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二人が山脈にほど近いモン・ダランの町に到着したのは、ちょうど日没を迎えようという時だった。
馬を駅舎に預け、完全に日が暮れる前に宿を探すことにする。
兵舎で充分だというジルを説得するのに骨が折れたが、こちらの衛兵隊長も宿を勧めてくれたおかげで渋々頷いてくれた。
勇者と王都の衛兵を迎えるとなると気を使わなければならないから、向こうとしても願ったりだろう。
美しい山脈は夕日に染まり、町は夜の支度に忙しない。
見れば、住人の中にはジルのような耳の者がちらほらいた。
それ以上に多いのは、大きめの帽子や巻き布を着けている者たちだ。中には単なる装飾で被っている者もいるのだろうが、ジルと同じく耳を隠すための被り物として使っている者がほとんどだろう。
しかしそれでも差し引いてもなお、露わにしたままの者は王都よりも多かった。
「……獣耳の人間は珍しいですか、勇者様」
「そうだね。私、南の出身だからあんまり会ったことなくて」
「そうですか」
目で追っているのがわかったのだろう。珍しくジルが話しかけてきたが、一度のやり取りで会話は終わってしまった。
王都を出発してからずっとこの調子で、全く話が弾まないのだ。というよりむしろ、ジルに話をする気がないのかもしれない。
嫌われているとすれば思い当たる節がないわけではないが、この犬耳の衛兵が単に真面目すぎるだけという可能性も十分にある。
何度か挑戦しているうちに打ち解けられるのではないか――などとあくまでポジティブに考えつつ、セレステはめげずに話しかけた。
「あっ、ていうかさ、勇者様っていうのやめてよ」
「なぜですか? 貴方は正式に勇者として認められたわけですし、そう呼ぶのが普通では」
「でも……一応ほら、私達ってパーティじゃん。旅の仲間なら、名前で呼びあったほうがよくない?」
「仲間、というより私は貴方の案内兼護衛として指揮下に入っているものと理解していますが」
「うーん、そっかー……」
にべもない返答に、流石に勢いを削がれてしまう。しかし、セレステはあることに気づいた。ジルの言葉を理解するなら、つまり現在セレステはジルの上司ということになる。
ということは、その権力を使ってある程度距離を縮めるのも可能なのではないか。例えば、「親しげなあだ名で呼びかける」など。
「あ、じゃあ逆に私はなんて呼んでもいいの?」
「……構いませんが」
「マジで!」
聞いては見たものの、既にどさくさ紛れで名前を呼び捨てにしている。
だから、これ以上親しげにするとなると何らかの愛称で呼ぶことになるだろう。まずは、とりあえずオーソドックスに攻めていくことにした。
「えーっと……じゃあ、ジルちゃん」
「はい」
「ジルジル」
「……はい」
少し変化球を投げると、ジルはあからさまに面倒くさそうな視線を返してきた。そこでセレステは、今度は別の角度から攻めてみる。
「ルーちゃん」
「……はぁ」
返事とため息のちょうど中間のような反応だ。どうやらこれはお気に召さなかったらしい。
「逆にジーちゃん……だとお爺さんみたいか」
「呼びたければどうぞ。それより本日の宿を早く決めましょう。勇者様がいいなら野宿でも構いませんが」
苛立ちすら感じさせないほど平坦に、冷たくジルは返す。しかし言われてみれば、すっかり日も暮れて周囲は薄暗くなっていた。
「そ、それは流石に……」
「それでは、宿はどこにしますか? 選ぶとしても、この辺りの二、三軒からになるかと思いますが」
ジルが示すのは、目の前に並ぶ数軒の宿屋だ。確かにそれほど大きい町ではないため、宿もそう多くはないはずである。
「そうだね――あ、あそこにしない?」
店構えに大差はない中で、セレステはその中の一軒を迷わず指さした。青い屋根の「モン・ダランの根雪亭」という宿である。
「わかりました、では――」
頷いて踏み出した瞬間、ジルは固まった。
その視線の先にあるのは、セレステがここを選択した一番の決め手――すなわち、看板に書かれた「美人女将の宿」という文言だ。
「あの、ここにした理由ってもしかして」
「ん? うん。美人女将ってどんな感じか気になって」
「……はぁぁぁぁぁぁ」
悪びれなく答えるセレステに、ジルは深く深くため息をついた。




