⑤
外は背伸びしたくなるほど快晴だ。
小窓からは何一つ変わっていないティファレトのルーンの森が広がっている。
かつて、この森はサリファの庭だった。
この深い森を越えれば、驚倒するほど美しい白亜のルティカ城がそびえていた。
あくまで昔の話だが……。
十五年前の戦いで、ルティカ城は焼失してしまっている。今はどうなっただろう。
頭の隅でそんなことを考えながら、サリファはぼんやりと言った。
「しかし、貴方が私の娘だとしても、カテナ様を命がけで助けようとする動機にはなりません。認知して欲しければ最初に会った時点で名乗りでれば良かっただけの話じゃないですか?」
「つまり、心当たりがあるわけだな……」
「心当たりとは?」
サリファは小首を傾げた。
「心当たりがあったのなら、貴方は私の娘になるんですかね? ライさん」
ぎくりとライが肩を震わせたのが分かった。
「貴方は何故、くだらない嘘をつくんです」
「………やっぱり、わざとか」
ライは小さく舌打ちをした。
「残念ながら身に覚えがありません。確かティファレト人もアルガス人と同じ方法で子を成すものだと思っていたのですが、もしかして違うのですか?」
「分かった。ごめんなさい。結構、純粋なおっさんに成長したんだと勘違いしてた」
肩で息をしながら、ライは狼狽して中腰になった。
途端にがつんと天井に頭をぶつけて涙目になる。……痛そうだった。
「……まあ、あんたは変わっていない。昔からそういう人だったよな」
「はっ?」
「植物が友達のサリファだったよなあ。友達も作らず、植物博士以外とはほとんど誰とも会話をせず、いつも母親のカテナ様の影のように存在して……」
「影になっていた記憶はありませんが……。しかし」
――なぜ、知っている?
一連の会話でもしやとは思っていたが、カテナがサリファの母であることは、限られた人間しか知らない極秘事項だ。
そんな重要機密を知っている人物をサリファが覚えていないなんて、おかしい。
「貴方が私とカテナ様の関係を知っているのは意外です。一体どこで?」
「聞いたから」
「誰に?」
「カテナ様ご自身からだよ」
「本当ですか?」
「分かんないのか? 私は城を出てから、ずっとカテナ様の側にいたんだ。あんたの話は色々聞いた。いつも無愛想で不機嫌で人間には興味がなくて、大きくなったら植物と結婚すると」
「それは立派なデマです」
まったく、カテナらしい素敵な嘘を吹き込んでくれたものだ。
「……しかし、解せませんね。貴方にそんな話をしたカテナ様は、本当に宰宮殿下がお連れになっているあのカテナ様なのでしょうか。十五年も経ってしまって、私には分からないのです」
「ふん。くだらないな」
「くだらないことでしょうか?」
「ああ。くだらないな。確かに。昨夜、カテナ様を船室から助け出した時、カテナ様は私のことなどまったく記憶にないようだった。けど。それはご病気のために決まっている」
「貴方はカテナ様が病であることも知っていたのですね」
「知ってるよ。だからこそ、カテナ様はアルガスに降られたんだ」
「……そうですか」
「あのお方は、カテナ様だ。…………そうじゃなきゃ駄目なんだ」
「凄いですね。貴方は」
サリファは、力なく微笑した。
「十五年前、私はカテナ様と別れたんです。もうこれからは他人だと、私という枷を外して、新たな道をティファレト王と歩いてもらいたいと願って、私は彼女を見送りました。あの人にならそれは出来ると思っていたし、最初は寂しがっていても、いずれ私のことなど忘れて、王族としてではなく、普通の、平凡な幸せを築いていってくれるだろうと思っていました」
「……馬鹿な」
言下に、ライは切り捨てた。
「カテナ様は、あんたが自分を捨てたと思ってたよ」
「何でまた。そんなこと、あるはずないじゃないですか」
