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「まーた。サリファは、そんな難しい本を読んでいるの?」
頬をおもいっきり膨らませて、子供のように不機嫌な感情を露わにしているのは、母カテナだ。
幼い頃から母と呼ぶことは禁止されていたし、母と呼べない状況にあることも理解していたが、サリファにとってはたった一人の母だ。
だから、熱中して読書をしている時にいきなり本を取り上げられてしまったとしても、仕方ないのだと、サリファは笑顔で割り切ることができた。
「カテナ様こそ、今日も不機嫌みたいですね」
「不機嫌も不機嫌よ。恐ろしい仮面男が付きまとってくるのよ。今日も夢で見そうだわ」
「王のことをそんなふうに言うと、カテナ様のお立場が悪くなりますよ」
ティファレト国王は、幼い時の病気がもとで顔半分が爛れてしまっているらしい。
本来なら、国王になれるはずもなかったのに、他に継嗣がいないために王座に就くことが出来たのだと、サリファは噂で聞いていた。
「別にいいのよ。この際だから国王に言ってやったわ。サリファは私の子ですって!」
「はあっ!? 何を言っちゃったんですか」
「事実なんだから仕方ないじゃない?」
サリファは周囲を確認してから、額を押さえた。
ここは王の庭園だ。
――しかし、王の所有物の割に、大きな樹木が適度に手入れされているだけで、ほとんど自然の状態に近い。
木々の葉が視界を遮っているが、おそらく誰にも聞かれていないだろう。
もっとも、親子の会話はアルガス語なので、そうそう分かる人間もいないかもしれない。
本当、いつもこのとんでもない母親には振り回される。
「それで王は?」
「笑ってたわよ。私が嘘ついているとでも思ってるんでしょ? 貴方のことは、私の遠い親戚の子だと信じきってるんだわ」
「……そうですか」
国王がカテナの言葉を信じるか、信じないかは、サリファには分からない。
だが、もしもカテナの身に危険が迫るようなら、自分が手を下すまでだ。
サリファはカテナの隙を伺って、彼女の手中の本を取り返した。
「ねえ? その本の何処が面白いの?」
カテナは眉を顰めて、気の毒そうにサリファを見上げている。息子の先行きを案じる気持ちが多少はあるのかもしれない。
「面白いですよ。最近は王宮図書の禁書まで読めるよう王が手配してくれたので、毎日がとても楽しいです」
「禁書?」
「王宮の限られた人間にしか読めない本です。薬草学を学んで、王の顔を治してさしあげたいと言ったら、ティファレト王は涙ながらに許可してくれました」
「相変わらず、酷い子ね。でも、そこまで薬草が好きなの。要するに園芸のことでしょ?」
園芸とはだいぶ違うのだが……。
しかし、薬草と毒薬は、表裏一体だ。
サリファが薬草学を学びたい本当の理由はこれだった。
ティファレトの植物はアルガスの数倍も大きくて、薬にもなるが毒にもなる。 非力な自分がティファレト、アルガス両国の王に立ち向かうには、知識しかないと思い込んでいた。
「そんなに好きなら、園芸好きの可愛い侍女とお話しでもしたら、どう? シャーリー!」
「カテナ様!?」
カテナが離れて待機させていた侍女を手招きして呼びつけている。
ティファレト国王がカテナの専属につけた侍女だ。
先程の会話を聞いていたわけではなさそうだが、侍女は顔を真っ赤にして、はにかみながら畏まっている。何だか嫌な予感がした。
「カテナ様。残念ながら、私は植物に興味があっても、女性に興味があるわけではなくて」
「はあっ!? 信じられない。こんな機会きっと二度とないわよ。貴方のことを良いって言ってくれる子なんて奇跡的なんだから。私があんたの年の頃にはもうあんたを身籠っていたのよ」
「それは、言われずとも分かっていますけど」
サリファはカテナが十六歳の時に生まれた子供だ。
この子供のような母が本当に自分を生むことが出来たのか、信じたくないのはサリファの方なのだが……。
「別に結婚前提じゃなくてもていいのよ」
「カテナ様、その前提がないと、とてつもなく苦労するのは、よく分かっていますよね?」
「何言ってんのよ。違う。そういう意味じゃなくて。私が言ってるのは友達のことよ」
「はっ?」
「貴方見てると暗くて、陰気で内向きで、またそのもさっとした黒髪から一層悲壮感が漂っていて、何とも不憫で……」
「では、陰気で内向きで悲壮感漂う私に友達がいる方が怖いですよね?」
「せっかく新天地に来たのよ。五年も勉強して言葉も完璧に覚えたんだし、自分を変える良い機会じゃない。たとえば、ほら、剣を振り回して夕日を見ながら友情を確かめたりするような」
「何ですか。それ?」
さっぱり意味が分からない。
「私は、剣が苦手です」
「苦手でもいいのよ。殺ることが大切だと聞いたわ」
「自分の大切な何かもなくしますけどね」
「私は貴方がにやにやしながら土いじりするのかと思うと辛くて悲しいのよ」
「別に、私はにやにやしながら土はいじりません……」
「じゃあ、ちゃんと女の子が好きなのね?」
「はあ?」
どうして、そうなるのだろう?
侍女を遠ざけ、薬草の研究をしているだけで、そういう趣味に見えてしまうらしい。
「実は貴方と同じくらいの年でバリバリに剣術やっている子がいるのよ。一度会って男らしさに目覚めたらいいんじゃないかと……」
「勘弁して下さい。余計なお世話です」
一蹴して、その場を離れた気でいたのに、サリファを追い抜いたのはカテナだった。
「ああっ、サリファ! 来た、来た、来た! 仮面男! ひとまず私、逃げるから!」
きっと……。
カテナはティファレト国王から逃げている最中で、たまたま本を読んでいたサリファを発見したのだろう。
カテナがはしたなくドレスをたくしあげて去っていく様に、サリファはくすりと笑った。
もちろん後ろからやってくる国王には、カテナがここにいたことを隠すつもりでいた。
――ティファレト国王。
嫌われているのに自覚がないなんて、かわいそうに……。
ティファレト王はサリファにとって、その程度の存在だった。
十五歳のサリファは、自分で思っている以上にまだ子供だった。
そう……。幼くて、悲しいほどに無垢で単純で浅はかだった。
その時、カテナの気持ちに生じていた微妙な変化になど、サリファは気づきもしなかったのだ。