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年越ゆ

作者: 劉之介

 12月31日、水曜日。

 あの鐘の音が聴きたくて、今日も家族は『その時』を待つ。

 年越しまで、残り三時間。夜の薫りが切ない言辞を誘う。

「年越しそば、出来たよ」

 若い母親の甲高い声が、そう遠くないキッチンから聞こえてくる。すぐさまどこからか返事が響いて、子供たちが母のところへ走っていった。年越しそば、と言っても手打ちや自家製物ではない。近所のスーパーに売っている、有名なカップそばである。

 先月も食べたその味を、子供たちが忘れるはずはない。しかし、今日のカップそばは先月食べたものとは明らかに醸し出す雰囲気が違っていた。きっと味も違うのだろう。今日の食べるそばは一年に一度しか食べられない文字通りの『年越しそば』なのだ。

 だし汁の入ったそばをこぼさないように、子供たちはゆっくり、しかし素早く、テーブルに運んでいった。子どもは二人。八歳の息子と六歳の娘だ。

「おいおい、大丈夫か」

 テレビを見ている父が、二人のことを心配して声をかける。父は床の上で寝転がってテレビを見ていた。最近は大晦日の番組もあまり面白くなくなってきたように彼は感じていた。自分が年をくったのか、それとも本当に番組がつまらなくなったのか。一体どちらが正解なのか彼には分からなかったが、どれだけつまらないと感じても、テレビを全く見ないということはなかった。深い理由こそないが、とりあえずこの日はふとテレビを点けてしまうのだ。

 フローリングに散らかったヒーロー人形を避けながら、二人の子どもはようやくテーブルへと辿り着いた。まるでキッチンからテーブルまでが長い道のりであったかのように、子どもはカップそばを置いた後、大きく息をついた。そばを故郷まで持っていくという彼らの長い冒険がようやく終わりを迎えたのだ。

 テーブルに並べられた二つの容器。母親がもう二つ持ってきて、合わせて四つになる。今日は特別な日。いつもは気にしない、一日の終わりを待つ日なのだ。

「おお、うまそうだな」

 父親が抑揚のある声で言った。表情に思わず出たのは心からの微笑みだった。

 そばから出る湯気で父親のメガネが曇る。その滑稽さに娘が吹きだす。テーブルに置かれた箸を息子がいじくって転がり落としてしまう。軽快なおもちゃのような音が再び笑いを誘う。

 ありふれた家族の幸せ。確かにありふれているかもしれないが、そのありふれた時を掴むのはかなり難しい。

 父親は不意にそう思うと、数秒の間だけ意識が自分だけの世界に入った。俺がこうして働くのは自分のためなのか、家族のためなのか?

 彼が作った錯綜した迷路は、息子の一言であっさり崩壊を告げることになった。「ねぇ、早く食べようよぉ」

「うん? ああ」父は我に返ると、息子に言葉をかけた。「いいか優斗。年越しそばはな、年を越す前に食べるものなんだ。あと三時間で食べきらないと縁起が悪くなるぞ、それに、そばを残してもえらいことになる。絶対に食べきるんだぞ」

「ええ、でもさっきご飯食べたから、あんまり食べらなれないよぉ」

「それでも、食べ切るんだ。分かったな」

 はーい。と息子は返事をした。言葉こそは納得の意味だったが、声色には不満の調子も見えていた。

 母親がテーブルの前で正座をし、父も寝転がるのを止め、三人の中に加わった。

 一組の家族が共に時間を共有する時間。その一秒一秒が父親には身に染みて伝わってくるような気がした。もう息子は八歳で、娘は六歳になる。彼らが病院で誕生するのを見届けてからここまで、ほんの僅かな時間で来てしまったような気がする。彼らは誕生の瞬間を今でも覚えているのだろうか。結婚式と親の葬式以外は泣かないと決めていた俺が、自分の赤子を抱いた時に自然と流れてきてしまった涙を。仕事のストレスに追われていた妻が、息子や娘の手を握った時に沢山の力をもらったことを。家族が共にいられる時間は、徐々に減っていくものなのかもしれない。それでも、この家族の笑顔だけは忘れずにいたい。あの時自分が流した涙の想いも、永遠のものであり続けたい。

「ねぇ、お父さん。ぼぉーとしてないで、早く食べよう」

 不意に呼びかけられて、父は再び我に返った。息子が急かす様に父に声をかけていた。二本の箸をドラムのスティックにして、待ちきれないと言わんばかりにテーブルの床を叩いていた。

「こら、おとなしくしてなさい」

 母が息子を叱る。娘は母親の側について、怒る母の顔を下から見ている。娘は今までカップそばを食べ切れた試しはないが、もうすぐ一年生になるというので、自分の力だけで食べたいと言いだしたのだ。

