修祓
「着いたぞ。」
硬い声が到着を告げる。私は煌熙に支えられながら馬から降ろしてもらい、辺りを見回した。空気が重い。昼間であるにもかかわらず、この辺りだけは暗い。
陰がこの辺りだけ、広がっているようだ。社の中心に一部光を感じる場所があり、そこに桜の木が植えられているのだろうと察せられる。肌に当たる風は生温く、息がしずらく感じる。
ふと視線を感じ、回りを見回すと、暗い陰の向こうから、赤く光る二対の目がこちらを凝視している。一つだけではない、陰の中にいくつもの目が見える。
「獣達だ。」
誰かが発したその声を皮切りに、いくつもの唸り声があがる。こちらを威嚇するように、どんどん声は大きくなる。私は背筋をぞっとしたものが這い上がり、足を一歩引く。すると背中に熱を感じ、肩に手を置かれた。
「大丈夫だ。君のことは俺が必ず守る。絶対に傷つけさせない。」
力強い声が後ろから聞こえ、私は安堵し、首を回すと、煌熙が真剣な瞳をこちらに向け、頷いた。煌熙の声を聞くだけで、何故か安心できる。私が頷き返し、前を見据えると同時に重みのある太い声が響いた。
「兵は俺に続け!巫祝が用意した武器を使え!決して一人で先走るなよ!」
「巫祝の皆さんは深手をおった獣達から穢れを祓っていくのです。力が弱まれば私達の力でも獣の穢れを祓うことはできるはずです。」
剛毅と麗華の声が響くと、皆が雄叫びをあげ、獣達に向かって走り出した。
「愛優美ちゃんはここで浄化するための力を極限まで貯めてちょうだい。」
麗華は私に言い残すと、皆の後を追った。私は一つ深呼吸をすると、目を閉じ、麗華に言われた通り、力を中心に集めるよう集中する。
周囲からは剣や刀が獣の爪を弾く音、獣の唸り声や人の雄叫びや悲鳴がひっきりなしに聞こえる。そのような場所に自分が身を置いている事実が怖い。しかし、私にはやるべきことがある。気を強く持ち、今すべきことに集中する。深く深く回りの音が気にならなくなるくらいに。
(まだまだ、もっともっと。)
心の中で唱えたとき、麗華の悲鳴が耳をついた。
「愛優美ちゃん、逃げて!」
私ははっとして目を開くと眼前に爪が迫っていた。私は咄嗟のことに反応できず、その場で固まる。そのとき横合いから私の前に立ちはだかる影が刀で獣の爪を弾いた。
「お前の相手は俺だ!」
私がその背を見つめると、彼はこちらに一瞬視線を向け微笑んだ。
「守ると言っただろ。」
私は安堵し、笑顔で頷く。
「はい。」
安堵したのもつかの間、他の獣達が左右から私に向かって走ってくる。それを大きな剣を振りかざし、剛毅が凪ぎ払い、常護が二つの刀でもって受け止める。
常護が刀をふるう姿は以前に見て、相当な腕前であると知っていたが、剛毅もこの国の警護の長を勤めているだけあり、すごい技量だった。
剛毅の剣は太く長めな西洋風なもので、相当な重量がありそうな刀を簡単に振り回している。獣を凪ぎ払った時点で、人間業とは思えぬ怪力だ。
「まったく何故こんなにお嬢ちゃんにだけ集まってくるんだか?斎桜姫の力に惹き付けられてるのか?」
剛毅が頭を傾げ、常護はこちらに視線を滑らせる。
「斎桜姫様は力を集めることに集中してください。」
私は頷き、心強い味方を一瞥すると、また力を集めだした。
どのくらい時間がたっただろうか。未だ戦いの音が絶えず鳴り響いている。皆、疲労の色が濃くなっているように見える。それも仕方がない。皆が必死に闘っているにもかかわらず、獣の数が一向に減る気配がなく、むしろこちらのほうが消耗していってるように感じる。私は後少しと必死に力を集める。
「何故ここまで数が減らない?」
剛毅も疑問に思ったようだ。麗華が汗を拭いながら答える。
「この地が穢れ過ぎているのよ。巫祝が祓えるまで、獣の力を削ぐ前に地の穢れを利用して回復していってる。このままじゃこちらがもたないわ。」
皆に焦りの表情が見える。私がこの地を浄化できない限り状況は悪化する一方だ。
(お願い、斎桜の桜。私に力を貸して。)
