③
――アルガス国王。
正式な名前はアルガス=レビジオラス=オルサムナハル=エレメント。
長ったらしい名前だ。まるで呪文のようでもある。
サリファは、今まで国王の姓名が呼ばれているところを見たことがない。
愛称すら存在してなかった。皆、「王」「陛下」と呼ぶ。
それだけ国王として威厳と恐怖を兼ねそろえているのだろう。
ある意味生まれた時から国王であり、国の象徴に等しかった。
一個人としてとらえられない人物なのだ。
その国王がティファレトに来るという話は、瞬く間に城中に広まった。
本当は内密の予定だったらしいが、エレントルーデが独自に情報を掴み、国王に確かめて明らかになった。
国王直属の精鋭部隊も随行させているらしく、物々しい装備からは、反乱勢力の一掃に力を貸そうという考えのようだ。
子供のように頬を膨らましたエレントルーデは、背中を丸めている。
すっかり意気消沈してしまったようだ。
それもそのはずで、ナダルサアルの所業が国王の手で暴かれるだけならまだしも、万が一、国王がエレントルーデやナダルサアル諸共に腹を立てて、アルガス軍をティファレトに差し向けたとしたなら、エレントルーデは、もうおしまいだ。
まるで天災のように、王が来襲してくる。
サリファだって、隙あれば逃げ出したい気持ちで一杯だった。
アルガス国王には、十五年前捕虜になった時以来会っていない。
出来れば一生会いたくなかった。あの冷ややかな氷のような目で一瞥されると、竦み上がってしまう。
エレントルーデの気持ちは、有り余るほど理解できる。……だけど。
ーー勝手に人の部屋で落ち込まないで欲しかった。
「いや、でもね。ありえないことだよ。父上は叔父上に留守番頼んでエンバーとの争いに意欲を燃やして出て行ったばっかりだよ。僕がティファレトに行くということも話しておいたし、君を同行させることも了承させた。そもそも、十五年前からティファレトには、まったくといっていいほど興味を持ってなかったのに。……どうして、いきなり? やっぱりカテナ様かな」
「カテナ様のはずがないですよ。王は用済みのあの人を、ティファレトに捨てたんですよ」
「怒っているね。珍しく?」
「いいえ。怒ってなどいませんよ。ですから、殿下はとっとと私の部屋から出て行って、国王陛下をお迎えに行かれたらどうですか?」
「なぜ、僕が……」
エレントルーデは虫の息だった。
アルガス国王が来ると知っていて、出迎えないわけにはいかない。
しかし、国主であるナダルサアルは出迎えられる健康状態ではないのだ。自然、エレントルーデが行くしかなかった。
「僕じゃなくて、代理に行ってもらっちゃ駄目かな。大体、この城、僕がいなくなったら機能しなくなるよ。いるのは使い物にならない兄上くらいだ」
「ナダルサアル殿下の体調不良については、陛下にお伝えしたのですか?」
「…………まだ、言ってないな」
「報告していなければ、代理を立てる理由にはなりません。殿下もお分かりなのでしょう?」
「もちろん、分かっているよ。ただ父上は狸だからね。出方を見ないとね。痛くない腹を探られたくないんだよ」
――痛くない腹なんてあるのだろうか?