「とにかく、早く食べちゃおうよ」

 息子の言葉に、皆がそばを食べる覚悟を決める。覚悟というと大げさに聞こえるかもしれないが、それくらい『年越しそば』というのは大事なものなのだ。

 無言の言葉を交わしたかのように、皆が手を合わせる。時計の長針はもう十の文字盤を差していた。

「それじゃあ」皆で声を合わせる。

「いっただっきまーす」

 

 父親の声が一番大きかった。



 信号機の上で熊の夢を見る。

 望月栞奈かんなは今日も暗い部屋にいた。ここにある光は僅かなスマートフォンのブルーライトだけ。臭いのないこの狭い世界の中には、彼女だけしか侵入を許されていなかった。部屋に佇む空気や熱、そして命。森羅万象の全てが彼女によって生み出されていた。毒と血と汗と死が、彼女の生命をなんとか形作っていた。

 陰鬱な外の世界には、どうやら昼と夜があるらしい。栞奈は風のうわさでその伝えを耳にした。どこからともなくやってきた一羽の小鳥が私にそう告げたのだ。もう戻れなくなってしまった。受け入れられない事実が栞奈の首を、気持ちの悪い息遣いを使って教えてくる。この運命は自ら選んだことなのか、それとも誰かのせいでこうなったのか、誰に問いかけるでもない疑問をスマートフォンにぶつけてみる。

 彼女はこれまでにも、幾度となくその疑問をネット上にぶつけてきた。しかし返ってきたのは栞奈が望んでいるような『救済』が似合う答えではなかった。同情や偽善にまみれた心のこもらない言葉たち。奴らは一体どんな気持ちで私に干渉してくるのだろうか、と栞奈はよく考える。自分から問いを投げかけたのに、親切に送られてきた答えを自分勝手に払い退ける態度。傍から見れば、それは気味の悪いことだった。

 栞奈は彼女独自の王国を創りあげていた。彼女自身が女王になって、この部屋の全てを領土にし、多くの民衆を従わせて、独裁政治を行うのだ。強いリーダーのもとには金や軍事力が集まるもので、それによって彼女の国は未来永劫輝き続けることが出来るのだ。ここには一切の苦難や孤独が存在しない。まさに地上の楽園である。

 一筋の涙が、彼女の顔を伝う。まるで彼女の顔に見えないレールでも引かれているみたいに、水滴はベッドのところへ降りていった。透明な水はやがて黒い塊となる。自分以外の人間は皆欺瞞に満ちた心を持っているような気がする。自分だけが清浄で、自分だけが正しくて、自分だけが平和的で……。

 スマートフォンに表示された時計が十一時を示した。今日は12月31日。2014年まで残り一時間。某有名アニメの声優が入れ替わってからもう十年か、と栞奈はどうでもいいことを考えた。

 ドアの叩く音がして、栞奈はハッと後ろを振り返った。咄嗟の反応で、持っていたスマートフォンをベッドの中に隠した。だが、すぐに隠す必要がないことに気づき、再び手の中に収めた。

 ドアの音が徐々に大きくなる。それと同時に自分を呼ぶ声も聞こえてくる。「栞奈! 栞奈! 大晦日くらい、出てきたらどうなの?」

 喉の奥にイガイガしたヘドロのようなものが住み着いた。

 彼女は耳を塞いだ。もう一切の音などいらないとでも言うように。栞奈は発狂しそうになった。耳をどれだけ強く塞いでも、少量の音なら入ってきてしまうのだ。脳は大声を出して叫びたがっていたが、身体がそれを制していた。自分の体が二つに分離されるような感覚。それは恐怖以外の何ものでもない。

 スマートフォンが彼女を救出するかのように、突然けたたましく鳴った。それはまさに暴走と言えるものだった。単なる機械が、主人を援けるために手を差し伸べる。主人の嫌いなあのドアの音を、主人の嫌いなあの針のついた言葉を。

栞奈はベッドの上に腰掛けながら、どこかうわの空になっていた。アイロニカルな言葉はもう聴きたくない。自分は不幸者なのだ。自分は恵まれない人間なのだ。

浸かっているぬるま湯に氷水が入れられたような。いや、どうせこんな例え方しても誰も分かってくれないか。誰も私を助けにこないのだ。私を愛してくれるのは、この部屋の空気と、すでに古い機種となったスマートフォンだけ。


 あと30分で一年が終わる。陽の光は私に勇気なんかくれない。私が今必要としているのは、現実を受け入れなくする方法だけ。学校に行かなくても幸せになれる方法だけ。

 


