④
「おい。あんた!」
「えっ……」
「いい加減起きろ! ディアン=サリファ」
姓名を叫ばれて、サリファは本能的に姿勢を正した。
「…………あ」
夜ではない。昼間のようだ。
「ようやくお目覚めか?」
薄く目を開けると、眉間に皺を寄せた少女がサリファを凝視していた。
意志の強そうなふっくらした桃色の唇と、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳。可憐さと秀麗さの丁度狭間にいるような感じがまた蠱惑的に見えた。
あくまで口さえ開かなければ……の話だが。
「いつまで寝てるつもりだ。私を馬鹿にしているのか?」
早口なだけではなく、手も早かった。
一発、頭を叩かれて、サリファもやっと目が覚めた。
蹄鉄の音が寝不足の頭に響く。
――そうだった。
ここは馬車の中である。
朝早くティファレトの港に着き、あらかじめ手配されていた馬車に乗った。
ティファレトの港は驚くほど粛然としていて、とてもこの国内の南端で反乱が起こっているとは思えないほどひっそりとしていた。
警備も徹底していて、縁側には濃紺のティファレト軍服に身を包んだ大勢の兵士たちが脱帽して、宰宮エレントルーデを出迎えていた。
こうなってくると、昨夜ライとセディラムが起こした誘拐未遂は一体何だったのか、益々分からなくなってしまう。
サリファは、今回の出来事は、エレントルーデの狂言ではないかと疑っている。
しかし、そんなことをして何の意味があるのか、誰が得するのか、さっぱり分からなかった。
ずっとそんなことばかり考えていたせいだろう。うっかり眠ってしまったらしい。
王城ルティカを目指していたはずだが、今、一体自分は何処を走っているのか?
「ああ、ライ。そうでした。貴方と一緒でしたね。何だか私、寝てたみたいで……」
「……みたいじゃなくて、がっつり寝てたんだ。よく私の前で熟睡できるものだな」
軽く舌打ちしたライは、膨れ面でそっぽを向いた。
「……でも、ライさん、それは私だけに言えたことでもないと」
「はあっ?」
「いえ。別に……」
慌てて誤魔化したが、気を抜くと詰め寄りたい衝動にかられる。
――昨夜の貴方は何だったのか……と。
衛兵から、船の牢屋に閉じ込めたライが悲鳴を上げていると聞き、サリファはすぐさま駆け付けた。エレントルーデはサリファに一任し、一緒ではなかった。
あっけないくらい、容易に衛兵から鍵をもらったサリファが室内に足を踏み入れると、暗がりに目を凝らす前に、ライの悲鳴がサリファの耳を貫いた。
彼女は泣き叫び、苦しんでいた。
ティファレト語を知らない衛兵には、意味不明な言葉の羅列だっただろうが、 サリファにはすべてが通じてしまった。
彼女は助けを求めていた。
見えない何かに、必死に手を伸ばして救いを求めていた。揺さぶってみたが、まったく反応しなかった。
問いただすことこそできなかったが、きっと衛兵に睡眠薬を盛られたのだろう。
牢に閉じ込められたライが、騒いだに違いない。
彼女は命懸けで助けたカテナの安否を教えてもらえなかったのだ。気になって当然である。
「昨夜は申し訳ありませんでした。まず貴方にカテナ様の無事をお話しするべきでした」
「ああ、そうだよ」
ライは今になって、思い出したくせに、怒ってる素振りをした。
「カテナ様はどうしたんだって聞いても全然反応がないしさ。それで、苛立ちながら出された食事を食べたら、急に眠くなって……。アルガス兵め。薬を盛るなんて、最低だ」
確かに最低だが、おかげでサリファも益々睡眠不足になった。
出来ればライと共に、衛兵を叱りつけてやりたかった。
「……それで、カテナ様は今どこに?」
「宰宮殿下が大型の馬車を借りていました。横になったままルティカ城にお連れするそうです。カテナ様が乗り込み、殿下が後に続く姿は私も確認しましたから大丈夫ですよ」
「そう」
「しかし、セディラムもレイラも、二人とも杳として消息は掴めないのですが……?」
「どっかで生きているんじゃないか。簡単に死にはしないだろうし」
ライは欠伸をしながら安穏と言った。