「だけど、少し考えれば分かるはずだよ。単純にアルガスに包囲された城から脱出して、めでたしめでたしで、妃と国王が市井の中で暮らせるはずがないじゃないか?」
「……カテナ様は逞しい人ですし。少なくとも私はそうなると信じていました」
「ああ、そうさ。実際、カテナ様は逞しいお方だった。でも、どうだろう。ティファレト国王はお体が弱かった。そして生まれた時から王族として育った王が民と同じ暮らしを続けるなんて無理だ。国王陛下は終戦後、すぐにお亡くなりになったよ」
…………やはり、ティファレト国王は死んでいたのか。
「カテナ様は王を亡くした後、何処かで匿われたりしていたのですか?」
「まさか。何処にも落ち着くことはなかった。何処にいたってアルガスからの追っ手がやって来る。本当、執拗だったからな。いっそ、アルガスに捕まったほうが良い暮らしができるんじゃないかって私がお勧めしたくらいだ。それでも、カテナ様は断固拒否をした」
ライの声が震えていた。
辛い思いをさせた。
彼女がカテナと一緒にいたというのは、嘘ではないのだろう。
「本当に申し訳ありませんでした。ライ」
「はっ?」
「私はここに至っても、貴方を何処かで信用していなかった。でも、貴方はカテナ様と逃げてくれたんですね。あの人を守ってくれて、有難うございました」
「――ああ。いや別に。私はその……」
ライは照れくさそうに、頬をかいた。
記憶の中で眠っているだろう、その顔の名前が出て来ないのが悔しい。
「ライ、貴方は今回の件以外にアルガスに来たことはないのですか?」
「……あるよ。それがどうした?」
「その時、私と何処かで会ったとか?」
「そういうことには鈍いんだよな。あんたに国王直属の見張りがついていたことは私だって知っている。ティファレト人の私が一人であんたと接触することは不可能だ」
「でも……」
「もういいよ」
ライは再び怒りだした。くるくると表情が変化する娘だ。
「すいません、昔から興味のないことは、どんどんと忘れてしまうもので……」
「興味がない者で悪かったな」
「大丈夫です。きっと近いうちに思い出しますから。思い出せそうな予感がします」
「そんな笑顔で、予感がするって言われてもね」
「まあ。貴方のことはおいおい思い出すとして……」
ライの相手をするのは、別に苦にはならないし、実際彼女が何者なのかもの凄く気になるわけだが、結論が分かるまで長く付き合っているわけにもいかない。
サリファは馬車の中で中腰になると、ライの前に下げられた備え付けの紐を軽く揺らした。りんりんと複数の鈴の音が響く。
「何だ?」
突然のサリファの行動に、ライは仰天した。
「アルガスの要人用の馬車には呼び鈴がついていましてね。機密事項などを話す時、御者に聞かれたくないとのことで、内装を分厚くして防音加工にしているんですよ」
「いや、だからな。私はそういう意味で言ったわけじゃなくて」
途端に、馬が嘶き、馬車が急停止した。
態勢を崩したライは、窓に頭をぶつけそうになるのを寸前で避けた。
「危ないじゃないか。ここで殺す気か!?」
「ええ。危ないですから。急停止する仕組みなので、気をつけて下さい」
「後から言うな。おいっ」
サリファはライの文句は受け付けずに、急いで馬車を降りた。
あと少し、馬車を走らせてしまえば、森が終わってしまう。
その前にルーンの森に寄らなければ、意味がなかった。
アルガスが整備した馬車道が森を寸断してしまったようだが、ここは本来国王の祭祀を執り行う重要な場所であり、大昔は王族以外足を踏み入れてはいけない鎮守の森であった。
サリファの身長近くある巨大な植物が数多く存在し、青々とした木々が豊かに茂る自然の宝庫。希少な動物も多く目撃されている。
「いい空気ですね。私はアルガスの山奥に住んでいますが、やはりティファレトのこの空気は適度に潤いがあっておいしい」
