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ドアの向こうの廊下は、短い滞在の間でもオフェリアがとくに見慣れた場所だった。目が覚めたあと、最初にラカに連れられてきたのもここだ。
毛足の長い赤い絨毯は、足をすすめるごとにふわりと靴底を飲み込んだ。初めて来たときは新雪のような心地に感嘆したものだが、今は足元のおぼつかない沼地のようにすら思えてしまう。
それほど長くはない廊下は、すぐに扉へと突き当たった。
何の変哲もないこの扉の先が、キーラの部屋だ。
オフェリアはゆっくりと深呼吸すると、そっとドアをノックした。
三度、四度。控えめに叩いた後で、呼びかける。
「……キーラ、わたし。開けて……くれる?」
――返答はない。
入るべきか、待つべきか。逡巡していると、ずずん、ずずん、という地鳴りのような音が遠くから聞こえてきた。先程までいた部屋に比べれば幾分静かではあるが、それでもやはり同じ建物の中だということを意識する。どっちにしても、長居はできないだろう。
さらに数秒置いて、オフェリアはドアノブに手をかけた。
忍び込むかのように、じわりと力を入れていく。鍵をかけられていたらどうしようか。
しかし、オフェリアの危惧を裏切って、扉は抵抗なく開いた。
分厚い扉を静かに押していくと、中の様子が視えてくる。魔王の居室にふさわしい広さと調度を備えながら、到るところに可愛らしいぬいぐるみが散らばっていた。それはいつもの通りだったが、肝心の部屋の主の姿は見えない。
代わりに、天蓋のついた大きなベッドの上に沢山のぬいぐるみが山を作っていた。その不自然な盛り上がりは、呼吸するように微かに動いている。
慎重に部屋へ足を踏み入れて、オフェリアはやはり静かに扉を閉めた。
がちゃり、という音が微かに響く。
瞬間、ぬいぐるみの山がびくりと揺れた。
オフェリアは声をかけることなく、静かにベッドへと歩を進める。
そばまで行って、しばらく待つ。気配は伝わっているだろう。
しかし、いくらかの時間が過ぎてもキーラは息を潜めたままだ。
本当なら出てきてくれる気になるまで待っていたいところだが、今はそうもいかない。オフェリアは、意を決して呼びかけた。
「キーラ」
山がもぞりと動く。しかし、その主は中から出てこない。
「……キーラ?」
再び、今度は優しく呼びかけてみる。
すると今度は、ややあってから地すべりのように山の一角が崩れた。その麓から、キーラはおずおずと顔だけを出す。
「…………リア」
泣きはらした目元は赤く、頬には涙の跡が目立っていた。
それでもキーラは、強がるような口調で言う。
「なんで来たの? ……ほっといてって言ったのに」
「キーラを置いて行けるわけないでしょ」
まっすぐ見てオフェリアが答えると、キーラは逃れるかのように視線を逸らした。
「ぼくのことなんかいいのに……早く逃げなよ。お城、崩れちゃうよ」
「うん、早くしなくちゃ。だから、一緒に行こう?」
オフェリアは手を差し伸べるが、キーラはそっぽを向いたままちいさく首を振る。
「……やだ。ぼくのせいでこんなことになったんだから、一緒に行く資格なんかないよ。ラカに伝えて、次の王様はラカだよって」
「キーラ……」
沈みきったような声のキーラに、オフェリアはなにも言えなかった。
それでも必死に言葉を探していると、キーラが先に口を開く。
「本当はね、約束なんか忘れてると思ってた。だから……来てくれて、すっごく嬉しかったんだよ。なのに……せっかくリアが来てくれたのに、自分で全部台無しにしちゃった。だけど、絶対に離れたくなかったんだ。お父様みたいに、リアがもう戻ってこないかもって思ったから」
「そんなこと……!」
オフェリアの否定をかき消すように、キーラは畳み掛けるように続ける。
「がっかりしたでしょ? こんなやつだったんだって。一緒にいたら、きっとまた迷惑かけちゃうよ。ぼくみたいなやつは、リアと一緒にいちゃいけないんだ。だから、このままお城と一緒に――」
「やめて!」
オフェリアは、気づけば叫んでいた。もう限界だった。
「わたしが大好きなキーラのことを、悪く言わないでよ!」
「……っ!」
自分でも驚くほど、大きな声だった。キーラは目を見開いたまま、固まっている。