「どうせ、あの付近に大型船を停泊させていたんでしょう? 宰宮殿下の指示で……」
「……何だ。あんた、やっぱり知ってたのか。昨日のあれが狂言だって。そうしろって、宰宮に言われたらしいな。宰宮との窓口は、セディラムが引き受けていたから、私は詳しくは知らないけど」
「…………そんなふうに、あっさり認めてしまって良いんですか?」
「何を?」
「――狂言だってことですよ」
念を押すと、ライは初めて合点がいったらしい。
にやりと笑った。しかし、彼女がこうあっさり認めるのも、エレントルーデの目論見の一つだと思うと、サリファも素直にうなずけなかった。
ライとの馬車の同乗を許したのは、エレントルーデなのだ。
「ああ。だって、先に裏切ったのは、宰宮の方だから。突然反撃してくるなんて卑怯だよ」
「まあ、それはそうですけどね。ちなみに、貴方は宰宮殿下から、カテナ様のことについて、尋問を受けたりはしなかったのですか?」
「ああ。本当に娘なのかって聞かれたけど、そうですって、答えただけだったな」
エレントルーデがライだけ捕まえたのは、こうしてサリファと話す機会を作りたかったのかもしれない。
エレントルーデがライに問い質したところで、ちゃんと答えないのを見越していたのだろう。
「そのセディラムとレイラですが、真実、貴方の仲間なのでしょうか?」
「仲間っていうか、たまたま目的が合っただけだよ。私はカテナ様さえ助けられればそれで良かったし。セディラムとは三年のつきあいだけど、レイラさんは、正直よく分からない。セディラムから紹介されたんだ。アルガス人だけど、ティファレト語がぺらぺらで、あまり女の人に知り合いがいなかったから私も、色々と話した。けど、……そういうのを仲間と呼ぶのかな?」
……レイラは多分、エレントルーデ側の関係者だ。
レイラがセディラムに予定変更を促した時の話し方は、セディラムより、エレントルーデの方に親しみを置いていた。
「貴方たちは、カテナ様を浚って一体どうするつもりだったのですか?」
「さっきから何だ。それは尋問か?」
「尋問ではありません。私の個人的なお願いです」
威圧感があったかと、ライを気遣いながらサリファは自嘲気味に頭を撫でた。
「私は知らないことが多すぎる。知識がないということは、それだけ利用されやすいってことですから。ティファレトに着いた今となっては、益々油断ならないと思うのですよ」
そう言って、真っ直ぐライを覗き込むと、ライは唇を尖らせたまま、微かにうつむいた。
「私は……。カテナ様が道具として扱われるのは嫌だったんだ」
「道具?」
「宰宮はカテナ様を物扱いしている。私は三年前から、カテナ様がアルガスで監禁されていることを知っていた。カテナ様は望んで宰宮のもとに行ったわけではない。賊に囲まれて仕方なく降ったんだ。金で売られたんだよ」
「……金で? 信じられません」
「宰宮が懸賞金でも懸けてたんだろうよ。恐ろしい執念さ。何しろ、宰宮の別荘の警備は輪をかけて厳重で、今までカテナ様をどうにかすることなんて不可能だったんだから。 ……だから、セディラムがカテナ様を浚う計画を持ちかけてきてくれて、私、涙が出るほど嬉しかったよ。狂言って聞いてたけど、そのままカテナ様を連れ去ってしまおうって思ってた。……あんたは、そのついで。私の噂を耳にしていた宰宮が、引き合わせてくれるっていうから……」
「そうだったんですか」
知らないということは怖いことだ。
そうと知っていれば、サリファはライに力を貸せたかもしれない。
もしくは、エレントルーデを説得することも出来ただたろう。
「別にあんたにどうこうして貰おうなんて思ってないよ。もし、私に何かあった時にはカテナ様を託しておきたいとは思ってたけど」
「……私としては、貴方の身に何もないように、どうにかしたいんですけどね」
「ああ、そういえば、昨日は厳重な見張りつきで監禁されてたけど、今日は風呂まで入れてもらって。服も新品だった。これは全部あんたの差し金ってことか?」
