序章
この話もある意味、私の原点(書いたのは、比較的最近ですが)だと思い至りました。将来的に……毒宰相と偽りの女王の話です。
空が輝いていた。
月明かりがしゃがみこんでいるサリファの背中を明るく染め上げ、溢れた光が木漏れ日のように長く茂った草の上に降り注いでいた。
情景だけなら絵になりそうなほど幻想的だ。
だが、サリファの目的を知っている背後の男、エレントルーデは辟易としているらしい。
ここに来てから欠伸は五回目。しかも回を増すごとに長くなっている。
「もう戻られては? 夜風が冷えますよ」
「君こそ戻ったら? 明日は早いんだよ。こんな所で雑草採集している暇はないでしょ」
「雑草じゃないんですけどね。光草という草を探しているんですよ。海を隔てたティファレトには群生しているのですが、アルガスではまだ見たことがなくて。ここで見たという話を聞いたので探しに来たんです。光草は夜に光るので、昼間では雑草と見分けがつかないんです」
「ふーん。それ薬草か何か? また医者の真似事? まあ、それが君の収入源だし、探したくなる気持ちも分かるけど、わざわざ今夜やらなくても良いんじゃないのかな?」
「仕方ありませんよ。当分の間、アルガスには戻れそうもないので……」
「……相変わらず、嫌みだね」
「――何故、私もなんでしょう?」
決定事項に対してくどくどと愚痴りたくはない。
しかし、サリファを振り回している張本人がそこにいるのに、訊かずにはいられなかった。
「何故、私も一緒に行かなくてはならないのですか? 優秀な人なら大勢いるでしょう」
「だから、言ったじゃない。それは……」
「美しい女性がティファレトには沢山いるからというのは、理由にはなりません」
「あのさ、もしかして、君、女性に興味がないんじゃないの? 先入観で嫌がる人もいるけど、ティファレトの女性の肌は、抜けるように白くて肌理が細かくて、触り心地は……」
「その問いに懇切丁寧に答えたら、私は行かなくて済むんでしょうか?」
今度こそサリファは、嫌みたっぷりに溜息を吐いた。さすがに集中できなくて、作業を中断して顔をあげると、そこには月光より眩い金の刺繍入りの外套を悠然と着こなす金髪男の姿があった。夜風に男の金糸のような髪が靡いている。
「僕が悪かったよ。でもさ、君は僕が行く理由は気にならないのかい?」
「はい。まったく」
「酷い言われようだね」
「王家の人間でしょう。殿下は……」
「エレンでいいって何度も言ってるじゃない。僕は君より年下だ」
「……ではエレントルーデ宰宮殿下」
サリファがぴしゃりと言い切ると、エレントルーデは肩を竦めて苦笑した。
「そのふざけた言葉遣いもさることながら、こんな夜更けに、のこのここんな所までやって来るような隙だらけの方ですが、殿下は間違いなく王位継承権二位の尊い御身でございますよね?」
「尊いって、君が言うと嫌味にしか聞こえないよ。それに、君が悪いんじゃないの。こんな夜更けに物騒な場所で草探ししてるんだから。話そうにも、話しにくいじゃないか」
「……殿下」
おどけて話す男に、サリファは少しだけ苛立った。
――彼はアルガス国の宰宮。
へらへらした優男だが、現在、二番目に玉座に近い男だ。
アルガス独特の官位制度であるが、王子の下に設けられた補佐役を宰宮と呼ぶ。
王族でない者が補佐役として叙任された場合は「宰相」と呼ばれるが、これはアルガスに限ってはほぼ例外なことで、王族の誰かが必ず「宰宮」を継ぐのが必然的だった。
「ティファレトはアルガスの属国のようなもの。殿下が行くのは不思議ではありません」
「でも今回は大変だったんだ。私的旅行だからね。王を説得するのに時間がかかってさ」
「そうですか」
「どうでもいいって思ってるでしょう?」
「そう思っているなら、早く話を進めて下さい。……それで?」
「君は、僕の「姫」について知ってるだろう?」
「……はっ」
