③
「…………ライ様。そろそろ行かなければ」
「セディラム。船の準備を。目的は果たした。速やかに撤退するよ!」
「ちぇっ。何か戦利品の一つでもないのか?」
「目的はあくまでカテナ妃だ。もたつくなよ。宰宮の優秀な部下に首を持ってかれちまう」
エレントルーデのことは、心底どうでもいいらしい。
……おかしい。とっくに、エレントルーデであれば気づいているはずだ。
―――彼らはカテナに殺意を抱いていない。
むしろ護ろうとしているのだ。ならば、人質になんてならない。
エレントルーデがその気になれば、すぐにでも捕えることが出来るのに、どうしてそうしないのか?
「つまんねえの」
言いながらも、セディラムは背後の配下に視線で指示を送っている。
荒くれ連中は意外にも大人しく、甲板から横付けされている船に向かって、飛んでいった。嵐の夜に、よくぞこここまで危険な真似が出来るものだ。
ライはエレントルーデを引っ張りながら、サリファの目前にずんずんと進んでくる。
「ライ。これは一体……?」
「見て分かんないのか? あんたは三年もの間、宰宮に騙されてたってことだよ。馬鹿」
「…………ですよね」
今日はいろんな局面で、自分の不甲斐なさを思い知らされていたが、ライの「馬鹿」の一言が極めつけだった。
どうして、サリファは気づけなかったのだろうか。
エレントルーデが話す女性の話にまったく興味を抱けなかった。
もう少し突っ込んで聞いていれば、こんな形でカテナと再会することもなかっただろうに……。
「じゃあ、愚かな私に一つだけ教えて下さい。その御方をどうするつもりなんですか?」
「どうしようが私たちの勝手だろう? あんたはそのまま宰宮に飼われていればいい」
ライは言い捨てて、そのままレイラと共に、サリファの前を通過していく。
「ちょっ……、ちょっと待って下さい」
このまま何もせずに、彼女たちを見逃すわけにはいかなかった。
「じゃあ、カテナ妃の代わりに宰宮を持っていけば良いじゃないですか? カテナ妃より遥かに役に立つと思いますけど?」
「あのねえ。サリファ?」
エレントルーデがひきつった笑みを浮かべていたが、どうだって良かった。
「嫌だよ。そんな物騒な人、持っていけるか」
「ライ! 海がヤバい。急げ!」
セディラムが次々と逃げていく仲間を見送りながら叫んだ。
雨が降ってきた。少しずつ霧は晴れ、視界は良くなりつつあるが、風が強まっていた。
「ああ、分かって……」
……と。話しているそばから、強風が吹きこみ、ライは後ろに派手に尻餅をついた。
「―――っう」
強かに臀部を打って、態勢が崩れたライを、さすがにエレントルーデも見逃さない。
「可愛い転び方だなあ」
エレントルーデは流麗な動きで、ライの背後に回ると、その手を後ろに軽く引っ張った。
「放せ!」
「そりゃあ、こっちの台詞だよ。結構痛かったんだからさ。もう少し上手くやってよね」
ライの持っていた剣を奪い取ったエレントルーデは形勢逆転。
ライを羽交い絞めにした。
「とりあえず、一回くらい僕も反撃をしておかないと……」
「うわあ、最悪。何で手間取らせるかなあ?」
セディラムが呆れた声をあげた。
「ライ様!」
レイラが血相を変えて、カテナを抱えたままライに近寄ろうとする。――が。
「来るな!」
ライが一喝した。
「カテナ様を安全なところへ……」
「しかし……」
「それって、まるでカテナ妃にとって僕が安全じゃないって感じじゃない。サリファ?」
「殿下は私に何を言わせたいのですか?」
「レイラさん! 早く!」
レイラはライの有無をも言わさない勢いに無言で深くうなずくと、小脇に抱えていたカテナを丁重にセディラムに渡し、躊躇なく海に飛び込んだ。
セディラムはカテナを肩に抱えると、顔色一つ変えずにひょいと柵を越える。
「ま、待ちなさいっ!」
慌てて走り出したサリファを嘲笑うように、セディラムはカテナの羽織っていたケープを風の中に放り捨てた。
「じゃあな」
明るい声とは裏腹の暗い海底に落ちて行く。
「待っ…………!」
手摺から乗り出し、湿気たっぷりの強風に暴れる前髪を押さえながら、サリファは三人が吸い込まれていった黒い水面を覗き込んだ。
闇と霧に覆われた海を煌々と照らしている小型船の灯は、激しい時化の中で頼りなく揺れていた。
こんな所から飛び降りて、三人は無事に逃走用の船に乗れたのか?
さすがに海原は荒れ、暗くて分からない。
しかし、三人の生存は意外な形で知ることとなった。
――悲鳴だった。
「きゃあああっ!」
傍らの兵士の持っている明かりを奪って、サリファが海を見下ろすと、荒れ狂う波に揉まれながら、筏のような小さな船に、セディラムとレイラ、カテナが乗っていた。
「おい。暴れんなよ。くそっ」
セディラムが目覚めたカテナを持て余しているらしい。目覚めたら、見知らぬ船の上。しかも波は大荒れだ。叫びたくもなるはずだ。
「聞こえますか、セディラム! 貴方たちは無謀なことをしているんですよ!」
「サリファ。お前の説得方法は定型すぎるぞ」
「……あの。セディラム」
レイラが冷静に言った。
「一つ提案なんですが、ここは予定変更したらどうですか。殿下と交渉してみるとか?」
「そうです。彼女の言う通りです。甲板に戻って下さい。殿下が交渉に応じますから」
「ええっ? 僕が? そうなの?」
早口で喋ったつもりだったが、今回もエレントルーデにはティファレト語が分かっていたらしい。
舌打ちしたサリファは、エレントルーデを睨むことで黙らせた。
「セディラム。こんな荒れた海を航行できるはずがないでしょう。貴方なら分かるはずだ。命があるうちに、こちらの船に来て下さい」
「……ったく、サリファは小姑のようだな」
何か悪口を言われたような気がするが?
