③
動転している侍女を宥めて、サリファはカテナの部屋に通してもらった。
ライはカテナの寝台の隅に頭を乗っけて寄り添うようにして眠っていた。
今は、魘されていないようだ。
あどけない寝顔は、いつもの力みもなく穏やかだった。
同じく眠っているカテナの細い指を握りしめている様は、実の息子のサリファよりよほど親子のようだった。
眠っていると口を開かない分、一層あどけなく見える。
……起こしたくなかった。
しかし、緊急事態にも関わらず、ただじっと寝姿を眺めているだけというのは、エレントルーデより、遥かにサリファが変態だということだ。
「……情けない」
年を重ねれば、大抵の感情は薄くなっていくものだと思っていたのだが。
サリファはライからは反対側の窓際の椅子にちょこんと腰をかけた。
しんと静まり返っている室内に比べて、外界が騒々しい。
窓の外を見ると、橙色の松明の灯が城の周囲を取り囲んでいた。エレントルーデと、アルガス王が到着したのかもしれない。
もし、そうだとしたら、益々時間の問題となってくる。
勢いだけでここまでやってしまった賊のセディラムが、戦いのために鍛錬を重ねているアルガス軍に敵うはずなど万に一つもない。
このままおとなしく見ているしかないのか。
エレントルーデには大きな借りを作ることになるが、サリファが彼の言いなりになると誓えば、或いは、どうにかなるかもしれない。
「うっ」
その時、サリファの考えを吹き飛ばすように、ライが悩ましげに身じろぎをした。
やはり寒いのかと、ライに返却されたばかりの外套を脱いで、彼女の華奢な肩にそっとかけてやると、しかし、ライは寝ぼけ眼で、むくっと起き上がった。
「なっ、何だ?」
「すいません。起こしてしまいましたか」
「えっ。あっ。サリファ? 何で、あんたがここにいるんだよ!?」
「しーーっ」
サリファが静かにするように、カテナに視線を向けると、ライは赤面して何度
もうなずいた。
カテナの手をそっと放して、静かに椅子から立ち上がったライは、部屋の隅にサリファと共に移動する。
「しっかし。びっくりしたなあ。起こしてくれれば良かったじゃないか」
「あんなに深く寝ていたら、起こせませんよ。いっそのこと、眠っている貴方とカテナ様を連れて外に出れば良かった」
「こんな状態で外に出たら、それこそ、狙い打ちじゃないか」
サリファに黙っていたことに罪悪感があるのか、ライの藍色の目は泳いでいた。
「すまなかったよ。サリファ。あんたに黙っていたことは、悪いと思ってる、だけど、あんたにバレたら、絶対、止められると思ったから……」
「……貴方は本気で国王なんかに、なれると思っているのですか?」
サリファが凄むと、ライは数歩後退した。
――ほら。
こんにな小娘に、国王なんて無理に決まってる。
偽物の身分に甘んじることだって、罪悪感で潰れてしまうのではないか?
「……思う思わないの問題じゃないんだよ」
「それは、セディラムの台詞ですよね?」
「ち、違う。これは私が言ったことだ」
嘘が下手な子だ。
セディラムの受け売りに違いない。
なのに、意志だけは固いのだ。
「サリファ。私は、この十五年の間、カテナ様と転々としながら、いろんな人を失った。カテナ様と一緒に逃げた侍女たち。ほとんどが死んだよ。何が悪いのかって考えた時、諸悪の根源はアルガスの追手なんかじゃなくて、この国の治安の悪さだってことに気が付いた。女ばかりの隠密旅なんて、物騒極まりないもんな。襲ってくれと言っているようなもんだ」
「それが……」
――一体、どうしたのか?
