④
高窓を仰ぐライの全身を月明かりが照らしていた。
その姿を瞳に焼き付けながら、サリファは、先程のエレントルーデとのやりとりで、乱れてしまった心が和らいでいくことを実感していた。
ライは毎夜、月を気にしているようだ。
サリファは一度、満月になるのは何日後かと尋ねられたことがある。
彼女が期待している満月は多分、明日だろう。
まるで、見えない何かと対話しているような姿だった。
ティファレトの信仰対象に月があるとは知らなかったが、地母神レアに対する信仰が厚いことは知っていた。
もしかしたら、ライはレアの出現場所であるルーンの森に祈りを捧げているのかもしれない。
紫銀の髪は淡く金色に彩られ、サリファが手渡したひざ掛けは彼女の肩掛けになっていた。
目を閉じ、光の中に佇むライの姿は、近づくのが恐れ多いほど、神秘的だった。
ずっと、見ていたい気持ちになってしまう。
…………いやいや。
それは、駄目だろう。
「そんなに必死で眺めているのは、月が美味しそうに見えるからですか?」
サリファは意を決して、歩を進めた。
「サリファか……」
今までのことが嘘だったかのように、ライは顔を顰めて振り返る。
しかし、膨れ面があどけないので、怖いどころか、サリファの口元が綻んでしまうのは許してほしかった。
「ライ。貴方は、いつも月を気にしていますね?」
「べ、別に」
そっぽを向いてから、ライは小声で呟いた。
「ユージス様が気にしていたからな」
「ユージス。ティファレト王の御名ですね」
その声で、サリファが訝しんでいることを察したのだろう。
ライは自嘲気味に語った。
「尊い御名を呼び捨てなのは、ユージス様が身分を嫌っていたからだ。身寄りのない子供を引き取り、直々に雇い入れて下さった。私もその一人だ。あまり、ティファレト人と接点を持ちたがらなかったあんたは、知らないだろうけど……」
「ええ。まったく、知りませんでした」
素直に認めつつ、サリファは先程から気になっていたもう一つの疑問をライにぶつけた。
「……それで、ティファレト国王はどうして月を気にしていたんですか?」
「気にしてたというか、嫌ってたというか」
「嫌ってた?」
益々、不審に思って身を乗り出したら、ライはあっさり話題を変えた。
「そんなことより、解毒剤はまだなのか?」
乱暴に地面に座りこんだライは、寄越せと言わんばかりに片手を差し出した。
……これが、いつもの流れだった。
「申し訳ありません。今日は宰宮殿下に捕まってしまいまして、時間がなかったのです」
「昨日も、そんなこと言ってなかったか?」
「大丈夫ですよ。もう少しで完成しますから。ともかく、さしあたっての問題は、貴方の格好です。そんな軽装で冷たい床に座り込んだら、お尻が冷えますよ。ライ?」
「何だよ。急に。あんた、本当に私の父親みたいだな?」
「ティファレトの特に王都は、アルガスより寒い地域ですからね」
先ほど、カテナも分厚いガウンを羽織っていたのをサリファは確認している。 サリファが差し入れしたひざ掛けくらいではライの寒さは凌げないだろう。
跪いたサリファは躊躇なく自身の黒い外套を脱いでライにかぶせた。
「後で防寒着を持ってきましょう。とりあえず、貴方は城の外に避難して下さい」
「何だ。またお得意の出て行け攻撃か……」
ライは溜息を零してから、外套を突き返そうとしたが、サリファがそれを許さなかった。
「風邪をひくでしょう」
「風邪も何も、私の体内は毒も寄せ付けないって、あんたが……。いや」
むきになった自分が恥ずかしかったらしい。
ライは真綿のように白い頬を赤く染めた。
「……あ、ありがと。寒かったんだ」
そう小声で言うと、一瞬逡巡してから、サリファの外套を羽織った。
「でも、あんたが冷えてしまう」
「私は部屋に戻れば、替えがありますから」
「でも、私ちゃんとお風呂も入ってないし。あ、でも体は拭かせてもらってるからさ。そんなに臭ったりはしないとは思うけど」
「貴方、本当に……」
……可愛い人だな。
それで、突き返して来たのか。すっかりサリファは清潔好きと思われているらしい。
「気にしませんよ。私も似たようなものです。夢中になることがあると、いろんなことを忘れてしまいますから」
「……なら、いいけど」
ライは、ぎゅっと外套を握りしめる。
強がっているが、きっと怖いのだ。
入り口に一人門番がいるだけで、誰もいない地下牢。
十五年前から新しくなっているので悪臭こそしないが、やはり暗くてじめじめしている。
石造りなので、隙間風も入って来るし、積み重ねられた石の隙間から水摘が垂れていて、たまにきゅうと鳴っているのは、きっとネズミの鳴き声だ。女性が一人でこんなところに長々といるものではない。
「……南部の反乱が鎮圧されたそうですよ」
「予定通りだな、いや、少し早いか?」
「セディラムやレイラさんも、その乱に参加していたんではないのですか?」
「どうせ、お遊びだからな。二人とも、死んじゃいないだろう」
「では、これで合流できますね?」
「はっ?」
「反乱が終結したんです。彼らと一緒にいても危険は低いでしょう?」
「一体、あんた何が言いたいんだ?」
「程なく、アルガス国王が来るんです」
「そうか……」
「えっ?」
とどめの一言だと、期待していただけに、ライが平然としていると、サリファの調子が狂った。
「驚かないんですか?」
「私にとっては、どうでもいいことだから」
羨ましい。そんな理由で割り切れるなら、サリファとて慌てていないだろう。
ライより、サリファの方がよほど、アルガス国王を畏怖しているのだ。
「しかし、アルガス国王が相手では、ナダルサアル殿下より遥かに手強い。今回は運が良かっただけです。今度こそ、本当の本当に今までのように生易しくはいかないのですよ」
「まるで、あんたが逃げたいような言いぐさじゃないか?」
「……それは勿論、カテナ様がもう少し安定していたら、確実に逃げていましたよ」
「カテナ様は、お加減が悪いのか?」
「体というより、主に心の調子が優れません」
「……そうか。困ったな」
「アルガス国王の件より、はるかに深刻そうですね。大丈夫です。解毒剤は必ず渡しますし、カテナ様には、いずれ会えるようにしますから。ひとまず、逃げて下さい。私からのお願いです」
「嫌だって。何度も言っているじゃないか」
「ライ。貴方、いい加減に……」
こうなったら、強制的に逃がすしかない。
さすがに痺れを切らしたサリファが立ち上がると同時に、にわかに地上が慌ただしくなった。ライが目を丸くして、立ち上がる。
「一体、何だ? アルガス国王が来たのか?」
「いえ。まさか。先程、宰宮殿下が迎えに行かれたのですよ。どんなに早くても無理です」
嫌々ではあったが、行かざるを得なかったはずだ。途中で引き返してくはずがない。
「あんたが逃げたいほど、アルガス国王っていうのは、怖いおっさんなんだろ。意表をついたのかもしれない」
「そんな馬鹿な……」
言っているそばから、鉄格子が嫌な音を立てて開いた。
しかし、牢に入ってきたのはアルガス王ではなかった。
……派手な赤色の寝間着姿の男。
「貴方は、ナダルサアル……殿下?」