「海水に浸かると肌がべたべたして気持ち悪いと思ったので、私が殿下に提案したんです。着替えの事はすっかり失念していたので、貴方があらかじめ用意していたものを使って頂いていますが」
「じゃあ、こうして、馬車であんたと二人きりっていうのも、あんたの提案なのか?」
「それは私の提案ですが、許可されたのは宰宮殿下です。相変わらず、よく分からない人ですけどね」
「宰宮の仕業か。まあ、いいけどさ。だけど、拘束解いた私の前で、爆睡しろとまでは、さすがに命令されてないだろう?」
「爆睡はしていませんよ。寝入りばなにでも起こしてくだされば、多分起きたはずです」
「……多分ってな。いいのかよ。そんなんで」
語尾に力を込めて言い放つと、ライはやはりサリファと目を合わさず視線を逸らす。
不機嫌な横顔は愛らしかったが、しかし、カテナとは何もかも、一切、似てなかった。
「サリファ。つまり、私は捕虜としてルティカ城に向かっているということなのか?」
「今のところそのようです。随分と高待遇な捕虜ですけどね」
「茶化してんのか?」
「いえ」
「二人きりだな」
「……そうですね」
変だった。
状況としては芳しくないのに、ライの口ぶりが子供のようにはしゃいでいる。
「変なことするなよ」
「……だから、私に幼女趣味はないと……。あっ」
そうだ。この台詞だった。
先日、ライの琴線に触れたのは……。
殴られるかと思ったが、しかし今回のライは予想外に柔らかく微笑した。
「まあ、今日は許してやる」
意味が分からないが、彼女は上機嫌らしい。
何だ。……こんな顔で笑えるのか。
セディラムは子供と馬鹿にしていたが、やはりライは女性なのだ。
「貴方。……あんな荒くれ連中と一緒にいて、大丈夫だったんでしょうかね?」
だから、つい、本音が漏れた。
「何が?」
「いや、心とか体とか……?」
「つまり、私の貞操のことか?」
「……いえ、そのくらいで結構です」
素直に答えられると、困惑してしまう。
「アルガス王の孫がそんな目に遭っていたら、大変だもんな」
「私はそんな理由で心配したわけではありませんよ。それに、貴方はアルガス国王の孫ではないでしょう?」
「私は、カテナ妃の娘だ。自然、アルガス国王の孫ということになるだろう?」
「だから、貴方がカテナ様の娘ではないということです。貴方はカテナ様を気遣って下さっていますが、カテナ妃の子でも、ティファレト国王の子でもない」
サリファがきっぱり断言すると、ライはごくりと息をのんだ。
「なぜ、そう言い切れるんだ?」
「貴方の顔は、ティファレト国王にもカテナ様にも似ていないですから」
「ティファレト国王は、顔を隠していらっしゃった。知らないのか?」
「実は私、王の顔を見たことがあるんですよ」
「はあっ! 嘘。私だって見たことがなかったのに」
「…………なるほど。貴方は娘なのに、国王の顔すら見たことがなかったんですか?」
「……いや、その」
ライは結構単純に、うろたえた。
「で、でもな。世の中には似てない親子だっているだろ?」
「私は貴方と絶対に何処かで会っているんです。でも、思い出せないんです。貴方がカテナ様の子だとしたら、いくらなんでも会ったことを忘れるようなことはないでしょう」
サリファは腕を組み、あらん限りの記憶を発掘したが、やはりライのことは思い出せなかった。
「あのさ、サリファ。それはつまり、私があんたにとって、どうでもいい人間だから思い出せないってことだよな?」
「……あ」
確かに。そういう捉え方も出来るかもしれない。
「ははっ。よく分かったよ。私は、あんたが最も思い出したくない人間だってことが」
「最もでもないとは思いますが……?」
「同じようなもんだ。いいよ。丁度いい。じゃあ、私が誰なのか、教えてやろうか?」
「是非、お願いします」
「……初めまして。娘のライです。お父様」
「お父……? 私がですか?」
「もし、私がティファレトに置き去りにされたあんたの娘だとしたら、あんたどうする?」
「………私の娘。貴方がですか?」
「ああ。そうだ? 面白いだろう?」
「面白い……ですか」
ライは目を眇めて微笑している。
サリファの出方を、心の底から面白がっているようだった。