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「ぬいぐるみ……ですか?」
ジルもまた違和感を持ったようで、玉座の上を訝しげに眺める。
セレステははたと思い至り、愕然と呟いた。
「ま、まさかあれが魔王じゃ――」
「リア! どこいってたの! ぼく待ってたんだよ!」
「ふふ、ちょっと迷っちゃったの。ごめんね、キーラ」
その予想は外れだったようだ。
玉座の後ろから顔を出したのは、黒いフリルのドレスに身を包んだ二つ結いの少女――ゼルキーラだった。
その姿が視界に入った瞬間、セレステは口走る。
「あっ、かわいい」
「セレステ」
無意識に言ってしまい、ジルに咎められる。ともあれ、どうやら魔王はぬいぐるみではなかったようだ。
「もう! 寂しかったんだよ!」
魔王――キーラは、オフェリアに駆け寄って飛びかかるように抱きついた。
乳白色の髪は蕩けるようにしなやかで、陶器のような魔族の肌と合わせて美しいビスクドールのようにも見える。しかし子供っぽく頬をふくらませる表情は、そうした静謐さとは別の魅力を放っていた。
前髪の片方を留める赤い髪飾りは、オフェリアと揃いのものだ。おそらく、二つで一対なのだろう。
じゃれつくキーラを優しく受け入れるオフェリアは、愛おしげに目を細めている。まるで姉妹のような二人の様子は、いつまでも見ていられそうだ。
セレステの熱心な視線に気づいたのだろうか。キーラの釣り気味の大きな紅眼が、じろりとこちらを睨めるける。
オフェリアに抱きついたまま、キーラは警戒するように問うた。
「……誰?」
「魔王様、こちらは――」
ラカの紹介に被さるように、セレステはびしりと親指で自らを指し、名乗った。
「私はセレステ・ヴァレンティア。勇者だよ」
「……勇者?」
キーラは訝しむように繰り返すと、じとっとした目でセレステを上から下まで観察する。
そして数秒の吟味の後、言い捨てた。
「うそだ。会ったことないけど、絶対こんな変態っぽい女の人じゃないもん」
「えっ、ひどい」
「ぷっ……」
直球の誹りは、思いの外ぐさりと刺さった。一方で小さく吹き出したのはジルだ。
「変態っぽい」というのがどこから来ているのかが見当もつかず、セレステは困惑した。
外見は清潔に保っているし、少なくともまだ表情には何も出していないはずだ。あるいはどこかから隠しきれない何かが出てしまっているのだろうか。というか、むしろ変態っぽさならヘルミナのほうが三周ぐらい先に行っているだろう。
「あら、少しぐらい逸脱している方が素敵ですのに」
当のヘルミナは、そんなことを言って妖しく微笑んでいた。やっぱりどう見てもこっちのほうが変態じゃないか。エロいからいいけど。
「……よろしいですか」
仕切り直すように咳払いしたのは、ラカだ。
キーラはぷい、と顔をそむける。聞かずとも、ラカの雰囲気から既に話の方向に察しがついたのだろう。しかし、ラカは構わずに続ける。
「魔王様、セレステ殿と――」
そこまで言ってラカは急に止まり、ジルの方を見た。そういえば、ジルはまだラカには名乗っていなかったか。
「王都守備隊、ジル・マティエです」
「――ジル殿。お二人は王都より、オフェリア様をお迎えするためお越しになりました。やむを得なかったとはいえ、結果的にオフェリア様を何も言わずお連れすることとなってしまい、王国ではさぞ心配されているかと存じます。なのでオフェリア様には一度ご帰国頂き、ひとまずご無事をお知らせしたほうが宜しいのではないかと――」
ラカはキーラの機嫌をなるべく損ねないよう、慎重に言葉を選んで上奏しているようだった。
しかし、キーラの答えは明白である。
「やだ」
すげなく言い捨てるキーラを宥めるように、ラカは近づく。
「しかし、魔王様……」
「やだ!」
またしても全力の拒否を表明して、キーラはオフェリアにぎゅっと抱きついた。
ラカは少し逡巡してから、小さなため息とともにちらりとオフェリアに視線を送る。
オフェリアは微笑んでかすかに頷くと、胸元に顔をうずめたままのキーラに優しく語りかけた。
「ね、キーラ。大丈夫。一回帰って、お父様たちに心配ないって言うだけだから……」
「やだぁ! やだよ! もっと一緒にいようよ!」
オフェリアに縋りつき、瞳いっぱいに涙を浮かべてキーラは訴える。こうなってしまうと、いよいよ話を聞く余裕はなさそうだ。
