②
艶やかな黒髪がランプの明かりにほのかに染まっていた。
侍女五人がかりで、髪をかわかし、着替えをさせて、やっと一段落ついたところだ。
カテナは壊れた人形のように生気がなく、動かない。
かつて血色の良かった顔色は生気が抜けたように蒼白となり、桃色だった唇は紫色になっていた。
少し痩せたかもしれない。
それでも、彼女はあくまでサリファの記憶の中にいるカテナそのものであり、少女のあどけなさを残したままだった。
つまり、老けていないのだ。
サリファの時間の流れが彼女の倍早いようにも思える。
無機質な青色の瞳は、ガラス玉のようで何物も映していないようだった。
本当に生きているのかさえ、分からない。
サリファが一歩近づくと、半開きの目が微かに反応して、また目を閉じる。
一応、起きてはいるらしいが、サリファのことなど、どうでも良いようだった。
「……カテナ様」
返事はない。
侍女が濡れ髪を拭きながら梳かしていくのが、唯一の室内に響く「音」だった。
サリファは侍女の存在を気にしながらも呼ばずにはいられなかった。
「母……上……」
カテナは驚いたように目を開いたが、小さく首を傾げるだけだった。
「……誰、貴方?」
夢の中を歩いているようなぼんやりとした口調。ティファレト語を喋っているのは、アルガス語を忘れてしまったからなのか……?
「おおっ。これはカテナ様。貴方が海に落ちた時はひやひやしたものですが、お召し替えをされてさっぱりしましたね。鮮やかな緑のドレス。やはり華やかな色が貴方には似合う」
歯の浮いた台詞を、すらすらと言いながら室内に入ってきたのは、エレントルーデだった。
唖然としているサリファを押しのけて、大仰にカテナの手の甲に口づけを落とす。
カテナが着替えていたことは、サリファとて気づいていた。
アルガス様式の胸元の開いたドレス姿を見るのは、幼少の頃以来だ。
「――貴方は?」
「エレントルーデですよ。貴方とはもう三年の付き合いになる」
「そうだったかしら? 私、最近どうもぼんやりしてて覚えられないの。そこの人は誰?」
カテナはサリファを凝視していた。
エレントルーデの肩越しに見える母は、故意にとぼけているようにも見えなかった。
「ああ、彼は僕の友人のサリファ。貴方とも馴染み深い人間のようですけどね」
気の利いた皮肉のようだ。カテナはサリファの名を聞いても、ぴんと来ないようだった。
「黒髪、貴方、私とお揃いの髪色ね」
貴方の息子なんだから、当然だろうと、言いたいところ我慢して、サリファはエレントルーデの首根っこを掴んで、こちらに向けた。
「殿下。手荒な真似をしてしまい、申し訳ありません」
「やってから、謝られてもね」
「……で、どういうことなんでしょうか。速やかに話して下さい」
「どうって見ての通りだよ」
エレントルーデは視線だけカテナに向けた。
「彼女は何も覚えてないよ。彼女が本当にカテナ妃なのか心配になったくらいさ」
「それが三年もの間、この人を私から隠して、今更明らかにした理由に繋がるのですか?」
「三年、よく覚えていたね。確かに、僕はカテナ様を保護してすぐ君に話してたかな? 口が滑ったんだよな。君が大人の女性に興味を持たない人間で良かった」
「殿下。とぼけないでください」
「カテナ妃は、本来なら四十五、六歳のはずでしょう。なのに、この人はどう見ても二十代、いや三十代前半。年を取っても若々しい人はいるけど、この若さは異常なくらいだよね。……まるで、年を取っていないようだ」
「まったく、その通りですよね。貴方は人体実験でも繰り返していたのですか?」
「馬鹿、言わないでよ」
エレントルーデは珍しく力を込めて否定した。――と、その時だった。
「ごほっごほっ、ごほっ……」
カテナが激しく肩を震わせて、咳き込んだ。
尋常な咳の仕方ではない。喉の奥から絞り出しているような感じだ。
「念のために言っておくけど、彼女は水に濡れて風邪をひいたわけじゃない」
「殿下……」
「君になら、分かるでしょ。サリファ?」
何を言いたいのかが、サリファには分かっていた。
――彼女は持病を抱えているのだ。
咳き込むカテナは、本当に苦しそうだった。
せめて、背中を擦ってあげれば、楽になるのでは?
サリファは思って、手を伸ばしかけたが、それと同時に年老いた侍女が慣れた手つきで、てきぱきとカテナの肩にショールをかけ、水差しの水を口に含ませた。
サリファの手は、宙を切るだけで終わった。
「お疲れでしょう。横になって。今夜は色々ありましたし、休みましょう」
エレントルーデが子供をあやすような甘ったるい声で語しかける。吐き気がした。
「……で、でも、あの人がまだ来てないの」
「貴方の愛しい方は、遅れて来るそうですよ。だから少し休んで待っていましょう」
エレントルーデがカテナの肩に手を添え、彼女は部屋の大きな寝台に横になった。
眠っているというより気絶したという方が正しいのかもしれない。
侍女がそっと毛布をかけて、額の汗を拭った。サリファは顔面蒼白のまま、じっと直立しているしかできない。
「……多分、朝まで起きないと思うけど、見守ってる?」
「いえ」
呆然と佇むことしかできないのなら、意味などない。
サリファは顔をそむけて、エレントルーデに部屋を出るように目で促した。