけで、君のことをどれだけ奇跡みたいに思っているか、死ぬ瞬間までそれだけ覚えててくれればいい」


 ……よく分からないけど、それでいいんなら、死ぬまで覚えておくよ。


 こうして、秘密結社「仲の良いお隣さん」活動はスタートした。

 仲良しといっても、会えば挨拶をし、小百合さんがたくさん煮物をしたらお裾分けをくれる。それくらいの程良い距離感だ。


 やがて、小百合さんが男の子を出産した。金髪みたいに色素の薄いひよこ毛がとてもかわいい。小さいけど人間だ。私のおなかの中にもいると思うと不思議な感じだ。

 義治さんが「修太郎」君と名付けた。


 お腹が大きくなっても、男は毎晩私を抱き締めて眠る。手が不届きな動きをすることもあるけど、概ね抱き枕と化している。


 産休に入って、人生で一番のんびりしているような気がした。小百合さんとのお茶も日課となった。肉が付いてまん丸くなった修太郎君を抱いた小百合さんが「今の内だけよ~」と意味深に笑ってた。クマすごいな。


 そうして、私は四十八時間、陣痛という見えない敵との壮絶な死闘の末、女の子を出産した。気分は力石さんだ。

 あまり豊かではない胸が張って、ふにゃふにゃの赤ちゃんが吸い付くと、もきゅもきゅ母乳を飲み始めた。まだあまり出ないのに、一生懸命だ。


 人間は哺乳類。間違いなく動物だと確信した瞬間だ。


「疲れすぎて眠れない? 文代、頑張ったもんね。お疲れさま。見て。小さいのに指が五本ちゃんとある。爪も。良かった、文代。僕、この爪をはがそうとは思わないよ。……良かった」


 ああ、この男はもしかしなくても、ずっと不安だったのか。

 修太郎君を一回も抱っこしないのも、こんな小さな子に傷を付けて喜ぶ自分がいないか、不安だったのか。


 ふふ。


「……なんで泣きながら笑ってるの?」


 だって、私たちは不完全で、歪んでて、この子を幸せに出来るかどうかも分からないけど。


 もー君の手を握る。

 満ち足りた。全部が丸い感じ。この子が生まれてきてくれて、私はようやく自分になった感じがする。


「もー君、だいすき」


 号泣するもー君も、きっとコレが産声。





 さて、私は今日も生きている。


 もー君が「唯」と名付けた我が娘は、修太郎君とパンダの赤ちゃんのようにコロコロ転がりながら戯れ、「あー」とか「うきょ」とか会話し、やがて立って歩き出し、意味のある言葉を話し、ランドセルを背負い、セーラー服を来ていた。


 あっという間過ぎないだろうか。


 私ともー君は、やっぱりというか、日曜の夕方のアニメには出演が出来そうもない、仕事仕事の生活で。唯は、ほとんど小百合さんと修太郎君が面倒を見てくれた。近所ではもはやどちらの家の子か判別出来ていないだろう。

 私たち夫婦が唯にしてあげられることは、唯にお金で苦労させないこと。世間一般的な「親」のように接することが出来ないけど、自分たちに出来る精一杯だと思う。


 唯のことはかわいいし大事にしたい。だからこそ、「普通」じゃない私たちは、無意識にあまり唯の側にいないのかもしれない。


 唯には「飛んで」欲しくない。こんな気持ち、一生知って欲しくない。


 私たちは、繰り返し唯に伝える。自分を大切にしてほしい、と。何かを選ぶ時は、大切にする譲れないものに自分を忘れず入れなさい、と。

 面倒もろくに見ないくせにと、私たちの気持ちは唯には分からないことかもしれない。

 でも、それで、いい。


 唯はおっとりしていて、あまりおしゃべりもしない子だけど、3歳の頃からピアノにハマり、いつもピアノを弾いてる子になった。顔がニヨニヨしているか、口をとんがらせながら弾くのはどうかと思うけど、親の欲目抜きで素晴らしい音色だと思う。

 その傍らにはいつも修太郎君がいて。

 二人はきっとこれからも一緒にいるもんだと思っていた。


 だから、高校進学の希望調査の時に、唯が家を出て、音楽科に進みたいと言ったのには驚いた。


 唯は気づいてないんだろうか。自分が修太郎君をどんな目で見ているのか。完全にアオいハルしてんだけど。


 離れたらお互いがポンコツになりそうなほど寄り添い合っていて、離される理由もないんだから、そのまま一緒にいればいい。修太郎君の唯への執着はもの凄いよ?

 私なんて預かってもらってる唯を迎えに来ただけなのに、唯を誘拐する犯罪者にされたからね。根に持ってるよ?


 唯だって、修太郎君がいない生活すらしたことないのに、どうするつもりなの。


 唯がもしも修太郎君から離れたとしたら。


「修太郎君は一生童貞だろうね。それか唯と心中」


 この男の言葉には重みがあるなぁ。

 おい。娘の話だからな?