一瞬呆気にとられてから、困惑して額を押さえた。
「殿下から聞いていますよ。三年ほど前から、別宅に大切に仕舞いこんでいる「姫君」ですよね?」
「うん。そうそう。覚えていてくれたのなら良かった。君には僕の姫を会わせたことがなかったね。まあ、正直僕以外の男と彼女を会わせたくもないんだけどさ」
「要約すると、殿下の麗しの姫君がティファレト国に行きたいと、そう仰ったわけですか」
「まあね」
……じゃあ二人でいってらっしゃい。言いかけて、サリファは何とか言葉を飲み込んだ。
「最初の質問に戻りますが、どうして私も殿下に同行しなければならないのですか?」
「君はティファレト語ぺらぺらでしょ。僕も話せるけど、複雑なのは分からないから」
「通訳というなら、いくらだって殿下の周りにいるのでは?」
「通訳は男が多くてね。大方のアルガス人女性はティファレトに行きたがらないし……。男なんか同席させて、もし姫の素顔を見てしまったら大変でしょう」
「どんなふうに大変なんですか?」
「みんな姫の虜になってしまうよ」
……訊くんじゃなかった。
「だからさ。君以外の適任者はいないと思う。僕、国主の兄上とは仲が良くないし、姫と僕二人きりも味気ないし……。ティファレトは自然の宝庫だから。君、植物大好きでしょ?」
「個人的感情は抜きにして、植物については、私よりティファレト人に詳しい人もいるでしょう。それに、姫に関しては、私が性別的に男だということを失念していませんか?」
「三十過ぎても、女の影すら見たことがない。君は聖人か、変人か。一体どちらなんだい?」
「――殿下」
サリファは咳払いをした。
悲しいことに、月に雲がかかり、視界が暗くなってしまった。ランプの灯だけでは心もとない。今夜の光草探しは中止の予感だった。
―――不毛だ。
ここにいることも、この男の相手をしていることも、時間の無駄にしか思えない。
「つまり、私が行くことは絶対なんですね?」
「そっ。君はたまには頑張るべきだ。人間、好きなことをしているだけじゃ駄目さ」
出来れば好きなことだけをしていたい。それが許されないのなら、何処か遠くに逃げてしまいたい。
だが、ここから抜け出す勇気をサリファは持っていなかった。
「質問はそれだけ? 腹は括れた?」
「腑に落ちませんね。おかしな点ばかりです」
「それは指摘されるまでもないよ。今回の旅は異例ずくめだ。先導師には女性もいるし」
「はあっ!?」
先導師とは、ティファレト人の護衛のことを指す。
十五年前、ティファレトとアルガスは争った。結果、アルガスが勝利し、ティファレト国のほとんどを占領したものの、いまだアルガスに反感を抱いているティファレト人も多い。そのため、貴族、特に王族がティファレトに入国する際は、ティファレト人の護衛を雇うのが常識となっている。
……しかし、護衛の中に女性がいるというのは聞いたことがない。
「そう。つまり、この僕がわざわざ君に会いに来た理由はそれなんだよ」
エレントルーデが得意げに見下ろすと、小さな影が彼の脇にちょこんと控えていた。
小動物かと思ったら、人間だったらしい。
「見ての通り、先導師を連れて来たんだ」
「一体、殿下は、その人を何処に隠していたんですか?」
サリファが素直に驚いていると、エレントルーデは子供のように弾んだ声音で答えた。
「ずっといたよ。君が気づかなかっただけだろう。彼女の存在に」
「……ああ、彼女」
言われてみれば、その人物は小柄で華奢だ。大柄のエレントルーデの後ろに潜んでいたのなら、草探しをしていたサリファには分からなかったかもしれない。
「……サリファ様ですね。驚かせてしまって申し訳ありません。私はライと申します」
――久々のティファレト語だった。
アルガスにいながら、堂々とティファレト語を話すのは、彼女なりの意地なのかもしれない。
小柄な少女はぶかぶかの闇色のローブを着ていた。
おかげでよく顔は見えないが、相当に若い。