「要はそういうことなんですよ。今日もわたしゃ、一人でやっておりますんで…… いやいや、失敬失敬」

 画面に向かって、語りかける男。彼の名は城島アキラ。来年で三十を迎えるごく普通の男…… またはちょっと変わった男である。

「生憎今年もクリスマスは独りでねぇ。いや、一人じゃないんですよ。『独り』のほうでございます。わたしゃホントに女にも好かれず、金にも恵まれずって、いいかげんにしてくださいよって感じですよ。昔の人も適当なことをいうねぇって感じですよ。『天は二物を与えず』って。……もう、俺には一物もねぇんだよって天に言いたいよ、ホントに」

 独り言なのか、あるいはそうではないのか。それは恐らく彼には分かるが、天の神には分からないことだろう。

 城島はカメラとパソコンを机の上に置き、動画サイトを使ってリアルタイム放送を行っていた。時刻は23時40分。残り20分でついに2015年を迎える。海を知らない夏を過ごし、聖夜の時には寝て過ごし、大晦日にはこうして動画配信を行う。もはやこれは彼にとって、恒例行事となっていることである。

「乙でーす。コメありがとう。いやー確かに今日は暑いねー。これも、地球温暖化とかいうのが原因なんでしょうねぇ」

 閲覧者数、未だ20。コメント数はたったの3。世界中と繋がっている感覚は全くないが、それでもネットは城島にとって寂しさを紛らわす恰好の材料である。黙っていれば独りで過ごすことになった年末も、必要なものを用意するだけで、およそ20人と一緒に新年を迎えることが出来るのだ。惨めだと思ったことは微塵もない。ただ若者のような新鮮な気持ちを忘れたくないだけなのだ。

 カメラの前に置かれた酒を呑みほし、今さらながらにタオルで口を拭く。アルコールを入れなければ、こんなに長くは配信できない。体力はいらないが、気力は十分になければやってられないのだ。

 年末の毒が身体じゅうに廻ってきて、城島は急に眠気に襲われた。眠気と、配信。一体どちらの命に従えば良いのかと、城島は一瞬迷った。ふとしたジレンマが、後で大きな過ちを生むことになる。逆もまた然りだ。城島は迷った挙句、眠気の方をとることにした。閲覧者数の減少とコメント数が増えないことが理由だった。

「すいません、皆さん。急に眠くなってしまいまして。カウントダウンまで行うつもりだったんですが、宣言通りにできなくなってすいません。やる気が無かったわけじゃないんですけどね。本当にごめんなさい。それでは皆さん、良いお年を!」

 右の掌を顔の横に持っていき、カメラの前でお別れの合図をする。最後くらい何かコメントがくるかと期待したのだが、結局、自分の顔の前に言葉が流れてくることはなかった。

 生放送が終了すれば、沈黙が再度彼を取り囲む。あと五分で新年を迎えるというのに、どうして動画を止めてしまったのか。本当に観る人がいないのと、急に襲ってきた眠気だけが原因なのか。聞こえるようになった空気の音が、城島に卑しく語りかける。もう、戻ってはこないのだ、と。どんなに馬鹿をやってもあの時の青春はやってこない。楽しかった日々は手を振ってくれない。こちらに来てはくれない。

 パソコンの電源を落として、そのまま自分の世界へと潜りこんだ。隠れる場所を探している。糾弾されない場所を、花が広がっている場所を。



 栞奈はスマートフォンをスリープ状態にすると、静かに相棒をベッドに置いた。人気のない生放送の動画が年を越す前に終わってしまった。配信者は眠気を理由で切ってしまったが、果たして本当にそうだろうか。もっと何か別の理由があるのではないか。栞奈はそう考えたが、面倒臭くなって、すぐに考えるのを止めてしまった。憶測を広げたところで自分には関係のない話だ。

(栞奈! 栞奈!)

 ドアを通じて、悪夢は彼女のもとにやってくる。轟音のようなそうでないような。栞奈は耳を塞ぐこともせず、ただそのまま部屋の白い壁を見ていた。茫然としながら必死にアイデンティティを探していた。自分が生まれた意味を探していた。

 誰かに声をかけられたような気がして、栞奈は声のする方に視線を向けた。声がしたのは上の方だった。その方向には時計が掛けられていた。

 午前0時1分。

 すぐに目の前のことを認識できず、半ば意識は自分の方へと向いたまま、栞奈はしばらく視線を動かさずそのままにしていた。時計の秒針が一周回り、ようやく彼女は現在流れている時間の正体を知った。