もう言葉を選んでいる余裕なんてなかった。胸の中で渦巻いていた想いが、堰を切ったように溢れ出す。
「わたしだってずっと、ずっとずっと会いたかった! 十年間、ずっと待ってたんだよ。もう一度キーラに……あの子に会いたいって! 会えるか不安だったのはわたしも一緒だし、会えて本当に嬉しかったのだって一緒だもん! 離れたくないのも同じだよ!」
いつしか、涙が溢れていた。歪む視界を、袖でごしごしと拭って晴らす。行儀なんて、守っている余裕はなかった。
しゃくり上げそうになるのを堪えて、オフェリアはなおもベッドで隠れているわからず屋に訴える。
「わたしがここまで来たのは、キーラに会うためだよ。キーラが大好きだからだよ。なんでわかってくれないの?」
これ以上ないほど思い切り感情をぶつけられて、キーラは明らかに動揺し始める。
だがどうすればいいのか分からないようで、その身体はなおもぬいぐるみの山の下のままだ。
「リア……ぼ、ぼく、その……」
「もういい」
オフェリアの言葉に、キーラはびくりと顔を見る。おそらく愛想を尽かしたとでも思ったのだろうが、そうではない。
視線をぶつけて、オフェリアは決然と言った。
「わかってくれないなら、わからせるから」
「えっ……えっ?」
困惑するキーラをそのままに、オフェリアは突然ぬいぐるみの山に手を突っ込んだ。そして逃げる間もなく、その腕を掴む。
言葉で伝わらないなら、行動で示すしかない。それなら、ここでやることは一つだ。
「……わたしが連れていきたいから、連れて行く!」
「えっ!? わぁぁっ!?」
驚愕するキーラを、オフェリアは無理やり山から引っ張り出した。
玉座からずっと連れて来ているぬいぐるみを掴んだまま、キーラは狼狽して叫ぶ。
「ちょ、ちょっとリア、待って!」
「待たない!」
オフェリアが有無を言わさず連れて行こうとすると、遠のいていたはずの地響きが部屋を大きく揺らす。
直後、扉の向こうから何かが崩れる音が聞こえてきた。おそらく、目の前の廊下だ。
「……っ、急ごう!」
胸騒ぎを覚えながら、オフェリアは扉を開ける。
果たして、その不安は的中した。
「う、うそ……」
呆然と呟くオフェリアの眼前は、瓦礫で完全に塞がれていた。先程の音の正体は、これだったのだ。
キーラの部屋の出入り口はここしかない。なんとかして扉までたどり着かなくては、脱出は不可能だろう。
「ぼ、ぼくが……!」
オフェリアを守るように前に出ると、キーラは片手を瓦礫に向ける。魔力でなんとかしようと考えているのだろう。
だが、掌に集まる真紅の魔力は驚くほどに微かだった。既に、先程の戦いで魔力は使い果たしているようだ。
「ど、どうしよう……魔力が足りない……!」
キーラが不安げに言うと、追い打ちをかけるように再び部屋が揺れる。いよいよ建物の崩壊は近いらしい。
「リア、ごめん……ごめんね、ぼくのせいで……!」
ぽろぽろと泣きながら、キーラは謝ってくる。その手をぎゅっと握り、オフェリアは言った。
「……大丈夫。大丈夫だから。わたしが一緒だから」
オフェリアは、十年前を思い出す。そういえば、あの時もこうだった。心細げに泣くキーラを、手をつないで励ましたじゃないか。
ひどくなる揺れに、オフェリアは強くキーラをの手を握る。このまま終わるとしても、絶対にこの手だけは離さない。
そう思った刹那、凄まじい衝撃音と揺れが二人を襲う。
オフェリアはとっさに、キーラを庇うように抱きしめた。目をつぶって、決定的な瞬間を覚悟する。
しかし数秒の後に聞こえてきたのは、覚えのある声だった。
「あれ、少し強すぎたかな」
目を開ければ、扉の先を遮っていた瓦礫は粉砕されていた。
その向こうに立つのは、戦棍を持った金髪の勇者――セレステである。
「はぁぁ……流石の一撃ですわ、ご主人さま」
「馬鹿者! お二人にお怪我があったらどうする!」
「お二人とも、早くこちらへ!」
後ろにはヘルミナ、ラカ、そしてジルの姿もあった。
遅くなったためか、それとも建物の崩壊が激しくなってきたためか。なんにせよ、素晴らしいタイミングで迎えに来てくれたようだ。
オフェリアは振り返り、改めて手を差し伸べる。
「行こう、キーラ!」
「……うん!」
しっかりとその手を取って、キーラは頷いた。




