➀
「地母神レア……ね」
エレントルーデは、静かにティファレト語で呟いた。
執務室の窓から眼下に広がるのは、深緑の森ルーン。
ティファレト神話の序章から登場する地母神レアが顕現した場所である。
地母神は大地の神。遍く自然物の創造主であり、最初の人間の母だった。
サリファはティファレトの植物について興味を抱いたようだが、エレントルーデはティファレトの神話の方が魅力的だった。
――そう。きっかけはカテナだった。
エレントルーデはカテナに興味を抱いていた。興味といっても、恋愛感情の類ではない。
しいて言うのであれば、憧れのような気持ちだった。エレントルーデは彼女のような母親を求めていた。
だから、ティファレトに渡ったカテナとサリファ親子の消息を気にかけていた。
彼らがティファレトに渡ったその頃から、書物を取り寄せ、それをアルガス語に翻訳して知識を吸収していった。
もしも、エレントルーデがティファレト国主に任命されていたのなら、もっと楽しく仕事をしていたことだろう。少なくとも、ナダルサアルのようにはなっていなかったと思う。
――ナダルサアル。
王位継承権第一位のエレントルーデの兄だ。
母も同じなのに、外見も性格もほとんど似ていない不思議な兄弟である。
エレントル―デは適当に手を抜いているように見せてはいるが、仕事はちゃんとこなしている方だ。特に面会時間などはきっちりと守る。
しかし、兄のナダルサアルは真面目に見せかけてはいるが、仕事は手抜きで、時間にだらしない。
予想はしていたが、エレントルーデはすでに結構な時間を待たされていた。
勘弁してもらいたかった。
エレントルーデはナダルサアルと違って、忙しいのだ。
何しろ、ルティカ城までカテナを連れて来てしまったのだ。これは想定外のことだった。
エレントルーデの計画では、今頃先導師達が、事が落ち着くまでカテナを安全な場所に運んでいる筈だった。
ルティカ城は、彼女にとって安全な場所とは言えない。
兄・ナダルサアルの居城である。
せめてもう少し、ナダルサアルが利口であれば、渋々でも従う気になるのだが……。
ナダルサアルは十五年経っても、自分の立場が分かっていないのだ。
ある意味可哀想なくらいだ。
せめて最後に花道くらい作ってあげようと、弟の情をかけてあげているのに、このザマである。
苛々を鎮めるために、円卓のティファレト特有の薄茶色の茶を冷ましながら飲み込むと、激しく扉を叩く音がした。
「何事?」
エレントルーデは今回、わざわざ策を弄して兄に引導を渡すため、ここに来たのだ。
従者には兄と込み入った話があると言って、執務室から遠ざけていた。
「それがその、大変なことになっていまして」
「落ち着きなさいよ。ただごとでないのは分かっているから……」
態勢を変えることなくゆったりとお聞き返すと、扉の外の人物は一瞬間を置いた。
多分、生唾をのんだのだろう。
――緊張している?
「至急、宰宮……殿下に、いらして頂きたいと思いまして……」
その掠れた声で、ようやく誰なのか察知したエレントルーデはすぐさま立ち上がった。
表に出ると、見慣れた顔の年老いた侍女が蒼白になって駆け寄って来た。