 年が開けてしまった。

 いらない哀愁が彼女の前に漂っては消える。消えてはいけない自分も徐々にその姿を失っていく。そんな自分を激しく慚愧した。

 もう年を迎えてしまった今、自分を動かせるものは自分しかいない。どうでもいいという言葉は、もう捨ててしまいたいけれど……。それが本当に出来るのかいまいち自信が持てない。

 ベッドから立ち上がり、ドアの方へと歩いていく。過去の自分に見せるように、年を越す前の自分に見せつけるように。

 力なく金属のドアノブを触る。左に回すか、右に回すか、一瞬迷った後で彼女はようやく扉を開けた。

 劇的な光。そこまでの強い光ではなかったが。

 冷たい廊下を歩き、階段の前まで何とか歩いてみせる。下に繋がるステップを覗いたときに思わず足がすくんだ。この階段を下りるか下りないかで状況や未来は大きく違ってくる。ふとしたジレンマが、後で大きな過ちを生むことになる。栞奈は髪が抜けるくらいに激しく頭を掻いた。やはりダメなのだ。やはりこの未熟な心では有言実行など叶わないのだ。

 壁に背中をつけて、そのまま体育座りをする。しばらく心に希望の光を灯す。すぐに手を団扇にしてその灯を消す。

 いつになったら、私は変われるのだろう。いつになったら、私は『普通』になれるのだろう。



 老夫婦はテレビの音量を小さめにすると、テーブルに置かれた質素な食事を食べながら、2015年の抱負について話していた。抱負といっても、明確な計画というものはなく、単なる曖昧な理想だけであった。

 ドラマが、先ほどから流れている。内容は年越しを目の前にして、家族、男、少女の三人の心中を描いたものである。ドラマのタイトルは『年越ゆ』と、何のひねりもない。内容が、このめでたい時間で放送するのには合わない感じであり、それが逆に新鮮味を思わせた。

「よく、わからんな。何が言いたいのか」

 老人が自分の妻に早口で愚痴を吐いた。ドラマの感想を言っている。ざるに乗った年越しそばが、まだ少し残っていた。

 婆はつゆの中のそばを少し口に入れ、唾と一緒に飲み込むと、夫に聞こえないようにそっと溜息をついた。

「もう、私たちが好きだった時代は終わったんですよ。これからは若い人たちの時代。テレビもそれに合わせていっているのでしょう。私たちがついていけないのも無理はありませんよ」

 家内にそう言われ、老人は腕を組んだ。「本当にそういうもんか? 最近の若い奴らはテレビを見なくなっていると聞くぞ。少子高齢化なんだし、テレビ局は俺らのために作るのが普通じゃないのか」

「私に言われましても分かりませんよ、そんなこと。それよりも、もうすぐで今年が終わります」

「本当だ。あと五分しかない」

「公共放送に変えましょう。私たちにはあっちのほうが合っていますよ」

 老爺は静かに頷くと、テーブルに置かれたリモコンを持ち、テレビのチャンネルを変えた。この八十年で様々なものができ、様々なものが無くなっていった。時代の進みは日進月歩というが、変わったのは外見だけで、実は何も変わっていないと彼は思っていた。どんなに時が流れても、人の本質に変化はない。食わなければ死ぬし、淋しいときは愛情にすがりたがる。隣の糂汰味噌で妬むことはあるし、政治家が好き勝手なことをすれば怒りが生まれる。年をとれば温厚な気持ちになると言われたが、それが間違いだということを自分の身をもって証明することができた。何も変わっていないし、何も変わってほしくない。

「また、死に近づいたというわけか」彼はぼそっと呟いた。妻が聞いてくれればそれでもいいが、聞いてくれなくても別に良かった。

 しかし、婆はテレビを見ながら、彼と同じようにぼそっとその言葉に返した。

「いいじゃないですか、それでも。もう、十分楽しんだじゃありませんか」

 彼は少し唸り、腕を組んだ。視線の向こうでは僧侶が鐘をつかんとしているところだった。

 もうすぐ、2014年が終わる。そのことに彼は少しも感慨を覚えていなかった。だが徐々に忍び寄る何らかの足音は感じていた。この足音は一体何であるのか、それは彼自身にも分からなかったが、その足音が徐々に大きくなることに微妙な気持ちを抱いているのは否めなかった。

「そうだと…… いいんだけどな」彼は言った。口は少し開けていたが、唇はほとんど動いていなかった。


 画面の向こうから小さな音が鳴る。

 その音を聞いたことによって、ある人は癒され、ある人は無念を感じ、またある人は黙して目を閉じる。

 それでも一つの大きな事実だけは変わることがない。

 さよなら、2014年。ようこそ、2015年。

 さよなら、2014年。ようこそ、2015年。

 明けましておめでとうございます。

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