心で祈り、薄く目を開いたときだった。煌熙が獣の爪を受け損ね、肩からお腹にかけ獣の爪が襲った。衝撃により横に弾き飛ばされ、小さく呻き地面に臥せる。私はスローモーションのようにその光景を目を見開いて見ていた。
煌熙はすぐに動けず、その場で蹲る。獣は弱った獲物に狙いをつけると、ゆっくりと歩きだす。私は次の瞬間には叫びながら煌熙のもとへ走っていた。
「やめて!だめ!だめ!」
なんとか辿り着いた私は煌熙に手を伸ばし、庇うように抱き締める。煌熙は私の行動に驚いたように目を見開くと、私を叱責する。
「何を考えているんだ。君が私達の希望なんだぞ。君に何かあったら…早く逃げろ!」
声を張り上げたため傷にひびいたのか、煌熙は顔をしかめる。私はいやいやと首を振り、さらに強く抱き締める。煌熙の掠れた声が聞こえる。
「お願いだから逃げてくれ。君が無事ならそれでいいんだ。」
一歩一歩獣が歩みを進めているのを感じる。常護も剛毅も自分の相手に精一杯でこちらに助けにこれる者は誰もいない。私が先程までためていた力も、今の動揺で一気に霧散してしまった。私がさらに手に力を込めると、煌熙は逃げろと力なく繰り返す。
獣がが眼前で立ち止まると手を振り上げる。このままでは私だけではなく、煌熙もろとも失ってしまう。
(そんなの絶対に嫌だ!)
私は自分の中で力が爆発するのを感じた。力は瞬く間に社全体に広がっていき、目の前の獣だけでなく、周囲の獣も一気に消しとんでいく。社一帯は光の珠があちこちに現れ、重苦しかった空気が嘘のように清浄な空気へ変わる。桜の木はさらに光を強め、皆の顔が安堵に包まれる。
私はどこか夢を見ているかのように、ふらりと立ち上がり、その光景を何の感情もなく見ていた。何も考えられず、力だけがどんどん外に溢れていく。
「だめ!王、その子を止めて!今の状態で力を使い過ぎては体に負担がかかり過ぎる。」
麗華のひきつるような声が聞こえた。煌熙はそれを呆然と見ていたが、麗華の声を聞くと、急いで私に手を伸ばすと、必死に語りかける。
「愛優美もういい。もう十分だ。」
私はそれをどこか他人事のように感じ、感情のない瞳を煌熙に向ける。伸ばされた手がそっと私に触れたとき、ふっと力が抜け、糸が切れた人形のようにくずおれた。なんとか煌熙が小さな呻き声とともに私の体を受け止めると、皆が私の側に駆けてくる。私は皆が自分を呼ぶ声を聞きながら、意識が闇に沈んでいった。
真っ暗な暗闇の中で美しい女性が心配そうな顔で私を覗きこんでいる。私が目を覚ますと安心したように微笑んだ。
「大丈夫?じゃなさそうね…」
きれいに澄んだ声が暗闇に響く。困ったような笑みを向けた女性は私より少し年上に感じられる。美しい黒く長い髪を後ろで上側だけ軽くまとめ、大きな黒い瞳、真っ白な肌に薄紅色に染まる頬、小さな唇は美しさだけでなく、可愛らしい印象も与える。真っ暗な闇の中で何も見えないはずなのに、彼女だけはまるで彼女自身が光っているようにはっきりと見える。
「あなたは…」
私が発した言葉は掠れ、まるで自分のものではないようだ。喉に力が入らず、指一本動かせない。まさに満身創痍という状態で、私は言葉を紡ぐのを諦めた。
しかし、彼女は私の言葉を正確に捉えてくれたようだ。
「力を一気に使ってしまったせいね。体がとても怠いでしょう?私の名前は綺羅というの。今回は何とか無事だったけど、次からは何の準備もなく大きな力を扱うなんて無茶をしてはだめよ。」
小さな子供に言い含めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。私は素直に頷くと、彼女はにっこり笑った。
「きっともう少し休めば良くなるわ。」
私の目にそっと手をかざし、瞼を閉じさせると、彼女の細い指がそっと労るように私の髪をすいた。とても心地よく、睡魔が襲ってくる。私が眠りにつく寸前に、彼女の小さく優しい声が囁いた。
「おやすみなさい。」