「良かったな。空気の質が違うだけで、上機嫌になれて」
状況について行けないライが、サリファの後ろに欠伸をしながら続いた。
――さて、やるか。
サリファは息を大きく吸いこむと、わざとらしい大声で叫んだ。
「ああーっ! セイジン草!」
「はっ?」
身長の倍はある大きな赤い草を指差したサリファは、馬車道から森の中に飛び込んだ。
「おいっ! 何処に行くんだ。この馬鹿がっ! 私は捕虜なんだぞ」
ライが悲鳴に近い声を上げて、駆け寄ってくる。
「何がセイジン草だ。いいか。その草はな」
「知ってますよ」
サリファは満面の笑みで答えた。
「この草は特に女性の美容に良い草で、煎じて飲むと、月の障りなどに効果が……」
「そんなこと聞いてないって。だからっ!」
「ええ。この草。足が速いから困るんですよね」
「ば……っ」
言い合っているうちに、ぼさぼさの赤い草は、いきなりみしみしと音を立てて根っこを地表に出現させた。
呆然としている暇はなかった。ざわざわと音を立てて草が移動を始めたからだ。
アルガスではありえない光景だ。ティファレトの植物の最大の特徴はこういった面である。
動いたり、急に大きくなったり、凶暴になったり……。
特にルーンの森には、殊更珍しい植物が群生しているのだ。
サリファとて、すべてを網羅したわけではないが、セイジン草のことはよく知っていた。
赤い色が目立ち、とにかく移動が早い。子供の頃、何度も競争したものだ。
案の定、セイジン草は根っこを足代わりにして、あっという間に遠くに逃げていった。
サリファは、その後を懸命に追いかけた。
「ちょっと待て。追いかけるな。キリがないだろう」
「アルガスにはない珍しい草なんで、久々に捕まえてみたいと思って」
息も絶え絶えに言い返す。走ったこと自体、子供の頃以来だ。
こんなに全力疾走というものは、疲れるものだったのか……。
呼吸が持たず、足がもつれるだけが問題ではない。
どうして、こんなびらびらした服を着ていたのか、今更後悔した。
袖が長ったらしいし、丈も長いので走りにくいことこの上ない。
予想通り、そのだらっとした袖をライに掴まれて、サリファは見事に尻餅をついた。
「いたたたたっ」
三十歳過ぎての尻餅は、精神的に辛いものがある。
臀部だけでなく、腰も痛めたような気がした。
「何やってんだよ。おっさん。頭の中まで植物がわいたのか?」
「ライさん。植物はわくもんじゃないです。生えるものですからね」
「いちいちうるさいな。しかも、いつも論点がずれてるし」
ライはサリファの前に回り込んで、仁王立ちした。
丈の短いベストからちらりと見える肌が見える。若い娘がお腹を冷やしてはいけないと注意した方が良いのか、サリファは真剣に悩んでみたが、余計なことだと思ってやめた。
「ここまで来れば、大丈夫でしょうかね」
ふっと真顔に戻ったサリファは、服についた土を払いながら立ち上がった。
「どういう意味だ?」
「私の見張りを撒きたかったんです。ルーンの森は王城守護の役目も持っているほど、奥が深い。特徴のある植物が多いので、私達に追い着くには難儀するでしょう」
「宰宮殿下があんたや私に見張りをつけているのは、分かっているし、妥当だと思う。でも、あんたがそれを撒いて、何をしたいのか私にはさっぱり分からない」
「簡単ですよ」
「何?」
「ここを逃したら、ルティカ城に着いてしまいます。こんな機会二度とないでしょう」
「一度くらいは、あるんじゃないのか?」
「私一人なら、いくらでもね……」
「はっ?」
ライの紫銀の髪が生温かい微風にゆらゆらと舞い、木々が俄かにざわめいた。
「……ライ」
サリファは、決然と言い放った。
「貴方は早くここから逃げなさい」
「はっ?」
もはや、それしかない。
それがサリファに出来る、唯一の誠意の示し方だった。