 でも、私も修太郎君と同じ所か、違う高校にしても自宅から通える所へ進学して欲しい。唯の面倒を見られるのは修太郎君くらいだろうし、正直、高校も小百合さんに面倒をかけることの方が多いだろうから、同じ高校の方が負担もまだ少ないだろう。


 唯に寂しい思いをさせてはいるとは分かっていたつもりの私たちは、唯の気持ちを全然分かってはいなかった。


「私の家はここで、私はお父さんとお母さんに一緒にいて欲しい。ごはんを一緒に食べて欲しい。どこか出かけるときも一緒に行きたい。学校行くのイヤだ。側でピアノを聞いて欲しい。

 私を見て欲しい。

 私を、見て、お父さん、お母さん。

 でも見てくれないじゃない! ならせめてピアノをずっと弾いてられる所に行きたい。しゅうちゃんはしゅうちゃんの家で、私の家はここでしょ。

 私はしゅうちゃんの子じゃないよ!

 私の進路になんでしゅうちゃんが出てくるの?」


 私たちは間違えた。

 唯のために修太郎君と一緒の方が良いと話したつもりなのに、唯は、修太郎君のために唯が望む進路を認めないと受け取った。


 何度も言い方を変え、「唯のため」と伝えたけど、唯の目から光が失せ、無表情のままで。

 これはもう無理かもしれない。唯の心の声を、気持ちを、跳ね返してしまったのだから。


 何日も話し合ったけれど、唯は意固地になって頑なに心を閉ざし、修太郎君の希望と同じ高校を記入した進路調査の用紙に印を押せと出してきた。


「まだ話し合いは終わっていない。それなのに、自分で書いたことだからな」


 と言って、もー君が印を押して唯に渡した。

 唯は無言で受け取った。


 唯の部屋のゴミ箱からは、ビリビリになったもう一枚の進路調査の紙があって、もうどうしたらいいか分からなくなった。


 その日から唯はピアノを弾くのをやめた。長年通ったピアノ教室もやめ、ピアノの話題を一切話さなくなった。まるで初めから自分とピアノは全く縁がなかったかのように。

 ピアノの話だけじゃなく、私たちとの会話も最低限しかしない。


 自分が、もー君もだけど、こっちだって悪いけど、その態度は誰に似たんだ。私か。


 唯は修太郎君と同じ高校に入学した。

 高校に入って、唯と修太郎君は何だか気不味いらしい。中学の途中からクラスが別れて以降、違うクラスなのが修太郎君は不満らしく、一方の唯は、修太郎君へのアオいハルを拗らせている模様。

 リビングに二人で居るけど、会話は少な目。見ているこっちがむず痒いほど唯は修太郎君を意識しているのに、修太郎君は相変わらずの「唯が一緒にいるのは当たり前」モードとのこと。情報源はもちろん小百合さんだ。


 進路やピアノの件は拗れたままだけど、その他は少しずつまた動き出したのに、ほっとした。


 修太郎君が唯への恋心しゅうちゃくを自覚したら、まもなく孫が抱けそうな気がするのだが。もう早くくっつけばいいのにと思う。


 秋、私の退職の目処が立った。責任者として携わったプロジェクトが終わったら、今更感はもの凄くあるけど、もう少し唯の側にいようと思う。

 私たちだって、唯のこと大事なんだよ。あんなに泣かれたら考えるわ。


 最後にプロジェクトの現地に出張して、諸々の調整後、少々の事務処理でプロジェクトは解散になる。

 出張日程を確認すると、もー君の出張と行き先の都市と時期が被っていることが判明。もー君は家の車で向かうので、帰りの日程を有休で調整して一緒に帰ることにした。


 もー君にラブなホテルに連れ込まれたりしながら家路に就く。

 これからは唯と一緒にいる。

 学校で何かあったのか、修太郎君と何かあったのか、唯は最近目に見えてひしゃげていて、どうしてやれば良いか分からないけど、とりあえず、出張先でおみやげをたくさん買ったから、胸焼けするまで一緒に食べようと思う。唯の好きなものをたくさん。


 そして少しずつでいいから、唯に諦めさせてしまったものたちを、三人で拾い集めようね?


 だから、私は今日も生きるよ。





 大きな音がした。


 運転席にいるはずのもー君が見えない。

 身体も動かない。


 ああ、そう。

 私は「飛んで」ないのに、死んじゃったみたいだ。

 ……もー君は生きてる?

 交通事故とは、洒落てないなぁ。


 唯、唯、唯。

 お金だけは残せる。他は、ごめん。色々ごめん。本当にごめん。

 あとは好きに生きて。


 どうか、自分を大切に、幸せに。


 どうか。





 意識はぐずぐずに溶けて、なんか漂ってた気がする。

 バラバラの粘土同士がくっつくみたいに意識が集まって、また固まりになってきた。


 急に何かに引っ張られて。まぶしくて声が出た。


『おお、元気な女の子だ』


『大きな泣き声! 丈夫な子になるな!』


『目元がお父さんにそっくりね』


 何か話しているのは分かるけど、何を言っているのかは分からない。どこの言葉だ?

 まぶしくて目も開けれない。


 っていうか、あ゛あ゛あ゛しか声が出ない。

 身体が自由に動かない。

 なんだコレ。


『さあ、この子が落ち着くのに二、三ヶ月かかるだろう。それまではこの町で商売だ!』


『シュウ様への土産物をたくさん用意して、この子に祝福をお願いしよう』


『そうだな! 商売に精を出さねばな! たくさん仕入れて帰ろう!』


『我らが北の国へ』



読んでくださり、ありがとうございました。

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