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旅立ちの日

作者: 真浦塚真也
掲載日:2008/09/30

 今さらになってよくよく考えてみれば、別に揺るぎない理由があるわけでもない。そこらへんに転がっている小さな理由が何となく丸まって、何となく理由になった、言ってみればそういう事なのかもしれない。

 よく世間で言われている、今の生活が嫌になったとか、今の自分にケリをつけたかったとか、そういったことも少しは関係するのかもしれないが、でもやっぱりそれも何となくで片付けられる。

 家族や同級生や誰にも言わずに、『さようなら』の一文だけのルーズリーフを残して家を出て来た。

 仮に言ったとして、反対意見を言われて説得されても、力一杯押さえ付けられてどこにも行かせないようにされたとしても、やっぱり僕はここへ必ずやってきたと思う。まぁ、そんなことすらしてもられるかどうか分からないけど。

 何となく今日に実行しようと考えていた。案外、『何となく』は意志が堅い。まぁそれも何となくだけど。

 僕が旅立った後、皆は何を思うのだろう。

 学校では一日だけ騒がれて、その後はいつもの日常に戻るのだろう。学校に親しい友人はいなかった。学校でもいつも一人だった。

 家族はどう思うのだろう。多分母はここぞとばかりに泣くんじゃないかと思う。なんて馬鹿なことを、そんなことを言いそうな気がする。そして、将也、将也と僕の名前を連呼しながらまたおいおいと泣く。そんな光景が簡単に思い描ける。この時ばかりは泣いてほしいと思う。

 そんな母を蔑むような目で見ながら父は、別に何も思わず、いつもと変わらない日常を過ごすのだろう。厳しい父親だ。人を学歴でしか判断しない人でもある。

 僕の勉強は父が見ていた。父はいつも手に竹の定規を握っていた。そして、僕が間違えると、それで手の甲やお尻を叩いてくるのだ。お尻を叩かれる時はわざわざ立たされた。そっちのほうが時間の無駄だと感じていたが、父から言わせれば、こんな問題が分からないヤツは馬や牛と同類らしい。

 その甲斐あってか、僕は県で指折りの私立中学に入学することができた。

 今では父に定規で叩かれることもない。2年の冬休み前の期末試験で赤点をとって『この出来損ないが』と吐き捨てられてから、一回も口をきいてもらえていない。

 そんな父親の背中を見ながら、弟の健児はきっと震えあがっているのだろう。

 健児は勉強よりもスポーツが好きな奴だった。地元のサッカークラブに所属していて、当時3年生ながらレギュラーを任されていた。そこらへんの上級生、もしかしたら中学生にも勝てるくらい、健児はサッカーが上手だった。

 その頃の健児は本当に輝いていた。勉強漬けの僕にとって、健児は憧れの存在だった。

 健康な子であってほしい。そんな名前に隠された母の思いに、健児は精一杯応えていた。

 でもその年の冬休みから、両親は健児にそれ以上の応えを求めるようになった。『両親は』と言っても、求めているのは父だけで、母はそれに賛成でも反対でもなく、ただただ、父と共に行動するだけだったけど。


 父は僕に使っていた定規を、今度は健児に振りかざすようになった。

 母は、隙さえあれば『健児、勉強はどうしたの。』と、しつこく促すようになった。

 健児はそれに耐えた。昔から我慢強い奴だった。健児の成績は徐々に伸びていった。

 父は、サッカーの練習で汚れた健児を見るたび、露骨に嫌そうな顔で、『無駄なことしている暇があったら、勉強をしろ。』と声を荒げて、お得意の定規攻撃を健児のお尻に何発も浴びせた。

 母は、健児にテレビでサッカー中継を観ることを禁止した。日本代表の試合の中継がある時は、テレビをつけることすら禁止した。

 健児はそれに何とか耐えていた。ただもう、限界を迎えていたのかもしれない。今になってそう思う。

 健児は学校でトップクラスの成績を取るようになっていった。学校では文武両道の模範生として一目置かれていたようだ。学校では。学校ではそう見えていたらしい。

 父は、健児が宝物にしていたユニフォームとサッカーボールを、健児が学校に行っている間に勝手に捨てた。

 母は、サッカークラブに勝手に退部届けを送り付けた。すべては父から言われてやったものだ。あの女にあいつに対する意見なんてものは存在しない。


 健児はついに耐えることはできなかった。だからと言って、父に対して反抗するわけではなかった。

 健児は今までの健児ではなくなってしまった。

 健児の目はいつも何かに怯えるようになった。健児の爪はいつもボロボロだった。爪を前歯で噛み続ける、これが健児の癖になった。

 健児の声は格段と小さくなった。『ごめんなさい、もうしません。』これが健児の口癖になった。父の前ではそれが泣き声に変わった。

 健児の目にはいつも隈ができていた。健児は3日に1回はおねしょをするようになった。僕はこっそりオムツを買いに行くようになった。布団を濡らさせるわけにはいかない。父に叱られた健児の悲鳴のような泣き叫ぶ声はもう聞きたくもなかった。