声が聞き取りにくいのは、彼がカテナを押さえつけているせいだろう。
「……俺はさあ、いい加減頭に来てるんだぜ。ここまで準備するのに、どれだけ苦労してきたことか。……なのに、みんな言いたい放題。足並み揃わず、計画がめちゃくちゃ。俺はな、元々アルガス人と、子供は大っ嫌いなんだ」
「子供だと?」
どうして、そこでライが絡んでくるのか。
「大体な、話が違うじゃないか。ライ。カテナ様は、話の分かる人じゃなかったのかよ?」
「それは……」
確かに……。
それは、サリファも気にしていたことだ。見た目は正真正銘カテナだった。
しかし、カテナはサリファに気づいてない。
十年の月日で、容姿はだいぶ変わっているかもしれないが、カテナがサリファを忘れてしまうなんて、絶対に考えられなかった。
「貴方、誰!? 私に触らないで。放して!」
「いてぇ!」
どうやらセディラムの腕に、カテナは噛みついたらしい。
そのうちに、一際強い風が頬を殴るように吹き抜けた。
「…………うわっ」
その場にいた全員が、ほぼ同時に体に力を入れて呻いた。
気を抜いたら、そのまま飛ばされてしまいかねない強風だ。
しかも運悪く、どしゃぶりの雨まで降り始めている。
だから、サリファは、びしゃんと大きな水音が響いても、雨によるものだと信じていた。
……しかし。
「おい、嘘だろ?」
セディラムの呟きに、サリファは青ざめた。
「落ちた……?」
まさか、カテナが海な落ちたのか……?
この地獄のような海に?
「明かりを! もっと!!」
刹那にエレントルーデがサリファのもとに駆けながら、兵達に命じた。
ほとんど無意識に、体を動かしたサリファは、そのまま柵を越えようとする。
――が、刹那、その手に柔らかく温かいものが触れて、我に返った。
ライだった。
「何やってんだよ」
「……えっ?」
「あんたじゃ無理だろう」
いつの間にか、傍らにライがいたらしい。
温かな感触の正体は、彼女の掌だった。
「――ライ?」
「私が助ける。待ってろ」
そう断言し、柵の上にふわっと上ったライは飛び込む寸前、更に驚愕することを叫んだ。
「――母上っ!!」
「はあっっ!?」
サリファは唖然としながら、ライが消えた海中を目で追った。
今までいたはずのライの位置には当然のようにエレントルーデがいる。
「今、彼女は何て言いましたか?」
「耳が遠くなったのかい? 耄碌するにはまだ早いような気もするけど?」
「どういうことでしょう? 宰宮殿下」
「ええっと。そうだね。彼女の年齢は十五、六歳くらい? まあ、辻褄が合わないわけじゃないよね。ティファレト国王とカテナ妃の子供として? どう? あの子、ティファレト王に似てる?」
「……つまり。殿下はご存じだったのですね。だから、彼女を先導師に取り立てて、私に引き合わせた? 随分と手の込んだ茶番劇じゃないですか。観客は私一人で良いんですか?」
「酷いな。茶番で、カテナ様を海に落としやしないよ。ともかく、今はカテナ様優先だ」
「白々しいことを」
「あっ、ねえねえサリファ!」
エレントルーデが神経を逆撫でするように、サリファの袖を親しげに引いた。
「あそこに浮いているのは何?」
「えっ?」
「あそこに、明かりを当てて!」
エレントルーデが指で示すと、配下達が一斉に燭台の明かりを海に向けた。
二人の姿は、見つかる気配もなかった。既に死体となって浮かび上がっても、不思議ではない時間となっている。痺れを切らしたサリファも大声で叫んだ。
「カテナ様! ライ!」
この展開は何なんだろう。
この十五年間、自分は特に波風もなく平穏に暮らしていたつもりだった。
それが、いけなかったのだろうか。
カテナのことも、今現在のことも、考えが足りなかった。
……やはり、サリファが飛び込むべきだったのだ。
水は苦手だったが、自分より年下の少女を海の中に送るなんて、最低だった。
今からでも、遅くない。飛び込もうか?
――――――と。
「はっ……くしゅん」
肩まで水面に浸かっている少女の姿が、薄明かりの中に照らし出された。
「ライ?」
間違いない。ライのようだ。
「ねえっ。カテナ妃はどうしたの!?」
エレントルーデの問いに、ライは気絶している女性を重そうに掲げて見せた。
微かに笑っているのが分かった。
きっと無事なのだろう。
「良かったね」
「……殿下。貴方という人は……」
渦巻く感情を瞳にこめて、エレントルーデを睨みつけるが、まったく効果がない。
むしろサリファが感情を見せれば見せるほど、この男は嬉しそうだ。
「……それで、サリファ。初めて会った妹はどんな感じかな?」