8
闘技場の惨状が嘘のように、王城は平和そのものだった。
誰もいない執務室の中、セレステは立派な机に対面するように所在なく座っている。
ここの執務室は何らかの大臣のもので、基本的に王は立ち入らない場所であるらしい。
しかしながら華美な調度は、王の執務室かなにかだと言われても違和感はない。
あの後、牢に護送される途中で近衛騎士たちに身柄を引き渡されたセレステは、そのまま王城に連れて来られた。
そして困惑する間もなくこの部屋に通され、そのまま一時間ほど放置されているのが現状だ。
姫が拐われたともなれば騒ぎになりそうなものだが、どうやら情報は厳しく統制されているようだった。
現状を正しく知っているのは、ごくごく一部の人間だけに留まっているのだろう。
マティエの方はどうしているのだろうか。結果的とはいえ上官の命令に背いた形になってしまったのだから、おそらく叱責か取り調べを受けている可能性もある。
せめてそのことだけでも誰かに聞こうと考えたのと同時に、重厚な音を立てて扉が開いた。
「失礼する」
短く告げて中に入ってきたのは、鹿爪らしい正装に身を包んだ壮年の貴族だ。
片眼鏡を掛け、骨ばった印象の顔は、どちらかというと貴族というより銀行家か何かを思わせた。
「そのままで」
言われて、立ち上がろうとしていたセレステは再び座り直した。貴族にしては珍しく、実務的な人物なのだろうか。
貴族は痩せぎすの長身を折り曲げ、革張りの椅子に着座した。机の上の資料にちらりを目をやると、挟んで向かい合うセレステに視線を移す。
使用人が背後の扉を閉めるのを待ってから、彼は静かに口を開いた。
「私は大蔵卿、ギヨーム・デュ・ペリダン。セレステ・ヴァレンティア殿だな」
「え、ああ……はい」
部屋の主が予想していたより大物だったことに驚きつつ、セレステは頷く。
大蔵卿。つまり王国の財政を司るポストであり、行政担当者の中では主席国務卿に継ぐ地位に当たる。国王を頂点とする政治構造の中でも、最上位の役職の一つだ。
「結論から言おう。我々勇者選抜委員会は、賛成多数で君を勇者として承認した」
「……え?」
唐突な言葉に、セレステは耳を疑った。
しかしペリダンは気にせず続ける。
「知っての通り、勇者候補は先の事件でその殆どが戦闘不能となった。奇跡的に死者は出ていないとはいえ、彼らが戦力として任せるに足るかどうかは論ずるまでもないだろう。そんな中で、魔族に対抗できた唯一の候補はセレステ殿、貴方だけだ。勇者として誰が適任かなど、言うまでもないと思うが」
「え、えっと――」
整然と並べられる内容に理解が追いつかないでいると、再び扉が開いた。
「へー、この子が勇者? 思ってたより普通にかわいいな。もっとゴリゴリな筋肉女子だと思ってたけど」
手ずからドアを開け、酒臭い匂いを纏って入ってきたのは、燃えるような赤い髪の女性だ。赤銅色の肌を黒革の魔術外套とつば広の尖った術士帽で飾った外見は、典型的すぎるほどに魔術師らしい。
だが何よりセレステが気になったのは、ヘルミナにも負けずとも劣らぬほどの豊満な胸元だった。
話の腰を折られたペリダンは、ため息とともに闖入者を見やる。
「……閣下」
「そんな顔するなって、大蔵卿。噂の魔族を倒したのがどんなやつか見たかったんだよ」
「ああいや、逃げられたし倒したわけじゃ――」
セレステが否定しかけると、赤髪の女性は磊落に笑った。
「謙遜するなよ! 私は主席宮廷魔術師、〈酒神の〉ナシュハク。はじめまして、だな? 勇者どの」
セレステはまたも驚く羽目になった。〈酒神の〉ナシュハクと言えば、王国魔術師の頂点とも言える宮廷魔術師の、それも長である。砕けた人物だとは聞いていたが、セレステもまさかこれほどとは思わなかった。
ナシュハクはペリダンの机により掛かると、好奇心に輝く赤い瞳でセレステを捉える。
変わったデザインの魔術外套からは、ちょうどその胸の南半球が見えていた。できればもっと下から覗き込みたいところだったが、流石に今それをやる度胸はセレステも持ち合わせていない。
「お前、今回唯一の単独候補者なんだってな。マジで一人で突破したのか? 多層構造型独立進化ダンジョンとか、錬金式生体ゴーレム群とかも? あれ結構自信作だったんだけど」
今回の選抜試験の課題を作ったひとりでもあるナシュハクは、セレステの成績にも目を通していたようだった。質問に答えようとするセレステだったが、制するようにペリダンが咳払いをする。
ナシュハクは喋りすぎたことに気づいたようで、済まなそうに笑うと手振りで促した。