 健児はいつも元気がなかった。


 健康な子であってほしい、そんな願いも叶わなくなった健児を母はよく誉めるようになった。

 家での健児が壊れる程度に反比例するかのように、学校での健児の成績はグングン伸びて、ついには学年トップにまで上り詰めた。このまま行けば、東京の私立も確実にクリアできる。三者面談の時に、健児の担任の先生は誇らしげに母にそう語っていたそうだ。この小学校開校史上最高の秀才だとも、もてはやされたらしい。

 母と父は完全に舞い上がっていた。

 『さすが、俺の子だ。』と、父はもう僕に見せることはないであろう、とびっきりの笑顔を浮かべながら、健児の頭をくしゃくしゃになるまで撫でた。

 『健ちゃんすごいわね〜。』と、母は健児をべた褒めした。

 健児はそれに心底喜んでいた。元々、両親が大好きな子だ。

 健児はより一層、勉強を頑張るようになった。自分の体がボロボロになろうとも、健児は勉強を頑張るようになった。両親はそんな健児をより一層誉め讃えた。


 でもお父さん、お母さん、あなた達は知っているのだろうか。

 健児には、学校で一緒に笑ったり励まし合ったりする友達はいない。いくら先生達に優等生と祭り上げられたとしても、健児にはそれを羨ましがられたり、それをネタにしてチャチャを入れる同級生は存在しない。

 健児の周りにいる同級生は、健児に対して冷たかった。その冷たさは大人が周りに居なければ、より一層強いものとなり、『いじめ』という形へと変化するのだった。

 そんな学校での健児を知ったら、お父さん、お母さん、あなた達はどうするのだろうか。

 お父さん、あなたは『情けない。しっかりしないか。』と声を荒げて、健児に対して体罰の制裁を与えるのだろうか。

 お母さん、あなたは『いじめられるあなたにも問題があるんじゃないの?』とありきたりな言葉で、何とか丸め込もうとするのだろうか。

 でも、お父さん。あなたは健児がいじめを受けている理由を知ってはいない。いじめられている事実さえも知らないのだ。

 健児は学校で『青ザル』と呼ばれていじめられている。体育の為の着替えの時に、クラスメイトにパンツを下ろされてしまった時からそのあだ名が付けられたらしい。『階段から落ちたと言ってもダメだったんだ。』と健児は僕だけに涙ながらに教えてくれた。


 お母さん。あなたも健児がいじめを受けている理由を知ってはいない。いじめられている事実さえも知らないのだ。

 健児は、いじめられても絶対にお母さんには言うことはない。いじめられているクラスメイトに『お前の母さん、近所でなんて言われているか知っているか。八方美人のカオナシって呼ばれてるんだぜ。』と馬鹿にされてから、健児は母親の前ではより一層いい子を演じるようになった。『僕があいつらに負けちゃってお母さんに言っちゃったら、お母さんがもっとひどいこと言われるようになるでしょ。』と健児は僕にため息混じりに教えてくれた。


 健児はそこまでして、よい息子でいようとした。僕が応えられなかった期待や思いもあの小さな背中に必死に乗せて、健児はいい子を守り続けているのだ。


 弱い。弱いのだ。誰もかも。

 会社では資料部の名だけの部長に追いやられ、家族にしか強さを見せられない森長勇夫。

 家庭でも近所でも当たり障りのないことしか口に出せない『八方美人のカオナシ』こと森長英美。

 そんな二人が大好きで、自分の本音さえを捨ててぎこちない『いい子』を演じている森長健児。


 弱い。弱いのだ。誰もかも。

 大人の前では普通の生徒で、健児の前では急に偉くなるクソ小学生共。

 毎晩健児の泣き叫ぶ声が聞こえても、井戸端会議でしか自分の意見を言えない近所の奴ら。

 健児の表の面だけをよく観察して褒め称え、裏の面には気付きもしないダメ教師達。


 弱い。弱いのだ。誰もかも。

 そんな弱者だらけの弱い世界の中で、最も弱い森長将也が今日旅立つのだ。


 [次の列車が隣の駅を出ました。]

 電光掲示に旅立ちへのカウントダウンが刻まれる。

 ああ、ついにこの時が来たんだな。そう思うと、涙が出てきた。嬉し涙だ。僕は自分にそう言い聞かせた。自分で決めたことだ。やっと旅立つことができるのだ。

 遠くの方から列車が姿を見せた。

 [まもなく3番線に上り列車が入ります。危ないですから、後に下がってお待ちください。]