「だって、そうだろ? 僕が一つ手順を間違えれば、兄上の発病は、君のせいだと言われ兼ねないんだよ。兄上が朦朧としているから助かっているようなもので、正気になったら病気だと聞かされたって、絶対君のせいにすると思うけどね」
「……殿下は、とことん人を巻き込むのがお好きな方ですね」
どうせ、犯人扱いされるなら、いっそすべて自分のせいにしてしまおうか。
腹が決まったなら、まず目の前の男を始末することから始めれば良い。
簡単なことだ。
「なんか、君って時々怖いよね?」
「ええ。私も自分がとても怖いですよ」
「二人の未来が暗黒にならないために、たとえば、僕の代わりに君が父上の所に行くとかどうだろう?」
「本気でおっしゃっていますか?」
凍えた笑みを浮かべると、エレントルーデもぎこちなく笑った。
「嘘だよ」
「では、とっとと行ってください。殿下が抜けたからといって、何か起こるものでもないでしょう。今までだって、ナダルサアル殿下の補佐官が大方の政務は、代理を務めていたんですから」
「でも、さすが兄上の代理だけあって、めちゃくちゃな命令を平気で出してたけどね」
「それは大変ですが、私には、どうにもなりませんから。とにかく、出て行って下さいよ」
「いいじゃないか。君の部屋は落ち着くんだ。僕の部屋は警備が厳重でね。内緒話にむかないんだよ」
「殿下と内緒話をする気など、私には毛頭ないんですが……。だったら、私がここから出ていきますよ」
しかし、エレントルーデは問答無用で話を進める。
居座る気満々のようだ。
質素なサリファの部屋の椅子に座って、偉そうに腕を組んでいる。
「ねえ? 君さあ。僕のこと避けてない?」
「何を今更。私は昔から、常に殿下を避け続けていましたが?」
「あのね。僕は冗談を言ってるんじゃないんだよ。つまり、僕がティファレト国主を君にやらせようとしていることに、君が気づいているのかって話だ」
「今のは、聞かなかったことにして下さい」
「じゃあ、今はそういうことにしておいてもいい。ちなみに僕がティファレトにこだわる理由は、僕直属の兵士たちをこの地に駐屯させたいと思っているからだよ。極秘裏にね」
「はっ?」
何てことを言い出すのか。
カテナにも振り回されたが、この男にも苦労させられる。
「殿下が国王になろうと急に意気込んでいらっしゃるのは伝わってきます。……ですが、アルガス国王も老齢ですし、黙っていれば転がりこんでくるものでしょう。それと国王死後の後継争いのための準備なのですか?」
「君は結構おめでたい頭をしているね?」
「平和主義とでも言ってもらいたいですね」
「僕が畏れているのは、父上の影だ。八歳の子供も怖いけど、そちらは、まあ何とかなる」
……分からない。
エレントルーデが何を焦っているのか。
どうしてサリファにそんな話をするのか……。
「父上は版図拡大ばかりを繰り返している。それに異を唱えた者が内乱を起こせば容赦なく制圧し、その者を奴隷とした。カテナ様も犠牲者だね。しかし、悪いのは父上だけじゃないんだよ。父上を支える官僚、軍閥……。すべてが父上を形作っている。父上がいなくなったからといって、変わるわけじゃない。強さばかりを求めるのは、アルガスという国の性質なのさ」
「要するに、貴方は?」
「一掃したい。根こそぎね」
「――……それを。どうして私に?」
サリファは、背後の扉を開け放って、逃げ出したい衝動を、必死で堪えていた。
「私に知らせて、どうしようというんです?」
「共犯者が欲しかったんだ。でも、いきなり話しても君は本気にしないだろうし、むしろ僕が本気だと知ったら全力で逃げただろう? でもここまで来たら、君も簡単には逃げられない。だってカテナ様も、ライという娘も。君には気がかりが増えてしまったからね」
自分はエレントルーデに嵌められたのか、それとも嵌ってしまったのか……。
「死にますよ。……殿下」
「……かもね」
「引き返したらよろしいのでは? 今なら俄然間に合います」
「レイラも同じことを言っていたな。レイラは……。ほら、君が見抜いた例の侍女さ。つれないところが、よく君に似ていてね」
肩を揺らして大笑いをするエレントルーデが碧眼を僅かに細めた。
「だけど、サリファ。彼女もカテナ様と同じ。内乱を企んだ貴族の娘なんだよ。僕はあの子を助けたいと思っている。僕は何もできなかったからさ。父上が裏切り者を虐殺するのを止められなかった。悲しいよね。何かを変えたいのなら、それが大きな物であるのなら、……どうしても、強大な権力が必要なんだ」