思わす、冷酷な台詞を投げつけてしまいそうになって、サリファはためらった。
「……サリファ。この国は変わらなきゃならないんだ。でもその資格を持つ人間がいない。だったら、作るしかないと思う」
「それは貴方でなくても、良いでしょう?」
「……だろうな。私じゃなくてもいいんだ。でも、今は私しか適任者がいないらしい」
「貴方は、殺される危険を冒してまで、慈善事業に精を出すつもりですか?」
「慈善でも偽善でも……。私にはもう……これしか分からないんだ」
「――ライ?」
「サリファ。もう決めちゃったんだ。……ずっと、三年の間に考えていたことだから、今更、ひるがえせないよ」
「では、教えて下さい。貴方は解毒剤を作れと、私を急かしていましたね? 最初から、こんなことをするつもりなら、牢に捕らわれる必要もなかった。解毒剤が欲しくったって、焦る必要もなかったはずです」
「それは、何となく……」
「……違う。本当は貴方だって、心の底では、こんなことしたくなかったんでしょう? デニズを捕えられれば、それで良かったはずです。解毒剤がもしも完成してたら、貴方は、私の助言通り、ここを出ようと考えていたのではないですか?」
「悪かったな。あんたを惑わせたのは私だ。変なことを頼んで申し訳なかった」
「しかし、……解毒剤は本当にあと一歩で完成するんです。だから、貴方だって、普通の女性の人生を歩めるはずなんですよ」
「ごめん……。普通の女性って、どんな人生なのか、本当はもう想像なんてつかなくなっていたんだ」
「ライ!」
「サリファ。あんたは間違ってる。私を買い被らないでくれ。セディラムが一人で計画したんじゃはない。私が言い出したことでもあるんだ。……私は……もう小娘って年齢でもない。あんたは私の何も知っちゃいないんだよ!」
言い放ってから、ライはすぐさま我にかえったようだ。
サリファが呆然としているうちに、頭を下げられていた。
「すまない。サリファ」
「えっ。いえ、いいんです。私も言いすぎましたから」
つい、感情が先走ってしまった。
いつも難題をぶつけてくるエレントルーデならともかく、女性に詰め寄ってしまったのは、サリファにとって初めてのことだった。
まったく、大人げないと、落ち込んでいると、平生に戻ったライは、呆然としているサリファを窓辺に連れだした。
「なあ。サリファ。眼下の客について、あんたの見解を教えてくれないか?」
「はっ?」
唐突な質問に、サリファも目を瞬かせた。
「あの……ライ。いきなり、話を逸らすのはやめて下さい。貴方が降参するつもりなら、いくらでも話しますが?」
「降参はない。……けど、あんたの口から聞きたいんだ。頼むから教えてくれないか」
質問の真意は分からないが、そう言われると、サリファは弱い。渋々口を開いた。
「……窓越しに視認できる範囲ですが、おそらく、千に近い兵が城を取り囲んでいますね」
「じゃあ、ここにいる奴らよりも相当多いってことだな」
「五~六倍といったところでしょうか」
「じゃあ、ナダルサアル殿下を、あちらさんに返したら許してくれるのかな?」
「無理でしょう」
「…………だよな」
「かなり事態は深刻です。幸い、ルティカ城の背後は崖に面しているので、後ろから襲撃される心配はありませんが、それでも、一日も経たないうちに、制圧されるでしょうね」
「……ふーん。やはり違うな。籠城の達人の言うことは」
「達人って、私がですか?」
それは、かなり嫌味な称号だ。
「十五年前、ティファレト国王とカテナ様を逃がしたあんたは、籠城戦の指揮を執った。城は七日で落ちたが、逆に言えば、七日間も持ちこたえたともいえる。覚えてないのか?」
「さあ、どうでしたかね。あの時は必死だったんで、あまり記憶にないんですよ」
「あの時……。主である国王もいない城だ。残った人間は百人程度? ほとんどが非戦闘員と怪我人。それでもあんたは……たった十五歳の若さでやれたんじゃないか?」
ライは微苦笑を浮かべた。
「何が足りない?」
「足りるも足りないも、籠城というのは確実に救援が来るという確信がなければ、単なる自殺行為です。十五年前の場合は、いずれ降伏するつもりでした。ただ確実に王とカテナ様が逃げきれるだろう七日間の猶予が欲しかっただけです」
「私も七日くらい猶予が欲しいな。そのために必要なものは?」
「…………すべて足りませんよ」
「ディアン=サリファ。私はとっくにそんなことを分かってて、あんたに訊いてるんだ?」
ライの冷たい声に、ぞくりと背筋が寒くなった。
彼女の言うとおり、ライは見た目通りの小娘ではない。事実上の年齢は、サリファに近いのだ。
サリファの都合で説得できるような人間でもなければ、言いなりになるほど人生経験がないわけでもない。
サリファは深呼吸をしてから、私情を捨てて、切り出した。
「こんなこと話しても参考にはならないと思いますが、十五年前、私はルティカ城が最後の戦場になることを予想していました。王に親しい衛兵の人々に協力してもらい、城の周囲に土嚢を築き、そこに罠を仕掛けました。ただ土嚢を作るだけで、梯子をかけにくくなりますから」
「へえ……。土嚢ねえ。人が落ちる程度に作っておけば良いのかな」
「他にも色々とやりましたよ。今回は明らかに準備不足。行き当たりばったりだと思います。セディラムの性格がそうなのでしょうが、それに貴方も乗る必要はありません。死ぬ準備のために、七日も時間を作るつもりなら、今すぐに城を開放するべきです。犠牲者も少なくて済む」
「だから、こんなことをしても無駄だって?」
ライは頑なに顔を横に振った。
「降伏って何だよ? あんたが十五年前のように、自分の先の人生を犠牲にして、私を助けるというのか? もう勘弁してくれよな」
――その結果がこれだろう?
