序章
夕暮れに染まる街で幼い私が泣いている。
「泣かないで! きっとまた会えるから!」
その言葉に私は顔を上げるが、相手の顔は逆光で見えない。しかし、私はその少年を知っている。
「本当に? 本当にまた会える?」
「うん! もちろん。それじゃあ約束。僕はまた君に会いに来るよ!」
ジリリリリリリリ
「ん……あぁ……朝か……せっかく良い夢を見てたのに……」
私は自分でかけた目覚ましに文句を言いつつ起き上がる。
久しぶりに懐かしい夢を見た。昔からよく見る夢だ。
とてもリアリティーがあるのだが、自分の記憶にはっきり残っていない。だからこれはきっと私が作り出した夢なのだろう。
「あの男の子、かっこいいんだって確信があるのに顔だけはいつも見えないんだよね……」
しばらくボケ〜と夢のことを考えていると、聞き慣れた大声が響く。
「愛優美、いつまで寝てるの! 早く起きて来ないと、遅刻するわよ!」
「あっ! やばい! 早く準備しないと遅刻しちゃう!!」
こんなことを考えている場合ではない。
私は「はーい!」と大声で返事をし、制服に手を伸ばした。
私は一般家庭に生まれた、ごく普通の高校生だ。
サラリーマンの父と専業主婦の母、そして兄が一人いる。
勉強も運動神経も並みで、学校でも目立つグループに属さず、ただ毎日を静かに平穏に暮らしているだけの女子高生だ。
髪を梳かしながら鏡を見つめ、うんっと頷く。
容姿に関しては、まぁまぁ可愛いほうであると自負している。
何せ、いつも挨拶する近所のおばさんも「まぁまぁ、愛優美ちゃんたら、また別嬪さんになって!」と会う度に言ってくれるのだ。
背まである少し長めの黒髪を一つにまとめ、急いでリビングに向かう。
すると既に父と兄が朝御飯を食べ終わり、ゆったりとコーヒーを飲んでいた。
「おっ! やっと起きたか。今日もギリギリか?」
「もう! 豪兄うるさい!! お母さん私もパンと牛乳ちょうだい!」
「はいはい。あんたはいつも忙しないわね」
母がため息をつきながら、すぐに食事を用意してくれる。
私はそれを急いで頬張る。
「そんなに急いで食べると喉につまらすぞ。もう少しゆっくり食べなさい」
父は呆れて、ため息をつく。
「お父さん時間を見て! 私にはお父さんや豪兄のようにゆっくりコーヒーを啜る時間もないの」
「それならもう少し早めに起きればいいのに」
私はそれを右から左に聞き流し、急いでパンを頬張り、バタバタと慌ただしく家を出た。
キーンコーンカーンコーン
「はぁ……終わった〜」
親友が終業のチャイムと共に伸びをする。
私もはーと一息つくと帰り支度を始める。
今日もいつもと変わらない平穏な一日が終わろうとしている。
親友とアホらしい話をしながら、駅前で別れて、電車に乗って、最寄りの駅から家までの数分を、一人でのんびりと歩く。
いつもと何ら変わらない平穏な日。いつもと変わらない道。
しかし、家まであと数分の場所で異変が起こった。
「何あれ?」
数十メートルほど先に黒く蠢く何かが見えたのだ。その何かは一気に広がり、どんどん大きくなっていく。
さっきまでいつもと変わらぬ道であったのに、いきなり現れた黒い何かが道いっぱいに広がり、こちらへと迫ってくる。
(こ、これは危険だ……近づいちゃ駄目なやつだ……)
本能で危険を察知し、私は急いで逆方向へ全力疾走で逃げ出した。しばらく必死に走り続け、視線をチラリと背後に向ける。
だいぶ距離を取れたはずだが、それでも先ほどの危機感がなかなか消えてはくれない。
私は意を決して足を止め振り返る。
するとそこには、何時もと変わらぬ住宅街が続いていた。
「な、なんだ……私の勘違いかな? 電柱の影を見間違えたとか? また豪兄に笑われそうだな」
私は自分を落ち着かせるためにも、何でもないことのように、独り言を呟いた。
しかし、その時、先ほどとは比べ物にならない、何かゾッとする気配にブルリと全身を震わせる。
反射的に後ろを振り向くと、先ほどまで後方にいたはずの何かが、いつの間にか私の前に回り込んでいた。
いつの間にあれほど大きくなったのだろう。
私の背丈の倍ほどに伸びた真っ黒に蠢くものが私を見下ろしている。
その蠢く物は次第に一つの形へと変化し、虎に似た何かへと変わる。背からは羽が生え、足は鷹のような鉤爪を持っている。
あの牙や爪で襲われれば、私はただでは済まないだろう。早く逃げなければと頭では分かっているが、体は緊張からピクリとも動かない。
虎のような何かはゆっくりとその距離をつめてくる。何も出来ぬであろうという獲物に狙いを定め、にっこり笑うと、ゆっくり一歩また一歩と近づいてくる。
(どうしよう? また走って逃げる? いや無理だ。だってさっき全力疾走しても逃げられなかった……ダメだ……こんなところで訳のわからないのに襲われて死んじゃうの?)
私は冷や汗を大量に流しながら、ぎゅっと目を閉じた。
「しゃがめ、娘!!」
その時、凛と通る鋭い声が、静かで恐ろしい空間を切り裂くように響いた。
「えっ!」
今まで動かなかった体が、まるで呪縛がとけたかのように、すんなり動き、私はその場にしゃがみ込んだ。それと同時に呻き声があがる。
「娘、こっちだ」
突然手を引かれ、なんとか立ち上がる。
そして虎のような何かから、少し距離をとったところで、背に庇われた。
「怪我はないか?」
私は何とか頷くと、チラリと振り返った青年の顔に釘付けになる。
その青年はとても美しかった。すっと通った高い鼻に、キリッとした眉と真っ黒な鋭い瞳、背まである長い黒髪を三編みをしてまとめ、和服であって着物ではない不思議な服を着ている。
こんな時に青年の美しさに目を奪われるなど、何を考えているのかと思うだろう。しかし、目が離せないのだ。
ほんの数秒ボ〜と見つめていると、青年がまた尋ねる。
「聞こえているのか? 怪我はないかと聞いている」
私は、はっとして今度はすぐに返した。
「だ、大丈夫です」
「そうか、よかった。あれは俺でもなかなか手強い相手だ。生憎、今は一人だからな」
「手強い相手って……もしかしてあの化け物を一人で倒すつもりですか?」
青年は小さく頷くと姿勢を低くする。
「決してここを動くな」
「えっ!? ちょっと危ない……」
私は咄嗟に声をかけるが、青年は虎のような何かに向かって猛スピードで走りだした。
初めての投稿ですので、誤字、脱字、説明不足な点等いろいろと至らぬところがあるとは思いますが、暖かく見守っていただけると幸いです。