⑤
……それは、今はもう遠い昔のことだった。
冷ややかな月光が地面を照らし、城の中庭に静けさが立ち込めた頃。
ライはいつものようにある人物を捜していた。
「何をしているんだい?」
ふてくされているライに優しく問いかけるのは、仮面姿の長身の青年であった。
一見すると無機質な白の仮面姿なのに、その仮面の下から紡がれる声からは、緩やかな温かさが漂っていた。
「陛下……」
ライは、この温厚な国王を兄のように慕っていた。
「聞いて下さい、陛下。ディアン=サリファがまたすっぽかしたんです」
「あー。またか。仕方ない子だね」
「そんなこと仰って。陛下だって本気でそう思ってないでしょう?」
「いや……」
国王は咳払いをすると、いきなり話題を変えた。
「ところでさ。陛下なんて仰々しく呼ばなくてもいいよ。君は即位前から私のことを知っているじゃないか?」
「しかし」
「ユージスでいいよ」
ユージス=ファイリルティスト。
それがユージスの正式な名前である。
……が、いくらなんでも名前で呼ぶなんて恐れ多いことだ。
ライとユージスは簡単に名前を呼びあえるほど気安い関係ではない。
ライは身元の怪しい孤児であり、ユージスの温情で従者として側に置いてもらっているが、本来であれば近づくことも叶わない間柄である。
……でも、そんな常識など知らずに、幼い頃から彼のことを名前で呼んでいたライには、確かな優越感があった。
ここには二人しかいないし、まあいいか……と思えてしまう。
「では、ユージス様」
ライは思いっきり名前を呼んで、ユージスを睨みつけた。
「ユージス様は、どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」
「……いや、それは。あの」
うろたえるユージスを見上げる。
気を抜くと笑ってしまいそうだったから、眼差しがきつくなった。
「ユージス様。どうせまた、カテナ様に逃げられたんでしょう?」
「あ、やっぱり分かる?」
ユージスは、子供のように無邪気にへらへらと笑う。
きっと、仮面の下で頬を赤らめているのだろう。
情けないけど、憎めなかった。やっぱり笑ってしまう。
「私達は逃げられてしまった同士だね。辛いねえ。片思いは……」
「……ちょっと待って下さい。私は別にサリファさんに特別な感情など持ってませんから」
早口で捲し立て、そっぽを向いたライの頭を大きな手がゆっくり撫でた。
「そうなんだ。お前が必死だから、ついサリファ君が気になっているのかと思ってね?」
「……ち、ちがいます。誤解です」
刹那に否定したが、動じる声は認めたようなものだった。
ディアン=サリファ。
未知の国、アルガスから来た少年の洗練された容姿と、穏やかな物腰、おそるべき頭の回転の早さ。
彼はたった三十日ちょっとでティファレト人にとっても複雑なティファレト語を巧みに操り、カテナの通訳となっていた。
サリファのやることなすこと、立ち居振る舞いすべてがライにはないものであり、……興味があった。
……分かってはいる。
素直じゃない。
けれども、今更認めるわけにもいかなかった。
それに、サリファのような高貴な少年に、ライのような最下層の人間が仕事以外で声をかけて良いはずがなかった。
ユージスから特別に貰っているこの有難い身分をなくしたくない。
「今日はお互い無理そうだね。早めに城に入ろうか。満月だしね。私もあまり良い気がしない」
「ユージス様。前から思ってたんですが、月が嫌いなんですか? あんなに綺麗なのに?」
「……うーん。なんかね。責められているような気がしてしまうんだよ」
「はっ?」
ユージスは鼻とこめかみで見事に固定されている仮面に手をやった。
指先で撫でているのは、ユージスの顔の傷がある目の下のあたりだ。
……話して下さればいいのに……。
だが、きっとユージスがその胸の内を語るのは、カテナだけなのだろう。
ライも自分を飾らないカテナのことは、大好きだった。
彼女の太陽のような明るさが、ユージスにとってどれだけ癒しになっていることか……。
この優しい人の悲しみを、カテナならいつの日かきっと受け止めてくれるはずた。
最近は、カテナもまんざらではないんじゃないかと、ライも思っているのだ。
早く、二人が本当の夫婦になる日を見たいものだ。意外にその日は近いかもしれない。
……しかし。
ライの願いは、ようやく叶ったところで終わりを迎えた。
まさか、今更ユージスの懊悩の原因を、自分が知ることになるなんて思ってもいなかった。




