盲の恋
「お嬢さん、眼鏡いりませんか?」
眼鏡?
「目が悪いんでしょう?これは優れものですよ。なんたって、ただの眼鏡ではありません。これは魔法の眼鏡なんですよ?」
魔法?人の考えが読めるとか?寿命が分かるとか?それとも遠い世界が見れるのかしら。
「いえいえ。そんなものではありません。人にとっては残酷で、難儀で、それでいてとても愛おしいものが見えてしまうのです」
それは……いったい何なの?おじさん。
「そうだね、まずは掛けてみてくれ」
……知らない人から物はもらってはいけないのよ。
「おや、もう君と僕との間には縁ができてしまったじゃないか」
……詭弁だわ。
「それでも君は受け取るのだろう?さぁ、掛けてごらん」
「そう、それが『運命の赤い糸』だよ」
ガラス越しに見えた自分の小指に、血よりも濃い赤色をした糸が絡まっていた。驚いて目の前を見るも、眼鏡を渡してきた男はいない。気味が悪くなって必死にその糸を外そうとしてみる。けれどそれは小指から離れるどころか、緩むこともなく、私の指に絡まっているのだった。運命というにはあまりにも呆気なく結ばれた糸は、重力に従いながら地を這って絶望的ともいえるくらい遠くまで続いているようだった。
どこをどう歩いたのかも分からないままに家へと帰り着けば、いつも通り両親が私を迎えてくれた。ぼんやりとした意識は、どこでこの眼鏡を手に入れたのかもう覚えていない。ただ、それが魔法と名の付く呪いの掛けられた眼鏡であること。そして、それは自分と他人の赤い糸を見ることができるものだということだけをなぜだかはっきりと覚えていた。
「おかえり」
ただいま、お母さん
母親の小指にも同じ糸を見つけて、思わずその先を追った。キッチンから続くその糸は、父親のいるリビングではなく玄関の方へと続いていた。
その日、私は仲の良い両親が『運命の糸』で繋がれていないことを知ってしまった。なるほど、これは難儀なものだと、どこか他人事のように思ったのだった。
それから、町で、学校で、時間も場所も関係なく、その眼鏡は私に赤い糸を見せつけた。
仲睦まじい老夫婦も、初々しいカップルも、二人の小指に結ばれた糸がお互いと繋がっていることなどなかった。私は無味乾燥にそれらを眺める。どうしようもない。抗いようもない運命にどこか斜に構えてしまったのだろうか。
私は大人になった。学生という身分を捨て去り、いつしか母親が結婚した年齢になってしまった。もう私を『お嬢さん』と呼ぶ人はいない。
何度か、恋をした。そして同じ数だけ諦めてきた。どれだけ想いを募らせても、愛しても、それは『運命』ではないのだから。
たくさんの人との出会いと別れを繰り返しても、この糸の先にいる誰かと出会うことなんてなかった。ただその糸は、当たり前に小指に存在して、今なお私にその存在を知らしめるだけだった。その糸をどこまでも辿る強さもなく、その糸を鋏で切ってしまう諦めの良さもなく。指先にあるそれを見つめては絶望するだけだった。
そしてまた、恋をした。
何度目の恋だろう。そして何回目の失恋になるのだろう。小指の糸は彼とは繋がっていない。それでも、月日を重ねるごとに愛しさが募った。今までにないほど、指先の糸が彼の指と繋がっていないことを恨んだ。心の底から、愛しいと思ってしまった。
それなのに、皮肉にも、私は彼と同じ運命を持つ女の子を見つけてしまう。その時に感じたどす黒い感情を嫉妬と呼ぶなら、なんて身を焼くようなものなのだろう。いつか彼は私を見なくなるんじゃないか。彼女の手を取るんじゃないか。一瞬でそんな想いが私の中を駆け巡る。前から歩いてくる彼女の姿が涙で滲んで見えた。隣にいるこの人をとらないで。神様がいるのなら、どうかこの一度だけ。私の恋を奪わないで。
一瞬が一時間のようにすら思えた。汗が滲むくらいの緊張の中、拍子抜けするくらいあっさり、彼女は私たちの横をすり抜けていった。彼と彼女の赤い糸は、一瞬だけ交わり、そしてまた離れていく。
「どうしたの?」
繋いでいた手に力が入ってしまった私を、彼が心配そうに覗き込む。あの人がね、と指さしてあげるほど私は強くはなれない。彼が一度も彼女を見なかったことに心の底から安心してしまっているのだから。
なんでもないの。行こう?
出来るだけ、この場を離れたくて、いつになく、強く彼の手を引いた。
ねぇ、好きだよ。
「いつもはそんなこと言わない癖に、どうしたの」
私とね、きみは、運命だと思う?
「運命?」
そう。
「……運命、ではないんじゃない?」
……そう。
「悪い意味じゃないよ。たださ、この地球上にたった一人、運命の人がいたとして、その人と出会って、本当に愛する確率なんてゼロに等しいと思うんだよね」
もし、出会ってしまったら?
「そりゃ、その時になってみなきゃ分からないけどさ。人生は一回しかないんだし。誰かが決めた運命より、自分で選び取りたいじゃん。大切な人ならなおさら」
じんわりと、胸のあたりが熱を帯びた。
「運命も、一つの指針だろうけど。俺はいま、君の隣にいたいからいるわけで。それは誰に決められたものでもなく、俺がそうしたいから、なんだよ」
そっか……そっかぁ……。
安堵の息とともに言葉が溢れる。運命じゃなく、彼に選ばれて、そして私自身が選んでいまこの瞬間があるのだ。道行く人が、友人たちが、両親が、運命という楔に縛られず誰かに恋し、愛し、育んでいる。それはきっと当たり前のことなんだと、少しだけわかった気がした。