②
南部の反乱は、ナダルサアルの予言通りあっけなく決着がついてしまった……らしい。
いつもこんなふうに、王都から無縁の所で終わっていたのだろうか……。
本当に戦いがあったのかすら、分からないくらいだった。
人の血が流れたことを知らないから、ナダルサアルは遊び感覚で戦争ができた。
そして、実際に苦しんでいる人を見たことがないから、かつてのサリファも毒薬を平気で作ることが出来たのだ。
サリファは、四角い窓越しに流れていく雲を、眺めながら今更ながらに後悔していた。
可及的速やか……というのは、一体いつまでのことだろう?
解毒剤の調合は地道な作業だ。
まず毒を作って、もう一回成分を徹底的に研究し、その上でその毒を中和する薬を作らなければならない。
サリファが参考にしていた忌まわしい本は、エレントルーデが管理していたのですぐに見つかったし、おぼろげながらサリファも手順だけは覚えていたので、何とか手探りで原型のようなものを作るまでには至ったが……。問題はここからである。
はたして、解毒剤が安全なのか?
もちろん、昔のサリファは、毒と同時に解毒剤を作っていた。
しかし、毒の効能を試していないのに、同じ時に作っていた解毒剤に効果があるのかなど分かるはずがない。
古のティファレト人が書き記した本の内容を、サリファは忠実に再現しただけだ。
会うたびにライはせっつくが、やはり、待ってもらうべきだろう。下手したら、更に危険な目に遭わせてしまうかもしれないのだ。
「……でもな」
結局のところ、サリファが人体実験をする気がないのだから、いつまで待ってもらったところで、安全性を確認することなどできるはずもないのだ。
「…………貴方、誰?」
「すいません」
ハッと我に返って、とっさに謝ったが、寝台のカテナは目を潤ませている。
よほど、サリファが凶悪な顔をしていたのだろう。
「カテナ様。私は怪しい者ではなくて……」
「来ないでっ!」
カテナは、毛布の上に置いていたガウンをひったくって、じりじりとサリファから距離をとっていた。
「大丈夫ですよ。カテナ様。あの人は宰宮殿下のご友人で……」
カテナの唯一信頼しているらしい老齢の侍女が優しくなだめる。
……が、きつく細められた青の瞳は警戒を解かなかった。
まさか、母にこんな目を向けられる日が来るとは……。
光草の毒のせいなのか、心に受けた傷のせいなのか……。
カテナの記憶障害は一向に良くならなかった。
――いや……。
きっと、カテナは心の何処かでサリファの行いを責めているのだ。
……置いて逃げたつもりはなかった。
だが、サリファの心の片隅に、母を置き去りにしたい願望があったのかもしれない。
「カテナ様……」
話しかけても意味がないのなら、仕方ない。
サリファはカテナから目を逸らして、寝台を通過し、窓から身を乗り出した。
塔の下は、花で溢れた庭園だった。
カテナがティファレト王から逃れようと走っていた十五年前の城の中庭に似ている。
「美しい庭ですね。火災の後によくぞここまで蘇ったものです」
「えっ?」
「ラクサ、シーリー、雪花。貴方の好きな花もたくさん植わっている」
カテナは、サリファが庭に視線を移したことを知ったらしい。
サリファが自分に興味がないと分かれば、彼女は少しだけ余裕を取り戻した。
小動物のように、びくびくしながらも、立ち上がり、サリファのもとにふらふらと近づいてくる。
「そう……ね。綺麗。私、ラクサの桃色の花びらが好きよ。シーリーは匂いが好き。雪花は冬の寒い時に大輪の花を咲かせるの。それがとても可憐なの。でも一番好きなのは、光草」
「えっ?」
わざと言っているのかと思ったくらい、カテナはしっかりと主張した。
「光草ですか……」
「…………あら、貴方知らないの?」
カテナが今までの年月が一気に埋まるような親密さで言い放った。痩せて衰えてはいたが、容姿はそのままだ。
……まるで、十五年前に戻ったようだった。
「一応、知っていますが、あれは草ですよ」
「いいじゃない。ただの草じゃないんだから。夜になると、光るのよ。とっても綺麗なの」
「はあ」
なぜ気の利いた答えが返せないのかと苛立ちながら、サリファはただ驚愕していた。
今まさに悩んでいた毒薬の原料の話を、母はしているのだ。
偶然であればこそ、怖い。
「カテナ様と私が二人でいた時に光草を見たことはなかったと思いますが、貴方は別の何処かでご覧になったのでしょうか?」
「ええ、見たわよ。あの人と……。一面の光草の中を、手を繋いで走ったの。あれは……」
カテナはぼんやりと呟いてから、沈黙した。
やがて、ぽたぽたと双眸から涙が零れる。
「あの人は何処に行ったのかしら? まだ帰ってこないの……」
……ああ。
「私のせいですね……」
どうにも上手く話を転がすことができなかった。
カテナは帰ってくるはずもない、ティファレト王を待っているのだ。
「貴方の大切な人は、すぐに帰ってきますよ」
サリファは小さく一息ついて、そっとカテナの手を取ったが、一瞬で後悔した。
――しまった。
絶対に怒り狂う。カテナは男に触れられることを、極度に嫌がるのだ。
サリファは即座に手を放そうとしたが、しかし、意外にもカテナの方が放さなかった。
寝台に座ってからも、カテナが手を掴んだままなので、サリファはしゃがむしかない。
「……貴方は?」
「ああ、私は宰宮殿下の知り合いで……」
「似ているわね。貴方」
「えっ?」
「うん。似てるわ」
「誰にでしょう?」
サリファは首を傾げた。カテナの言葉は突飛すぎて、想像力も働かない。
カテナは少女のように、嫣然と微笑した。
「私の初恋の人」
「なっ……」
さすがに、それは問い返すまでもなかった。
サリファの実の父親。
……アルガス国王以外考えられない。
「そっ、そうでしょうか?」
嬉しくないどころか、指摘もされたくないので、顔が引きつった。
しかし、カテナは容赦ない。
「似てるわ。特にその寂しげな目と物言いたげな口かしら?」
そのたとえは、似ているという部類に入るのだろうか?
ご機嫌のカテナは、余計に始末が悪かった。
話を変えることも、責めることも出来ない。
「…………へえ。それはそれは光栄というか、複雑というか、いや、有難いんですけど」
「喜びなさいよ。格好良かったんだから」
あのジジイの何処が格好良かったのかなど聞きたくもなかったが、サリファは何とか笑顔を作り出した。
しかし、またカテナの顔が曇った。
「あの人も……」
「はい?」
「あの人も私を置いて行ったのよね」
「それは……」
置いて行った。いや正確には、追い払ったというべきか……。
「私……、あの時死のうと思ったのよねえ」
「貴方は子供を連れて、水の中に入って行きましたね。……でも、死ななかった」
「私だけの役目があるんだと思ったわ。でも」
これは、駄目だ。
……また泣かせてしまう。
泣くのは体に良くない。
呼吸が荒くなれば、咳き込む確率もあがってしまう。
やはり、サリファはここにいない方が良いのだ。
かえってカテナを苦しめてしまうだけだ。
同じ結論に達したらしい侍女に、後は頼むと目配せして立ち上がる。
……その時だった。
「サリファ、大変だよ。いるんだろう!」
無遠慮に扉を開け放ったのは、エレントルーデだった。