「事態が事態だ。手短に説明させてもらう」
なんとか誘惑を振り切ってナシュハクの胸から視線を剥がし、セレステは再びペリダンに向き直る。
「セレステ殿。貴方には、第二王女たるオフェリア殿下を救出に行ってもらう」
「……救出」
改めて命じられた、勇者としての任務である。セレステはごくり、と唾を飲み込んだ。
「オフェリア殿下は本日、王都の警備巡察にご同行されたが、護衛の騎士が目を離した隙にお一人でどこかへお出掛けになってしまった。おそらく最初から選抜会場に向かうのが目的だったのだろうが、護衛もつけずに忍んで向かわれた理由は不明だ。しかし、その後はセレステ殿も知っての通り――混乱する選抜会場に飛び込み、魔族によって身柄を攫われてしまった」
「十年前……前回の選抜は、王弟殿下と一緒にお忍びで見に行ってらっしゃったんだけどね。それで今回も行きたいと思ったのかも。あの時も、途中で迷子になったり色々あったらしいけど」
ナシュハクは腕を組み、難しい表情で続ける。
「でも、魔族たちが王女殿下を狙ってたとして、なんで会場に来るって知ってたんだ? やっぱりたまたま勇者選抜会を襲ってたら殿下を見つけて連れ去ったとか? それとも殿下を会場におびき寄せたとか?」
「そういえば、リア――オフェリア王女殿下を連れて行った魔族は、アリーナで暴れていた魔族と連携しているわけじゃないみたいでしたけど」
あのときのヘルミナたちの不思議な空気を思い出して、セレステも発言した。
ペリダンは議論には加わらず、恬淡とした視線を二人に向ける。
「……王女殿下はおそらくは魔王領に連れ去られたものと思われるが、正確な場所までは不明だ。魔王城の可能性が高いとはいえ、魔王領にある城や拠点はもちろん一つではない。そこでまずは、王国西部――魔王領との国境近くのダラン山脈に向かい、そこに隠遁する魔術師のティオ・ラヴァナンを訪ねて王女の正確な居場所を問うとともに、魔族と魔王領についての情報、助言を仰げ」
ペリダンの出した名前に、セレステは耳を疑った。
「えっ、ティオってもしかして――」
「そう。百年前の勇者パーティで支援担当魔術師だった、〈天眼の〉ティオだよ」
頷いたのはナシュハクだった。
〈天眼の〉ティオ・ラヴァナン。
優れた魔術師でもあるが、その能力は戦闘ではなく回復などの支援関係で発揮された。〈天眼〉の異名は、中でも捜索魔術を最も得意としていたことからつけられたものだ。確かに、人を探すとなれば彼女以外に適任はいないだろう。
しかし、問題はその年齢だ。彼女は百年前、勇者パーティに参加した時点で既に齢百を越える老魔術師だった。生きていたとしても、果たして魔術が使える状態なのだろうか。
「い、生きてるんですか……?」
「驚くようなことじゃないだろ。魔術師はほら、長生きで年齢不詳なもんだし」
セレステの不信を見透かしたように笑ってみせたのはナシュハクだ。宮廷魔術師筆頭が言うなら、確かにそうなのかもしれない。しかしそうは言っても、非魔術師と比べて1.5倍ぐらいが一般的な魔術師の平均寿命である。高位の魔術師ともなれば違うのだろうが、彼らは決まって年齢を隠したがるため、正確なところは知られていないのが実情だ。
ペリダンは続ける。
「彼女はあのパーティ最後の生き残りだ。すなわち、魔王城にたどり着いた経験のある最後の人間でもある。本格的に魔王領に突入する前に、助言を仰いでおくといい。奪還についての具体的な戦術は、その上で勇者殿に一任したいと思っている。必要なものがあれば、先々の領地で遠慮なく言って欲しい。王女殿下のご無事は、何よりも優先されることだ。可及的速やかに救出できるのであれば、王国としては惜しむものはない」
「な、なるほど……」
居場所までは分かっても、手段はこちらに任せるということらしい。王国としても、大規模な動きができない以上はそうする他にないのだろう。
必要なものと言われれば、セレステとしてはかねてからの野望通り「パーティメンバーにかわいい女の子が欲しい」と言いたいところだが、この状況では吟味する暇もないのが問題だ。
女の子――というには年齢が怪しいところだが、ナシュハクに頼んでみるのもありかもしれない。美人だし、何より胸も大きい。
そんなセレステの思考を遮り、ペリダンは手を叩いて誰かを呼びつける。
「護衛兼案内として、西部出身の衛兵をつける。入れ」
その声に応じて入室してきたのは、見覚えのある姿だった。
「王都守備隊第四管区警備隊第三警邏小隊第四班、班長ジル・マティエ、参上致しました」
犬耳の兵士――マティエである。