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「やってくれるじゃんか。猪のくせに」
言い捨て、セレステが戦棍を構えると、緑の巨体は鼻息も荒く掴みかかってきた。態勢を低く落とし、セレステは魔力の輝きを宿す戦棍の先端を敵に向ける。
倒れた時に半分ほど発散されてしまったが、まだ鎚頭に魔力は充填されたままだ。致命打にはならないだろうが、これなら隙は作れるだろう。
距離は既に、間合いの内だった。鎚頭に込めた術式を、突きとともに放つ。
「〈衝撃波〉!」
飛び出す魔力の奔流に、オークはたまらず仰け反った。その無防備な土手っ腹を、セレステは思い切り殴りつける。
だが手応えは驚くほど鈍く、容易く態勢を立て直したオークは逆にこちらへ手を伸ばしてきた。セレステは素早く下がり、再び数歩分の距離を取る。
分厚い脂肪と筋肉のせいだろう。ジルのように切り裂くならまだしも、通常の打撃は効きづらいようだ。
かといって、攻撃魔術のために魔力を悠長に再充填している暇もない。となると、狙うなら関節か急所か。それなら、まずは隙を作らなければならない。
「――〈炎化〉」
呪文と共に、松明の如く鎚頭が炎に包まれる。戦棍をぐるりと回すと、火の粉が軌跡に散った。武器に魔力の炎を纏わせる、初歩の術式である。
オークはしかし、構わずに再び拳を繰り出してきた。腕が上がり、脇腹が露わになる。
セレステはそこを狙って、斜め下から戦棍を抉るように振り上げた。
鎚頭のプレートが、緑の皮膚に傷をつける。開いた傷口を魔力の炎が舐め、オークの脂肪を焼き焦がした。
「グォォッ!?」
呻き声とともに後退するオークに、セレステは確信した。ジルに腕を切られて怯んだように、やはり彼らは痛みに弱いようだ。
セレステは隙につけ込んで、相手が反撃するより早く一気に畳み掛ける。
もう一度脇腹、肩、腕、左右から連打し、動きが鈍ったところでがら空きの足――膝頭めがけて振り抜いた。
「ガッ、グゥゥォォォァッ!」
関節を破壊されたオークは、苦鳴とともに崩折れる。
降りてきた猪頭に、セレステは全力で火の粉散る戦棍を打ち下ろした。
果実のように頭蓋を粉砕されたオークは、そのまま上半身をふらつかせた後、ゆっくりと仰向けに倒れる。
――思いの外手こずってしまった。
戦棍を振るってこびりついた脳漿と血液を払うと、セレステはジルへと目を向ける。
ジルは崖を背に、突進してくるオークを待ち構えていた。
追い詰められているのかと身構えるが、よく見ればジルはほとんど傷を負っていない。
それどころか、その双眸には一切の焦りの影も見えなかった。この状況はどうやら、ジルの狙い通りなのだろう。爛々と輝く瞳は、接近する敵をぴたりと見据えている。
繰り出される爪が頭ごと首を掻っ切ろうという刹那、ジルはするりと相手の側面に回り込んだ。
鉄帽のあご紐を切り裂いたのみで流れていく爪を後に、流れるように踵を返して背後を取る。
転瞬、その足が地面を力強く抉った。なめらかな脚さばきとは真逆の、凄まじいまでの踏み込み。砂煙を上げて突っ込む目標は、オークの背中である。
針は先程の攻撃で殆ど撃ち尽くしている。すなわち今、奴の背後は完全に無防備だ。
「らあッ!」
裂帛の気合とともに、ジルは全力で身体をぶつけた。
一歩分の衝撃。
巨体を弾き飛ばすまでは行かなくても、崖の際に立っているオークにはこれで充分だった。
その足が、宙を踏み抜く。
「ガアァァァァァッ!?」
驚愕の咆哮が、そのまま断末魔となる。オークは、そのまま谷底へと落ちていった。
こちらは崖際ぎりぎりで踏みとどまり、ジルが息をつく。やや遅れて、ずずん、と落下音が崖下から聴こえてきた。
「だ、大丈夫!?」
「ええ」
ジルは剣を収めつつ、慌てて駆け寄るセレステに頷く。先程ちらりと見た苦戦を思い出してか、呆れたように続けた。
「私のことより、自分の心配をしたほうが――」
瞬間、みしりと不穏な響きが足元から伝わる。それが地面に亀裂が走る音だと気づくより早く、戦いで脆くなった崖の際――ジルの足元が崩れた。
「くっ!?」
ジルは落下しつつもなんとか崖淵に手を引っ掛けるが、そこすらあえなく崩れ去る。
だが――重力に捕われる瞬間、その手ががしりと掴まれた。
「捕まえた!」
声とともに崖の上から顔を出したのは、セレステだ。
掴まれた拍子に脱げた鉄帽が、遥か崖下へと落ちていく。
つられてジルが視線を落とすと、遙かな崖の下は木々に囲まれ、先ほど落ちたばかりのオークの姿すら見えない。
どれほどの高さかは分からないが、落ちれば助からないことだけは確かだろう。
「しっかり掴まって!」
「は、はい……っ!」
頷いたジルは、セレステの肩から流れる赤い迸りに気づく。オークの針で受けた傷が、力を込めるたびにひどく出血しているのだ。
「血が!」
「大丈夫!」
力強く答えて、セレステは両手でジルの腕を掴む。瞬間、純白の魔力光がセレステを包み、その筋力を補強した。
「ふぬ、ぬっ……ぬおらぁぁぁっ!」
「わっ、わああっ!?」
急速に高まった力によって、驚くほどの勢いでジルは持ち上げられる。そのまま引っ張られ、半ば投げ飛ばされるようにして崖上に身体ごと転がった。
死にかけた直後ともあってか、ジルも流石にすぐには立ち上がれないようだ。
回復魔法で肩の傷を治しつつ、セレステは笑いかける。
「ふぅ……危機一髪、って感じだったね」
「……ありがとうございます」
目をそらしながら、思いの外小さい声でジルは礼を言った。頭の鉄帽がなくなり、露わになった耳がかすかに震えている。息が上がっているせいか、それとも流石に恐怖したのだろうか。
しかしセレステの口をついて出たのは、いつものような軽口だった。
「ヘルメット、ないほうがいいね」
「……そうですか」
ジルは何か言い返すこともなく、意外にもあっさりとした反応だ。しかし、ややあってから付け加えるように問う。
「……触りやすいからですか」
「えっ、そういうわけじゃないけど」
「そうですか」
「……あ、もしかして触っても――」
「だめです」
これ以上ないほどきっぱりと断られてしまう。闘技場でのあれはやはり、かなりのイレギュラーだったらしい。
ジルは立ち上がると、ちょうど回復を完了したセレステに向き直る。その顔は、既にいつもの冷静さを取り戻していた。
「ほら、行きますよ――セレステ」
「え?」
聞き返すが、ふい、とそっぽを向いて、ジルはとっとと先に進んでしまう。
――気のせいでなければ。いや、聞き間違えるはずもない。
「嬉しいな、やっと名前で呼んでくれた!」
セレステは慌てて立ち上がり、ジルに急いで追いついた。
しかしジルは見向きもせず、何事もなかったかのように歩を進める。
「どうでもいいことで感動してないで、早く行きますよ。日暮れまでに帰らないといけないんですから」
「わかった!」
ジルの口調はむしろ厳しいくらいだったが、なぜかセレステは頬が緩んでしまうのを抑えられなかった。