ライはそう言いたげな顔をしていた。
しかし、それがてっとり早い手ではあるのだ。
「セディラムが来た。私にとっちゃ、セディラムが城に辿り着けるかどうかも、一つの賭けだったけど……。今のところ、上手くいっている。風がこちらに吹いてるってことだ。それなら、流されるままに行くしかないよ」
「行くって……?」
「……駄目よっ!!」
「えっ?」
一体誰だと、無意識に振り返ると目覚めたカテナが寝台から起き上がろうとしていた。
「カテナ様?」
目を丸くしているだけのサリファを押しのけて、ライがカテナに駆け寄った。
「いけません。カテナ様。安静にしなければ」
「駄目よ。行っちゃ駄目!」
カテナは肩で息をしながら、ライの腕を強く掴んだ。
「母上……?」
再会してから、見なかったカテナの反応だった。
こんなに必死になる母を、サリファは知らない。
ライが掴んでいたカテナの腕を、そっと放した代わりに、か細い手を握りしめた。
「カテナ様。申し訳ありません。私は恐れ多いことに貴方の娘を騙っておりました。この三年間、その嘘だけが私を救い、ここまで導いてくれました。本当はここで真実を告げるべきなのでしょう。だけど、私はこれからも偽り続けなければ……。でも、誓って私利私欲のためではありません。信じて下さい」
「ライ……?」
今までのぶっきらぼうな言葉遣いではなかった。
しかし、そういえば以前の彼女はこういう話し方だった。
生きるために、彼女も変わったのだろう。
カテナは、うつむいて突然涙を流し始めた。
「……私、逃げたの。すべてを捨てて。本当は城に残り、夫と共に最期まで戦うべきだった。私が自分の幸せを追ってしまったから。皆不幸になってしまった。貴方も、貴方も」
カテナがサリファとライを見比べて、頭を下げる。
……どうしたのだろう?
今夜はカテナがまともすぎる。かえって恐ろしかった。
「貴方が、私のできなかったことの後始末をする必要なんてないのよ」
ライがカテナの手を両手できつく握った。
「後始末なんて。こうやって、カテナ様と話すことが出来て、本当に嬉しいです」
そんなふうに、素直に涙するライが儚げで、サリファは、口を挟まずにいられなかった。
「ライ。解毒剤は近いうちに出来るんですよ。これ以上、何をしようというんです?」
「私が牢に入ってたのは、解毒剤を期待してのことじゃないんだよ。サリファ。ここにいて時期が来たら、自分で出る気でいたからだ。セディラムが来なくても、私は一人でデニズにもナダルサアルにも、喧嘩を売ってたかもしれない」
「えっ?」
ライは、自嘲を含んだ笑みを浮かべていた。
「なぜ、気づかない? ティファレトに王族が大勢いたら、お体の弱いユージス様が即位することもなく、私が立候補する隙なんてなかった。あんたが読んだ禁書。あれは薬草の教本ではないんだ。王族にとって通過儀礼の際に用いられる薬の説明書だよ」
「何ですって……?」
話についていけない。
しかし、彼女の言葉を咀嚼していくと、幾つもの点が一本の線に繋がっていった。
――王は神の化身と呼ばれていたこと。
――ティファレト王の顔の傷。
――王城近くの聖なる森ルーン。
――ルーンの森で誕生した大地母神レア。
――時代が下るに従って、王のもとにアルガスの皇族が嫁いできたこと。
――神話を信じ、まとまらないティファレト国民。
「…………つまり、光草の毒薬は、元々ティファレト国王が儀式の際に飲む物?」
「神が与える試練と考えるらしい。神と同化するため次代の王は光草の毒薬を口に含む。私もつい最近、昔のティファレト王の言葉や、神話に詳しい人間に会って、自分で答えに辿り着いたんだよ」
……だとすれば、王族の人数が著しく少なく、十五年前にとうとう断絶してしまったのは、儀式を繰り返し行ったから?
ライはカテナに深々と一礼すると、別人のような速さで踵を返して部屋を出て行った。
引き留める隙もなかった。
「……だ、駄目よ。絶対に駄目っ!」
カテナは立ち上がろうとして、ぐらりと態勢を崩す。
「お願いよ。あの子を止めて!」
サリファがすかさず支えると、その腕を強く掴んでカテナは何度も繰り返し、怒鳴った。