サリファが話に聞いていたより、はるかに若い娘のようだ。
「ほら。船に不審者が紛れている場合があるからさ、判断をつけるためにも全員の顔を頭に入れておきたいって、彼女が言ってね」
「そんな頼みを殿下自ら叶えるとは……。いつもなら考えられませんよね」
不思議というより、もはや不審だった。
顔合わせの機会をどうしても作りたいと言うのなら、エレントルーデが命じればそれだけで、そういう場ができるはずだった。
それに、通常、貴族は先導師などと口を利きたがらないはずだ。
属国の用心棒など、下賤な者と考えている人間がほとんどである。
エレントルーデは時折驚くことを簡単にやってのけるし、それが許される地位でもあるが、さすがに今回のことがばれたら、父であるアルガス国王に叱られるかもしれない。
「サリファ。知らないのかい? 僕は女性には優しいんだ。……で、ライ。覚えられたかな。彼の顔?」
「はい」
ライはやっと鈍い動作で、顔を覆っていたフードを取った。
「あっ…………」
小さな顔が真っ直ぐサリファを見上げている。こぼれるほど大きな藍色の瞳があった。
どくん。――と、心臓が跳ねる。
「貴方は…………」
――知っている。
サリファはこの少女と、何処かで会っている。……でも、誰なのかは覚えていない。
月明かりを吸収し、艶やかに輝く紫銀の髪。抜けるような白い肌と、丈の長い上着の裾にあしらわれている花の刺繍。懐かしさを覚える、ティファレト人独特の特徴。
しかし、サリファはアルガスに戻って来てから一度もティファレト人と会ったことはなかった。
そも十五、六歳のティファレト人の少女と、サリファが会うはずもないのだ。
「あの……。ライさん?」
「はい?」
「貴方には、親戚はいませんか?」
「残念ながら、誰もおりません。両親は私が生まれてすぐに亡くなりましたから」
「そうですか。ちなみに、失礼ですが、お幾つでしょうか?」
「……えっ?」
「どうも何処かで、貴方と会ったことがあるような気がして仕方ないんですよね」
沈黙が二人の間を包んだ。
サリファのティファレト語は通じていたはずだ。
会ったことがないのなら、そう答えれば良い。……なのに、ライは何も喋らない。それがかえって怪しかった。
「サリファ、あのさあ」
エレントルーデがサリファの肩を叩いた。なぜだろう。冷たい目をしている。
「随分と古めかしい口説き文句だね?」
「……ちょ、ちょっと待って下さいよ。そんなはずないでしょう」
憮然として返すと、エレントルーデがにやけた顔でサリファに耳打ちした。
「もしかして、そういう趣味なの?」
「……まさか。私は本当にそう思っただけで。殿下が心配しているような趣味はないですから。ライさんも気になさらないで下さい」
ここは念を押さなければならない。ライにだって失礼だろう。――しかし。
「――趣味?」
今までライを包んでいた柔らかい雰囲気はたちどころに消失した。
彼女の意志を飲み込んだかのように、サリファの膝下の草叢がざわめいた。
無言で一歩下がったライは、エレントルーデに一礼したか否かの段階で、彼の腰の剣を軽々と抜き放ち、瞬時にサリファの首筋に切っ先を向けた。
「…………えっ?」
剣の切っ先が喉仏に当たって痛くて、熱い。
なぜ、ライは怒っているのだろうか?
「殿下。申し訳ありません」
ライがまとっていた儚さが一瞬で消失した。声の質が明らかに違う。
殺意を秘めたぎらりと光る双眸をそのままに、ライはエレントルーデに低い声で言った。
「サリファ様は、女の先導師が不安なのではないかと。ならば、安心して頂こうと思いまして。未熟ながら殿下の剣をお借りした次第です」
「そうだったんだ」
――そうだったんだ、じゃないだろう?
サリファは突っ込みそうになったが、喉を擽る冷たい感触が怖くて声が出せなかった。
「どうでしょう。サリファ様。私の実力をお認め下さいましたか?」
結局、この夜「光草」は見つからなかった。