ラカは困り果てた表情で、仕方なく引き離そうとしてか手を伸ばす。
「魔王様――」
「やだやだやだ!」
ぶんぶんと頭を振ったキーラは、ラカの手を払い除けた。
「ぼく、十年も待ったんだよ!? なのに……なのに!」
振り絞るような訴えは、ただの我侭と言うには悲痛すぎる響きだった。長命な魔族とはいえ、まだ幼いキーラには十年という月日はあまりに長かったのだろう。家族も友人もなく一人で過ごしたその間、唯一の光とも言えるものがオフェリアとの思い出だったのだ。迷子の自分の手を取ってくれたオフェリアを、キーラは本当の姉のように思っていたはずだ。
オフェリアはあくまで優しく、今にも泣いてしまいそうなキーラの瞳を覗き込む。
「どこに住んでるかお互いわかったし、これからはもういつでも行き来できるんだよ?」
「無理だよ! だってぼく、魔族なんだよ!? きっとリアのお父さんもお母さんも、あんなところなんてもう行っちゃだめって言うよ!」
既に、その頬にはぼろぼろと涙が伝い落ちていた。
ほとんど懇願するように、キーラは問う。
「ね、いてくれるよね? いつまでも帰らないって約束してくれるよね……?」
「……キーラ」
オフェリアは答える代わりに、済まなそうに名前を呼ぶ。明確な否定ではない。それでも、肯定ではないことだけははっきりとした返答だった。
その答えを聞いた瞬間、キーラの瞳から光が消える。
オフェリアの顔を見上げ、数秒の沈黙の後、キーラは口を開いた。
「リアもなの……?」
それは、そのまま崩れ去ってしまいそうなほどに儚い呟き声だった。
だが、そこに込められていたのは背筋がぞくりと冷えるような純粋な絶望だ。セレステは直感した。これは、まずいことになる。
キーラはオフェリアの腕を離れ、玉座を背に一歩、二歩と後ずさる。
虚ろな表情のまま、少女はぶつぶつと何かを呟いていた。
「やっぱり……やっぱりそうなんだ。リアも……ぼくのこと、一人にするんだ……」
「……待って、キーラ。わたしの話を聞いて」
「お、王女殿下……!」
近づこうとするオフェリアを、不穏な雰囲気を読み取ったジルが止めようと動く。
しかしオフェリアは、気づかずに説得を続けようとしていた。
「またすぐに会えるから――」
「嘘だ!」
声で刺すがごとくの、鋭い叫びだ。
激しすぎる感情に振り回されるように、キーラは震えながら声を上げる。
「絶対、絶対そんなの嘘だ……! お父様だってそう言ってたもん! すぐに戻るって!」
刹那、瞳が鮮やかな紅に輝く――魔力光だ。
急速に魔力が増幅し、両手に真紅の魔力が充填されていく。
「みんな……みんなそうやってぼくを騙すんだ!」
怒りとともに腕を払いざま、キーラは魔力の塊を八つ当たりのように壁へ放つ。
純粋な破壊力の奔流は、飾り柱を容易くへし折った。
凄まじい音を立てて倒れる石柱を見もせずに、キーラは全身で声を張り上げる。
「もう知らない! リアなんか……もう知らないから!」
「キーラ!」
オフェリアはなおも呼び止めるが、キーラは拒絶するように再び魔力塊を放った。今度は、自身の足元に向けて。
玉座へと続く石造りの床は、その一撃で瞬時に瓦礫の防塞に変わる。
一方のキーラは魔力の反動を利用して飛び退ると、そのまま玉座のそばに着地した。
場違いに収まったままのぬいぐるみをひったくるように抱き上げると、キーラは玉座に身体を預ける。
瞬間、真の持ち主を迎えた玉座は不穏な光を放った。
「魔王様、お待ちを!」
「うるさい!」
瓦礫を乗り越え、駆け寄ろうとしているのはラカである。
しかし、キーラは宙に何枚もの魔法陣を展開させると、何かの魔術を走らせ始める。
それを合図に、石造りの玉座がみしりと浮き上がった。
一枚はおそらく転送陣だが、後のものはセレステにはわからない。
「いけない、あれは――」
焦る声はヘルミナである。
しかしセレステが詳細を問うよりも早く、それは完成した。
「声紋認証――〈魔王城、起動〉!」
キーラの叫びに呼応して、魔法陣は赤い光を放って消滅する。同時に転送陣も起動し、玉座ごと主を飲み込んだ。
直後、地鳴りとともに城が揺れだす。まず間違いなくあの魔法陣群の影響だろう。
「王女殿下、危険です!」
ジルは今度こそ駆け寄るが、オフェリアには聞こえていない。
「キーラ……」
口から零れるのは、友人の名前だ。
玉座が消え去った後の虚空を、少女は泣きそうな表情で見つめていた。




