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「やーねえ、こう見えて三十年前は美人女将だったのよ!」
「そ、そうなんですね」
豪快に笑う恰幅のいい中年の女性を前に、セレステは引きつった笑みを浮かべていた。
なるほど確かに、血色の良い肌と大きく丸い瞳は往時の美貌をそれとなく思わせるような気もする。言われてみれば、という注釈付きで。
彼女がここ「モン・ダランの根雪亭」の美人女将――あるいは「元」美人女将である。
唖然とするセレステを見て、ジルがどこか機嫌良さそうに見えたのは気のせいだろうか。
ともあれセレステたちが勇者一行だと伝えると女将は大層喜んで、腕によりをかけてサービスするとはりきっていた。どうやら、結果的に良い宿を選べたらしい。
宿自体は居心地も良く、通された二階の部屋も広々としていた。
露天風呂で美しい夜空と山脈の風景を楽しむことがが出来たのも、思わぬ僥倖だ。こうした趣向は、この地方の特色らしい。
風呂から上がったセレステは、食事の準備がそろそろできると聞いて、いそいそと部屋へ向かう。
「ジル、そろそろご飯だって! 楽しみ――あれ?」
戻ってみると、ジルの姿がなかった。
開いた窓から、夜風に乗って一定の間隔の風切り音が聴こえてくる。
何事かと外を覗いたセレステは、宿の裏手の人影に気がついた。
ジルだ。その手には剣を握り、どうやら素振りをしているらしい。
遠巻きでも分かる美しい太刀筋に惹かれて、セレステはこっそりと見に行くことにした。
静かに宿の裏手に回って、気付かれないように物陰からそっと観察する。
透徹した眼差しは、極度の集中にあることを物語る。身体中から流れ出した汗は、おそらくジルも知らずのうちに足元で水溜りを作っていた。
灰狼の剣士は基礎的な動きを丁寧に、寸分違わず繰り返していた。振り下ろし、横薙ぎ、振り上げ、袈裟懸け、そして突き。型ではなく、単純な動作の愚直なまでの反復である。
しかしそれは月明かりの下、神聖な舞にすら見えるほど美しく厳かなまでに高められていた。
その美を作るのは、まさしく強さ――すなわち空間を切り裂く軌跡の鋭さが如実に表す、剣士の技量の程だ。
だが幾らかの時間の後、不意にその動きは止まった。
一呼吸の間を置き、ジルは満身の集中を解いてこちらに目を向ける。
「……何の用ですか」
「――えっ? あっ、ああいや、そろそろ夕ご飯だって。お風呂、入ってきたら? 露天風呂ですごいよ」
セレステは思わず見惚れていたことに気づいて、慌てて返した。
「……ありがとうございます。夕餉は先に召し上がっていてください」
汗と熱に湯気立つ身体をそのままに、ジルはそう答えると剣を収める。
肌着だけを纏った上半身は腹部が露わだが、そこにあるのは一切の無駄を排した剽悍さだ。
それでも筋張らないのは、その筋肉がしなやかであるが故だろう。
「やっぱり素振りだけでもすごいね。さすが剣術大会で優勝するだけのことはあるっていうかなんていうか……」
続く言葉が見つからず、語尾がしぼんでいく。思わず陳腐に褒めてしまったことを悔いた。分かり切ったことを言った所で、かえって機嫌を損ねてしまうのではないか。もっと気の利いたことを言えれば、まだマシだったかもしれないが。
しかしジルは、笑うでも怒るでもなく淡々と呟いた。
「……あんなもの、優勝してもなんの意味もありませんよ」
「え、そうなの……? 騎士に取り立てられたりとかそういうのはないの? 衛兵にしておくのとか絶対に勿体無いと思うんだけど……」
「身分の差は絶対ですよ。貴族に生まれたってだけで最初から騎士位を約束される者もいれば、いくら鍛えようが一生衛兵のままで終わる者もいるというだけです」
諦念で塗り固められたような平板な口調で言うと、ジルは裏口へ向かって歩き出す。おそらくは風呂に向かうのだろう。
ジルの「貴族に生まれただけで騎士になる」という言葉に連想したのは、典型的なバカ貴族――ポポン卿のような者だ。
セレステは思わず呟いていた。
「あんな奴らよりジルの方がよっぽど騎士らしいのに」
ジルの足が止まる。
セレステをじっと見たかと思うと、かすかに片眉を上げて言った。
「……そういう貴方は、誰よりも勇者らしくないですね」
「……あはは、そうかもね」
言い返せなかったが、なぜだか悪い気はしなかった。