 無駄な表情も込めない機械的な声が、僕を旅立たせてくれる列車が入ってくることを再度確認してくれた。その声を聞いて僕は深呼吸をして、助走の準備をした。


 何度も確かめた。

 この列車はこの駅では停まらない。3つさきの駅までスピードを緩めることは決してないのだ。


 僕はゆっくりと駆け出す。

 今思えば、そんなに嫌な人生でもなかった。だからと言って、いい人生でもなかった。

 無だ。無なのだ。何も『無い』人生だったのだ。友達も、尊敬すべき先生も、愛すべき両親も何も『無い』人生だったのだ。

 そんな人生で、僕は何を求めればいいのか。何を考えればいいのか。何を行動すればいいのか。

 いや、何も求めてはいけないのだ。何も考えてはいけないのだ。何も行動してはいけないのだ。

 『無』なのだから。『無』の人生なのだから。『無』に数を足そうが、『無』から数を引こうが、『無』は『無』なのだ。

 だからこそ、僕は旅立つ。この寒気がするほどの『無』に負けている弱者だらけの世界から抜け出すために。



 いや、違う。健児だ。僕の人生には健児という唯一無ではない存在がいたじゃないか。自分の苦しみや痛みを僕に全て打ち明けてくれる、健児という存在がいたじゃないか。

 なんてことだ。最後の最後でそれに気付くなんて。僕がこの世界から旅立ってしまったら、健児は誰に痛みや苦しみを訴えることができるのだ。いい子としての森長健児から、普通の小学6年生としての森長健児に戻る姿を誰が見届けることができるのだ。

 最悪だ。後悔の念だけが押し寄せてくる。また涙が出てきた。でも、もう遅い。


 僕は宙に飛んでいる。


 ワンテンポ遅れてブレーキのいやな金属音が鳴り響く。


 ちょっとだけ飛ぶのが早かったようだ。だがほんのちょっとだけだ。そんなに大差はない。


 すまない。本当にすまない。健児、本当にごめんなさい。皆さん、本当にごめんなさい。そして、皆さん。



 さようなら。






 将也、お前は何も知らない。旅立ってしまったお前は何も知り得ることはできないのだ。

 お前が旅立った数時間後、小学6年生の男の子とその両親が自宅で血を流して倒れているのが発見された。毎朝ガーデニングに精を出している母親が、今日だけは姿を見せず不振に思ったお隣の奥さんが見に行ったところ、そのようになっていたらしい。

 警察の調べで、小学6年生の次男による一家心中であることが判明された。ルーズリーフに『さようなら』と大きく書かれ、その脇に小さく『ごめんなさい』と書かれていたことが決定打となったと、ある週刊誌は特集を組んで伝えた。

 またある心理学者は、自殺した長男の存在を強調し、長男の敵討ちをしたと論じ、世間の話題となった。

 またあるテレビ局では、近所の住民の証言から長男と次男は虐待によって死を選んだと報じ、緊急スペシャルと題して近年の虐待が関係する事件を論議する特番が組まれた。

 警察はまだ明確な原因は掴めていないとして、現在も引き続き調査をすすめている。


 将也、真実はどうなのだろう。

真実はお前達兄弟しか知らないのだ。だが、お前達兄弟はもうこの世界にはいない。お前が大切に思っていて、後悔の原因となり、お前の憧れの存在だった健児も、そしてそんな健児に結局何も言えず、何もできなかった将也お前も、もうこの世界にはいない。お前達はこの世界から旅立ったのだ。



 お前が旅立った後のこの世界は、お前がいなくなった後もゆっくりと時を刻む。将也、お前は今どこにいるのだろう。もしかしたら、もう存在と言う概念自体が無い世界にまで行ってしまったのだろうか。

 それでもいい。将也、お前はそこで見守っていてくれ。そして、そこに来た新参者を温く迎え入れる存在になってくれ。

 お前が言ったとおり、この世界は弱いのだ。この世界の住人もみんな弱いのだ。


 今日も誰かが旅立ちの準備を始める。それが実行されるかどうかは本人しか知らない。


 時間はとめどなく流れる。この世界もまた止まることはなく動き続ける。弱い住人を乗せて。旅立とうとする人を止めようともせずに。そして、自分自身が弱い存在であることも知らずに。


 この世界は動き続ける。今までも、そしてこれからも。



 将也。旅立ってしまった者への援助はお前に託した。どうかよろしくお願いします。

御覧頂き有難うございます。評価、感想など頂けると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 少年が“死”を“旅立ち”と呼ぶことがさびしく感じました。 そして、他者と関わらない、もしくは関われないことで、思考が自分の中だけにとどまって、外に広がれない虚しさも。 こんかい初めて読ませて…
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